第三章 ⑤
「松原の軍勢は、引き上げているようだ」
「それは、良かった」
アランは、相変わらず物見櫓にいた。
高い所にいた方が、情報がつかめるという話だが、今の綾女はこの男を信じるしかなかった。
「そんなにたいした計画には思えなかったが、驚くものなのかな?」
「地の利というのは、大切なことみたいですよ。綾女様」
アランは、四角い見張り窓から目を放して、その場に座った。
眼鏡を黒衣で拭いている。
「松原さんは、凄い武人らしいので。この城に総攻撃はかけてこないでしょう。山登るのは大変だし、どの道もぬかるんで安定していない。兵力は分散されると思ったんです」
「そんな深い意味があったのか。私は、ただ単純に奇襲をかけただけだと思っていたのだが?」
「ただの奇襲なんて、この世に存在しているはずないじゃないですか。これでも、私は、いろんな国を回ってきてますからね」
アランは、悪戯がうまくいった時の子供のような笑みを浮かべていた。
「実際、この山城は、総部のご先祖さまの叡智が結集している。村には田畑がありますけど、段差が激しく歩くのに安定しない。細い道ばかりで大きな道がないし、でも細い道を抜けなければ、滝王城に到り着くことはできないんです」
「だから、三ヶ所に奇襲隊を設けたのか?」
「細い道を歩くときは、どんなに大人数でも数人の隊列しか出来ない。追い詰めることは可能だし、こちらが負けたとしても撤退するのに苦労はない。地元ですから、山道とはいえ、抜け道をみんな知っている」
「村人を使うと聞いた時には、殺してやろうかと思ったが」
「……ああ、殺そうと思ってました? やっぱり?」
綾女は、目を見張る思いだった。
邑州の村人たちを、続々と城内に呼び入れた。
綾女は、あちこちの村を回り、邑州がいよいよ戦場になることと、どうなるか分からないので、邑州から逃れても構わないと伝えた。
しかし、村人たちのほとんどが城に入った。
行くあてがない人間が大部分で、どうせ逃げても殺されるくらいなら……と、兵糧のある城に一斉に入ってきた。
年明けから、戦争の気配は濃くなっていたし、皆何処かで覚悟をしていたのかもしれない。
――それに、青玄は、村人たちから慕われていた。
アランは、それを見事に利用した。逃げ込んできた村人たちを、懸命に鼓舞した。
「青玄様のために、戦おう」
……と。
そして、異国人であり、青玄の命を狙っていた自分なんかを、青玄は快く許してくれたのだと、やや誇張しながら語った。村人たちはやる気を出し、武器の使い方を教えると、すぐに覚えた。
もはや、綾女も、布由も、青玄から留守をまかされている城代も、何も言えなくなっていた。
そうして、アランは奇襲作戦を仕掛けた。
……綾女にとって、目まぐるしい展開だった。
間抜けな異国人として、馬鹿にしていたのに……。
驚くべき早さで、アランの存在は、滝王城にとって必要不可欠になってしまった。
「お前、兄さんが帰ってきただろう?」
「はあ、えっとジョアンなら、今頃、怪我人の世話でもしているんじゃないですか? 幸い死者はでなかったようだし」
アランは、空色の瞳を瞬きさせた。綾女の言いたいことが分からないらしい。
だから、綾女は言葉を重ねた。
「お前がここにいる理由なんて何処にもないじゃないか? 私は……」
「私がここに残ることに、何か裏があるのかって考えていらっしゃったんでしょう?」
「何で、当ててしまうんだ?」
「珍しい。褒めてくれるのですか」
アランは、疲れの残る顔を少しだけ緩めた。綾女は、言い返すことが出来ない。
その通りだった。
「すまない」
「どうして? 謝るほどのことではないではないですか。私だって、どうしてここに残っているんだか、分からないんですから……」
アランは、自分でも困惑しているようだった。生欠伸をしながら、ゆったりと言う。
「悲しいことに、私には目的が何もないんですよ。誰かに言われて、言うことをきいているつもりもないんです。ただ、私はここに残ることにしちゃった。それだけなんです」
「しちゃったって……?」
