第四章 ③
宗近に呼び出された綾女が、城の下層部に戻ってきたのは、夜半になってからだった。
疲れ果てた村人や雑兵たちは、とっくに雑魚寝をしていて、部屋には蝋燭の明かりもない。しかし、大きく設けられている格子越しの月が、お互いの顔を判別できるほどの明かりを供給していた。
綾女は、暗闇の中でも、アランが認識できるほど、目が虚ろで、生気がなかった。
「あの、…………綾女様?」
「何だ?」
アランは、炊き出しの握り飯を一つ、綾女に差し出した。
「今回の件は、その何というか、私の認識が甘かったせいもありましてね。でも、犠牲になった方の家族も、皆、綾女様を恨んではなくて……、むしろ、よく頑張ったって、泣きながらですね……。その、みんな感謝しているというか?」
「微妙な慰めは良いんだ。アラン」
綾女は、握り飯を見向きもしない。
食欲旺盛、悪く言えば食い意地の張っている綾女は、三度の飯はちゃんと食べる。
それなのに……。
…………落ち込んでいる。
分かりきったことだった。
彼女は、男手のほとんどない城で、年端もいかない姫君を毅然と守ってきたのだ。
今日、犯してしまった失態と、張りつめていた緊張の糸がぷつりと消えて、途方に暮れている。
どうしたら良い?
アランには分からなかった。
戦う方法は知っていても、慰める方法を自分は知らない。
こんな時、青玄がいたら、彼女は思いのまま泣くことができるのだろうか?
そんなことを考えて、微妙に腹を立てている自分も気味が悪かった。
「もしかして、怪我でもしちゃったのですか?」
本能に従って、綾女の藤色の衣の袖をめくろうとすると、握り拳で殴られた。
「いたたっ」
まあ、そうくるだろう。
仕方ないけれど。
しかし、その次の瞬間が予想外だった。
派手な音を聞きつけて、怪我人を見て回っていたジョアンが、燭台の灯を掲げて、こちらにやって来たのだった。
「…………怪我ですか?」
「私はこの程度で怪我はしませんよ。今ので愛は感じましたけどね」
「アラン。お前の怪我は、私には手におえません。私が訊いたのは、彼女の方ですよ」
ジョアンが脱力しながら言い放つ。
今までずっと怪我人を見ていたせいか、修道士というより、すっかり医者の顔になっていた。
多少、彼が医学の心得を持っていることは、アランも知っていたが、まさか、ここまで本格的に介入してくるとは、さすがにアランも思っていなかった。
「私は怪我なんて負ってない……」
断固として否定する綾女の瞳を、ジョアンはじっと眺めながら、顎をさすった。
「しかし、顔色が悪い。貧血を起こしているのかもしれませんね」
「大丈夫だ。私は」
綾女は力ない微笑で、頭を横に振った。
「それよりも。あんたのことだ。ジョアン」
「ハイ?」
「私があんたとまともに話すのは、初めてだと思う。私が話しかけても、あんたは、いつものらくらりと、はぐらかしていたから……
「いえいえ」
ジョアンは、周囲をうかがってから、声を潜めた。
「綾女様があまりにもお美しいので、近づいてはいけないような気がしていたのですよ」
「ぷっ」
何を言っているのだろう。
アランは、吹き出した。
ジョアンが女性にそのようなことをわざわざ告げるのを耳にしたのは、初めてだった。それに、あれだけ男勝りの彼女のことを警戒していたではないか。
こんな歯の浮いたような世辞を、よりにもよって彼が綾女に向かって言うなんて、アランには笑えて仕方なかった。
「ちょっと、笑いすぎだぞ。アラン!」
角度を変えて、綾女の拳がアランの側頭部を襲う。
それを見なかったことにして、なおもジョアンは気障な台詞を繰り出した。
「アランが何と言ったところで、私はお美しいと思いますよ。安能様の箕立城でいろんな女性を見ましたが……、その方達よりも、貴方は美しいと思いますね」
「そういえば、先日、安能の使者に会って分かった。……安能は、相当、女が好きらしいな」
綾女は、考え込むように呟いた。
「私も詳しくは知りませんが、奥方様以外にも三十人以上の女性を傍に置いているようですね」
「…………そうか」
「ジョアン?」
アランは、ジョアンの腕を引っ張った。
いよいよ、笑えなくなってきた。
どうして?
そんなことを、綾女に言うのか?
ジョアンは修道士で、神に仕えている。
俗っぽい話はご法度だし、自身もそれを心掛けていたではないか……。
怪訝なアランの瞳に気付きながらも、ジョアンは微笑するだけだった。
綾女も変だ。何かを、黙々と考えている。
しかし、その答えは速やかに発覚した。
――――翌日、綾女が姿を消したのだった。