第三章 ④
正直なところ、松原 信繁は、まったく交戦意欲がなかった。
何故、自分が女性や子供、老人しかいない城を先回りして落とさなければならないのか?
安能は、精鋭を松原に預けて行ったので、総攻撃をかければ堅固な山城である滝王城もひとたまりもないだろう。
分かっている。
安能は、松原を畏怖しているのだ。
松原の力は増強しつつある。安能が松原に与えると密約してくれた邑州も、高州も、土地は広いが、都からは遠い。
今のうちに、残酷な作戦の指揮者として、邑州の民の好感度を下げておこうという作戦なのだろう。
――浅知恵だ。
……とはいえ、手を抜いていることが露見してしまえば、松原の立場はない。
現在の松原の実力では、安能には敵わないのだ。攻めろと言われれば、見かけだけでも、粛々と従うしかない。
都に程近い安能本隊の宿営地から、正式に命令を出されたのが十日前。
即座に出発して、山深い邑州に到着した。
ぬかるんだ道が多く、何とか探し出した鷲尾山近くの丘陵に、陣を敷いた。
これからが、気が重い仕事だった。娘のいる城を攻めなければならないのだ。
話に聞けば、娘の布由は、青玄を大層慕っているという。
「……それで、どうなのだ?」
「戦況ですか?」
老臣が尋ねた。
「違う」と、松原は一蹴する。
松原は慎重に手を抜きながら、滝王城に兵を向けている。
和議の使者は送ったが、松原の家臣ではなく、安能の手下を行かせたので、無理難題を総部に押し付けて、安能の思惑通り、拒否されて帰ってきた。
常識を踏まえ、礼儀を貫きながら、松原は戦を仕掛けたいと願っていた。
しかし、安能から他国の兵士を預かっている身だ。
松原の意思では、どうにもならない。
結局、松原は安能に操られているだけなのだ。
だから、これは松原の戦いではない。安能の戦いだ。
戦況なんぞは、どうでも良かった。
老臣が気にかけていることなど、松原にとっては何の興味もないことだった。
松原は、総部より、数倍の兵力を持っている。
内情はどうあれ、これだけの軍勢が負けるはずがないと、確信を持っていた。
松原にとって、重要なのは勝ち方であり、娘の安否だった。
「布由が気になるのだ」
松原は、苛立ちながらも声を潜めた。
重い朱塗りの甲冑がかしゃりと音を立てる。
警戒したせいで、その音にかき消されるほどの小声となってしまった。
いくら、本陣に二人きりだったとしても、戦場で娘を案じている姿を誰かに知られるわけにはいかなかったのだが、さすが長年付き添っているだけのことはある。老臣は確りと聞いていた。
「……残念ですが、いまだ、連絡はありません」
「あの異国人、一人では、心もとないと密かに犬をつけたのだが……?」
「殿がおっしゃる、犬という人物は、帰ってきましたが?」
「何?」
「滝王城近くまでは、潜入することが出来たそうですが、おかしな金髪の異国人に見付かって返されたそうです」
「金髪?」
松原は顎鬚を撫でた。
頭が痛いのは、重たい兜をかぶっていたせいだと思っていたが、絶対に心労だ。……ある種の悟りを開いた。
「それは、あの異国人の弟だろう。まさか髪の色が違うとは思わなかったが?」
「……では?」
「何を考えておるのか? ジョアンは滝王城には入っているのだろう。しかし、まだ布由は脱出をしていない」
「……姫様は、逃げるつもりなど、ないのではないですか?」
老臣の光っている額を、松原は容赦なく叩いた。
「こんなことなら、嫁がせるんじゃなかったな」
「本当に。……一斉攻撃を仕掛ければ、明日には城は落ちてしまうでしょう」
叩かれたくせに、益々憂いを深めることを口にする家臣だ。松原は、老臣を睥睨した。
「それを、私は案じているのだ」
「申し上げます!」
甲冑姿の若武者が、重々しい音を立てて跪いた。
本陣を覆っていた白布が荒れ始めた風に舞う。
「全軍、敵方の猛撃で敗走をはじめています!」
「何だと!?」
松原は、刹那に椅子から立ち上がった。




