第三章 ③
やはり、滝王城が攻撃されるのは確かなようだ。
綾女とて、可能性をまったく否定していたわけではない。
いつか、城は攻められるだろうと思っていた。
しかし、総部本家の早於城や、他の支城を攻略するよりも前に、安能がここに兵を向けてくるとは、考えもしなかった。
……まさか。本当に。
何度、志乃から事情を聞いても、信じられなかった。
しかし、安能からの正式な和議の使者は、その日のうちにやって来た。
――夕刻。
橙色に染まっている滝王城の対面の間には、安能方の使者と青玄の妻である布由。滝王城に残っている重臣が集っていた。
そして、その中に、綾女も特別に同席することを許された。
布由は、まだ幼く、補佐役が必要だということだったが、女子も合わせて、これだけしか主だった人間がいないということを、敵方に見せつけるための老臣なりの窮策のようでもあった。
「…………で」
使者は、いきなり高圧的に切り出した。
「早速だが、戦か、和議か……、即刻決めて頂きたい」
絵に描いたかのように、高慢な男だった。
蛙のような顔に、短い手足。使者のくせに、普段着のような粗末な着物でやって来た。
眠そうな目を瞬かせながら、布由の隣に座る綾女を、舐めるように見ている。
布由は、男の威圧感に慄きながらも、懸命に言葉を搾り出していた。
「ここは、総部 青玄様の主城。私は青玄様から留守をまかされている。その件については、主君である青玄様にお伝えしなければならない。だから、すぐには決められないのだ」
それは、皆で相談して先ほど考えた言い訳だった。
少しでも時間稼ぎをしたい。
ここで、滝王城を、安能にむざむざやりたくはなかった。
もしかしたら、青玄だって高州から急いで帰って来るかもしれないのだ。
しかし、使者はあからさまに鼻で嗤った。
「即決ですな。譲れません。長引けば攻撃をしろとの殿の仰せです」
「父上に申し伝えろ。私が頼んでいるのだ」
「それは無理だと、松原様もおっしゃっています」
そんな考え、松原にはお見通しといったところなのだろう。
安能にも…………。
「……失礼だが、和睦の条件を。もう一度聞いても良いか?」
綾女は、精一杯時間を稼ぐつもりで尋ねた。
「女子は、こういう時、物覚えが悪いようで困りますな」
「何だと!」
布由が重い着物をまくし上げて、腰を浮かせかけたが、綾女が止めた。
激昂しやすい綾女ではあるが、さすがにこの場の空気は読んでいる。
冷静に頭を下げた。
「申し訳ありません。不勉強で」
「構いませんよ。では、もう一度、よくお聞きくだされ」
男は、得意げに声を張り上げた。
「和議の条件は、滝王城の開放。戦える農民たちは高州に向ける軍に合流してもらい、他の農民達は、松原様の指示に従ってもらう」
綾女は、膝に置いた手を強張らせた。
何度聞いても変わるはずがない。
青玄が望んでいる和平。
多少のことなら、目を瞑る。
きっと、青玄も許してくれるのではないか。
しかし、何が悲しくて、領地の人に主君を討てなどと、命令をできるだろうか。
ふと、隣を見れば、唇を噛み締め、首を横に振っている老臣の姿があった。
…………どうしよう。
布由には、もはや言葉がない。
何を、どう決断して良いのか分からないのだ。
使者の男は、正座を崩して胡坐になった。
「急いでもらえませんかね? 私は、松原様に素早く戻ってくるように申し付けられているし、安能様は、速やかに事態を収拾されたいのですよ」
「しかし、我々だけで勝手に決めるわけにはいかないのです」
綾女がきつく言い渡すと、対立するように男は声を荒げた。
「貴方方は、このまま戦になってしまってもよろしいのか?」
男の様子は、せっかく、和議をしてやろうというのに……といった具合だった。
綾女が歯噛みすると、侮辱を上乗りするように男は言い放った。
「貴方が斎条殿の娘御か。噂はかねてから聞いておった。…………じゃじゃ馬姫」
ぴくりと、綾女は眉を吊り上げた。
父や青玄に言われるのとは、まったく違う。
敵方に揶揄されているのだと感じれば、全身がカッと熱くなった。
「どうだろう? 安能様に一度お会いになってみては? 安能様は、貴方の評判を聞き、興味を持っておった」
「私は……」
周囲の視線が注がれる中で、怒りと羞恥を押さえ込みながら、綾女は口を開いた。
その時だった。
「どうせ……。仲直りするつもりなんてないくせに」
綾女の背後の障子に、黒い影が映った。
誰かなんて、聞かずとも直ぐに分かった。
綾女は振り返る。
「アラン!」
「何奴!」
使者が剣を持って立ち上がった。アランは申し訳なさそうに障子を開いた。
「すいません。聞こえてしまいました?」
無駄に長い金髪を撫でながら、図々しく部屋の中に入って来る。
使者が剣を振り回す前に、さりげなく綾女の隣に着席した。
「奥方様、この……者は?」
「青玄様の客人です」
「客人?」
怪訝な表情でアランを見下ろす使者に、アランは愛想良く微笑みかけた。
「私、異国人なんで、和国のしきたりとか良く分からないんです。言葉もよく分からないし、失礼があったら、すいません」
――この期に及んで、何を言っているのだろう?
アランの大いなる嘘に、綾女は頭の中が空白になっていくのを感じた。
「でも。異国人なりに思うんですよ。そろそろ茶番はやめたらどうですか?」
「はっ?」
目を剥く一堂を見渡して、アランは悪びれることなく言った。
「戦ったら、良いじゃないですか。それで気が済むのなら」
「な、何を?」
布由が大きな口をぽかんと開いていた。
「お前は、一体!」
怒声を飛ばす使者を、アランは指差した。
「蛙……」
「えっ?」
「蛙に似ているって言われません?」
……駄目だ。
刹那、吹き出してしまいそうになった綾女は、手の甲を指でつねった。
「ふ、不愉快だ!!」
使者はどかどかと音を立てて、その場を去って行く。
あまりにも呆気に取られてしまった一同には、誰もそれを止めることが出来なかった。
「おい、アラン」
綾女は、放心状態で声をかけた。
「どうするんだ? これから……」
アランは、眠そうに、ゆっくりと首を回している。
「どうするって……」
笑いたいのを堪えて慎重に綾女が答えを待っていると、その場にいる男たちが一斉に大笑いした。
「だから、戦うんでしょう? 綾女様」
アランは、奇跡のように澄んだ青い瞳を綾女に向けたのだった。