第五章 ③
「どういう意味だ?」
尖った声で低く尋ねれば、小さな溜息がこぼれた。
「…………分かっていますよ。綾女さま。ただちょっと言ってみただけですって」
「ふーん。私はお前が和国語を間違えたのかと思ったが」
綾女は平静を装って、さらりと言った。
失神している志乃が起きないことが幸いなのか、複雑だった。
もしも、志乃が起きていたら、無駄に後押しされたかもしれなかった。
なぜ、こうも綾女の周囲は、綾女に甘いのか……。
「半分、本気だったんですが……」
「何か言ったか?」
「…………いや、あの……ですね。もし、宜しければ、私が安能の使者に行きましょうか? 物珍しい異国人に安能が興味を抱くかもしれません。貴方は青玄様がいる早於城に行けば良いじゃないですか?」
「余所見をするな。アラン。真っ直ぐ進め」
「分かっていますって」
「安能は女だけではなく、男も好む傾向があるようだが?」
「…………げっ」
嫌味なくらい素直なアランの態度に、綾女は相好を崩した。
アランの腰に回している両手に力をこめる。
少しだけ……、アランが驚いたことが、皮膚を通して綾女に伝わってきた。
「お前は自分が何を言っているか分かっているのか? お前は、総部の人間ではないのだぞ」
「それは、まあ、そうですけど。まあ、ここまで来てしまったら……、ねえ?」
「私はな。アラン。死ぬためにいくのではないのだぞ。総部を活かすために行くのだ」
「活かす……。良い言葉ですね。でも、そのために貴方は自分の人生を捧げてしまうというのですか? たった一度きりの貴重な貴方の人生です。他に道があるのなら試してみるべきでしょう?」
「仕方ないだろう。もう決めたことなんだ。後悔はしないさ。どんな人生でも、楽しむ気力を、私は持っているつもりだ」
「老いぼれに身を捧げることが、貴方の楽しみになるとは思えません」
「直裁すぎるな」
「本当のことですから」
先ほどまで弱々しかったアランの声音に、棘のような皮肉が混じり始めた。
存外、この口調が彼の本当の姿なのかもしれない。
「しかし、私が安能の目に適うかどうかは分からないじゃないか?」
「確かに、そうかもしれませんが。しかし、そうだとしたら、貴方は尼寺に行くのか、その場で処刑か、どちらにしても、最高の結末は迎えませんよね?」
「……まあ、処刑は困るな。それでは、和睦につながらないだろう。女一人の命で国を安堵すると約束するほど、甘くはない」
「別に、言ってみただけですよ。怖がらないから、本当につまらないんです。……貴方という人は」
アランはゆっくりと進んでいた。
そこに、できるだけ、先に進みたくない、彼の意思を感じたから、綾女はおかしくなってしまった。
……何だ。
彼は皮肉っているわけではなのだ。
……ただ、単純に拗ねているだけなのだ。
「十中八九、貴方は側室に迎えられますよ。安心できないことに」
「どうして、そう言い切れるんだ?」
「……分かりませんか? 自分の容姿が?」
アランは、何か言いたげだ。しかし、むっつり黙って前に進んでいる。
彼の本音は、なんとなく綾女にも分かっていた。
……何をどうしようと、総部はなくなる。
それなのに、安能に自ら捕らわれに行こうとしている綾女が信じられないのだろう。
……もしも、ここで綾女がアランを頼って、一緒にこの場から逃げたとしたら、その先に何が待っているのだろうか?
そんな益体もないことを考えてしまいそうで、怖くなる。
…………絶対、実行できるはずもないのに……。
「そろそろだな」
「えっ?」
周囲が明るい。
綾女は夜目がきくほうではないのだが、今夜は月明かりが綾女の視界を広げていた。
荒涼とした丘に、切り立った崖。
ここが何処なのか、大体、察しがつく。
このまま真っ直ぐ行けば、総部の居城。早於城に到着するだろう。そして、早於城の前には、海が広がっている。
宗近から聞いた安能の陣の場所は、城の真横の小さな山だ。
「とにかく、お前は、安全な所に志乃を届けてくれないか。滝王城に戻っても構わない」
「綾女様? それは、一体どういうことですか」
アランは、呆然としながら、馬を止めた。
綾女は、その隙を待っていたのだ。
志乃を強引にアランに添わせて、馬から、飛び降りる。
「ちょっ、ちょっと、待ってください! 綾女さま!」
アランが目を点にしている。
この男の慌てふためく様を目にしたのは、綾女にとって初めてだった。
それだけでも、楽しかった。
「ここからは大丈夫だ。私は一人で行ける」
「何が大丈夫なんですか? こんな夜更けに女性一人で。まず安能にたどり着く前に、危険ですよ」
「こう見えても、男装はしているのだ。夜だし、誰も私が女だとは思わないだろう」
「さっき、襲われていたじゃないですか?」
「あれは、有路殿の手先なんだろう?」
アランは、見るからに困惑していた。
気を失っている志乃を抱えているせいか、動けないのだ。
「青玄様にお会いしたら、よろしく伝えておいてくれ」
「そんなこと、自分で言ってください。貴方が幸せになってくれないのなら、今まで私がしてきたことがみんな無駄になるじゃないですか?」
「何だ。すべて、私のためだったとでも言うのか?」
「ええ。全部、貴方のために決まっているじゃないですか!」
「そんなことを躊躇なく言ってくる男なんぞ信用できんな」
「私が実力行使したところで、貴方に殺されてしまうのがオチでしょう?」
「お前、本当に和国語が上手いな」
綾女は、久々に声を上げて、笑った。しかし、アランは笑っていなかった。
本当に今夜は珍しい。
そう思う。
アランの心の底からの真面目な顔を見ることが出来たのだ。おかしなことが目白押しだった。
綾女は、哄笑を、微笑みに変えた。
「ありがとう。アラン。私はお前に会えて良かったと本当に思っている」
今まで、綾女の中心は、青玄とその周辺だけだった。
けれど、アランが来て、いろんな世界を知った。邑州だけではない和国よりも、広い世界。海の果ての国があることを知った。
そして、何より、こんな金髪で空色の瞳をした男を、綾女は生涯目にしないだろうと確信している。
言いたいことを口にすることができて、後悔なんてないはずなのに、それなのに、どうしてだろう。
もう二度と会えないのが、辛かった。
ずっと近くにいても良いとすら、思ってしまうくらい、綾女はアランに見惚れていたのだ。
「じゃあな」
綾女は、あっさり言い捨てた。
「あ、綾女様!!」
背中にアランの声が突き刺さる。
一方的に会話を打ち切って、綾女は夜の深い獣道の中に消えた。