第一章 ①
「天狼」とは、魔物と神の中間にある「妖し」のことをいう。
姿形は、人間に近いが、髪は金髪、尻尾を生やし、暗がりの中で両目を妖しく光らせる。
背は高く、自分に対して不遜な行いをした者の肉を、容赦なく食らうらしい。
――人ではないモノ。
だが、それは山の恐怖を人に伝えるための手段として伝わった作り話で、迷信だと斎条 綾女は思っていた。
いずれにしても、昔から語り継がれていたことだ。
何故、今更になって、村人たちが騒ぎ立てているのか分からなかった。
だから……。
綾女は確かめようと思った。
噂の正体が、気になって仕方なかったのだ。これほどまでに、大騒ぎしているということは、きっと、何かが鷲尾の山に誰かいるはずなのだ。
山頂には、さすがに行くことはなかったが、綾女は毎日のように、麓付近を念入りに歩いた。
腕には自信があった。
男にも、劣らないと信じていた。
だから、もしも天狼が現われたら、力技で捕らえてやろうと、綾女は考えていた。
どうせ、何処かの落ち延びてきた武者が山に棲み付いたのだろう。
武者を捕らえて、村人に引き渡せば一件落着だ。
その程度の認識だった。
それが……、
何故か、こういうことになってしまった。
「まさか、こんなことになるとは……。いや、……もう何にどう、驚けば良いのやら?」
「驚くのは勝手ですけど、とりあえず、テンローの意味を教えてくれませんか?」
男は、能天気に言った。
男の名前は、アランというらしい。
変な名前だと思ったが、綾女は異人の名前など知らないので、そういう名前もあるということで深く考えないようにしている。
アランは小気味良い早さで、綾女に言葉を返してくる。
恐ろしいくらい、流暢にこの国の言葉を操っているようだ。
両手は縄で拘束しているので、身動きは取れないはずだ。
これから、何処に向かうかも、告げていないのに、アランは逃げない。
……この無駄な余裕は何だろう。
「天狼」ではなかった。
いや、しかし、ある意味こいつは天狼よりも恐ろしいものだった。
「はあ……」
綾女は大きく溜息を吐いた。
「綾女様。どうなさるつもりですか?」
従者で幼馴染みの志乃が着物の袖を額に押し付けて、泣く振りをしている。
口調に少し棘があるのは、綾女の暴走を責めているからだ。
「どうもこうもないだろう。とりあえず青玄様の指示を待たないと」
「青玄様、どう思われるのでしょうね?」
「……言わないでくれ」
綾女は、主君・総部 青玄の精悍な顔を思い出していた。
きっと、腹を抱えて面白がるか、悲しい瞳で綾女を見るか、そのどちらかだ。
「誰にも、迷惑をかけたくないから、綾女様は山の中に自ら入っていかれたのですよね。誰の手も借りずに無事天狼を捕らえたら、極秘裏に村人に引き渡すのだと……?」
「仕方ないだろう。まさか、こんな所に異国の人間がいるなんて思わないんだから!」
「あらあら。大変なコトになりましたね?」
「お前のせいだろ!」
激しく突っ込んだところで、男の表情まで窺えないので、かえって鬱憤がたまる。
アランは、綾女が見たこともない空色の瞳と、金色の髪をしていた。
そのままでは目立つので、もう一度編み笠を被らせたが、並みの和国人よりはるかに高い身長は隠せない。
遠巻きに眺めている村人たちは、いよいよ、お転婆姫が天狼を生け捕りにしたのだと、噂をしているようだった。
……もう、完璧にばれている。
一応、これで村の方は落ち着くだろう。
だが、綾女の無茶は、皆の知るところになってしまったらしい。
説教で済めばまだ良いが、それ以上の仕置きが待っていたら、かなり辛い。
これで何度目だろうか……?