「まあ、兄は、ちょっと不服そうですけどね」
「当然だろ。いい加減にしないと、関係もないのに、お前は死ぬぞ。絶対、殺される」
「絶対って……。別に。貴方に捕まった時点で処刑されるかもしれない命だったわけだし、和国に来るまでの旅も命賭けだったし。今更じたばたしたって始まらないじゃないですか」
「アラン……」
息が詰まった。今度こそ素直に礼を言おうと、口を開いた。
……が、直ぐにアランに読まれた。
「そういうわけで、謝られるのも、礼を言われるのも、まだ早いんですよ。綾女様」
アランは腕を組んだまま、首を回して、頭を壁にぶつけた。
「イタッ」
「何をやっているんだ」
綾女が呆れ顔で、アランに近づくと、アランは空色の瞳を刃のように細めて顔を上げた。
「…………まだ戦いは続いているんです。にわか仕込みが通用する期間は、長くないんですよ。これから嵐が来ますけど……」
「あ、嵐だと?」
「風が水気を含んでいますし、雲が違う」
四角い見張り窓を、アランは指差した。
綾女がアランの指し示すままに、窓を覗き込むと、すぐ至近距離にアランがいた。
「あの、黒い雲が重要です」
「そ、そうなのか。よく知っているな。お前」
「土とくれば、雲でしょう。雲も研究する価値はあるんですよ」
「雲……ねえ?」
綾女は、言われるままに分厚い雲を見てはいたが、気はそぞろだった。
そんなに、風呂には入ってないはずだ。……なのに、アランは良い香りがする。
甘い……。花のような香りだ。
……どうしてだろう?
「ああ、もう!」
今は戦時中だ。余計なことを考えている時間はない。綾女は、わざと頭を窓枠に打ちつけた。
「いきなり、どうしたんです?」
アランは本当に不思議そうに、目を見張っていた。
「べ、別に。頭が滑ったんだ」
「そんなこともあるんですね」
目を丸くしたまま、アランはすぐさま話題を戻した。
「嵐の間は、松原さんも、手が出せないでしょうからね。嵐が去ってから、水がはけるまで、四、五日と考えたら、もって、二十日。それまでに救援がこなければ、大変ですね」
「……青玄様は、遅いな」
綾女は天井を見上げた。
今頃、どうしているだろうか。毎日必死で、青玄や、父のことを忘れかけてしまっている自分が不思議だった。今頃、総部本家も、安能に攻められているのかもしれない。
体の弱い久玄の代理を務めることになっているのなら、青玄は大変だろう。
「気になりますか? 青玄さまのことが……」
「…………気になるに決まっているだろう」
即答して向き直れば、アランはすぐさま顔をそらした。
「…………何だ? 気持ち悪いな」
「あの方のこととなると、素直なんだなあ……と思いまして」
「私はいつも素直だが?」
正直すぎるから、じゃじゃ馬姫などと呼ばれているのではないか……。
そう続けようとしたのに、アランは待ってくれなかった。
「私のこととなると、綾女様は少し強張った顔をされます」
「……それは、その……、私が異国人をよく知らないだけだ」
「そうでしょうか……ね。異国人とはいえ、ジョアンと私に向ける貴方の顔は違っているように思います。まず私が近づくと、貴方、逃げるじゃないですか?」
「逃げてなんかない」
「逃げていますよ。手の甲に口づけられたことがそんなにも……」
「ああっ! やめろ」
耳を両手で押さえたら、アランは視線を逸らしたままで、小さく笑っていた。
からかわれたのだ。
…………いや。
そうじゃない。
その時になって、綾女はアランの真意に気が付いた。
きっと、……アランは綾女を落ち着かせようとしていたのだ。
異国人のくせに、一体どうして、こうも人の機微に敏いのだろう。
腹が立つくらいに……。
「…………でも、綾女様。青玄様は」
「何だ、アラン?」
だから、綾女はその言葉を聞かなかったことにした。
聞いてしまった方がアランが困ると思ったから……。
「いえ、何でも」
案の定、アランは話題をそらすように、再び窓の外に顔を出して、呟いた。
「…………雨が……降ってきましたよ」
―――そうして。
嵐が来た。