「私はただの旅の異人です。清らかな山の空気に導かれて、あの山で少しの間、過ごさせてもらっただけですよ。別に悪いことはしていないはずですけど?」
「旅の異人だと、自分で名乗っているほうが怪しい」
もう、この男が何を喋ったところで、今の綾女には、胡散臭くしか思えなかった。
不機嫌な綾女の態度に、アランは小首を傾げる。
無駄に優しい志乃が諭すように尋ねた。
「誰の許可を取って、あそこに貴方はいたのです?」
「許可? あの山は誰かのモノなのですか?」
きょとんとしているアランの様子に、綾女は引っ張っていた縄を手繰り寄せて、アランを自分より前面に押し出した。
「見えないか?」
鷲尾の山とは反対方面を指差す。
「見え……?」
アランが微かに息を呑んだことを、綾女は気付いた。
「城……?」
山裾に沿うようにして、石垣が築かれている。
小山全体が砦となっていて、山頂に白亜の建物が見え隠れしていた。
「そうだ。あれが滝王城。主は総部 青玄様だ。……あの山は青玄さまの領地の一部でもある」
「はあ……。それは、知りませんでしたね」
特に動揺することなく、アランは編み笠を少し上げた。
空の色に近い、薄い青の瞳を、細めている。
図体が大きいわりには、撫で肩で、中性的な顔立ちをしている。
……軟弱そうだ。
男の力は強い。しかし、綾女はこの男に負ける気がしなかった。
そもそも、異人に武芸が分かるものなのか?
「城ですか……。それも、ステキですね。実は私城の中に入ったことってないのですよ。入れてくれるのですか? 楽しみだなあ。ささっ。早く、行きましょう」
アランは逆に縄を引っ張って、綾女を急かす。
何をしているんだ。……この男は。
綾女は、捕らえたくせに後悔をしていた。
これが、村人が恐れていた「天狼」の正体なのか。
「……必死になるんじゃなかった」
「貴方、分かっていますか? 青玄様の判断によっては、処刑されても不思議ではないんですよ」
粘り強い志乃が必死でアランに説明する。……が。
「ショケイ? その言葉の意味を教えてくれますか?」
思わず、こちらが脱力してしまうような調子だ。
「都合が悪くなると、異人に戻るようだな」
出会った時に、いっそ斬っておけば良かった。
これから、この男を引き摺って青玄のもとに行かなければならないなんて、悪夢だった。
……とはいえ、この男をここで放すわけにはいかない。
「旅の異人が、わざわざ邑州に来る理由が分からん。今、この地がどのような状態にあるのか、知っているのか?」
「さあ?」
「知らないわけがなかろう? 正直に言ったらどうだ?」
「綾女様!」
背後から蹄鉄の音と同時に、男の声がやって来た。
「有路様!?」
速度を出していた馬の手綱をきつく引き、仰け反る馬を宥める。
壮年の男が、馬上から綾女を見下ろしていた。
「どうされたのです? その男は?」
「……ああ」
綾女は、憂鬱になりながら隣の男を見遣る。
「私は、旅の……うっ!」
何故か、自ら名乗りを上げようとしたアランの頭を、綾女は軽く叩いた。
無視しよう……。
そう決めると、即座に話を切り替える。
「有路様こそ、慌ててどうされたのです? しかも、お一人で。九鬼城はどうされたのです?」
有路は、邑州の領土において、支城である九鬼城の主だ。
使いの人間を、青玄に送ることがあっても、自らが馬に跨り、わざわざ滝王城にやってくるはずがない。
「ああ、急いでいたのでな。供の者は後から来る」
黒々とした顎鬚と、着物を身につけていても分かる均整のとれた体は日頃から鍛えている証拠だ。
さすが、勇猛果敢で名高い有路 孟沢だ。
主に先を越されてしまったとあっては、従者の面目も丸つぶれである。
「あの……、有路様。それで、用件というのは?」
「ああ」
有路は、綾女の問いかけに、一瞬躊躇したようだが、すぐに苦笑した。
「安能がな……」
小さな瞳を、鷲尾山の向こうに光らせた。
……きっと。
有路が山の向こうに、見据えるのは、洋州・箕立城。
安能 時秀の拠点に違いないはずだ。