第三章 ②
どれくらいの月日が経ったのだろうか?
ジョアンのもとを離れ、邑州の総部家にやって来てから……。
アランは、しばらく呆然としていた。
懐かしく、温かい微笑を振りまきながら、ジョアンが自分の前に立っていた。
先導していたらしい、小間使いを丁寧に退けて、ゆっくりと近付いて来るジョアンの存在に、綾女は早速真相に気付いたようだった。
「……まさか、アランの兄って?」
「はい」
ジョアンは瞳を閉じて、優雅に頷く。
綾女はアランとジョアンを交互に見比べながら言った。
「あんたが、松原様方の使者だっていうのか?」
「ええ」
瞬時に肯定。
沈黙が流れた。
困惑している綾女にジョアン気がついたのか、たどたどしい和国語で語り始めた。
「松原様が、私におっしゃったんです。私に布由……、奥方様のもとに行って、書状を渡すようにと。私は弟が心配だったので、その使命を果たすことに決めたのです」
「……ええっと、あんたは、捕まっていたんじゃ?」
「はっ?」
目を丸くしているジョアンの前に、咄嗟にアランは躍り出た。
「ジョアンは、イェーラー教の修道士。苦難も修行だと思う方なのです。だから、捕えられていたという自覚がないのでしょう」
「何だ。それは……」
当然のことだが、綾女は、アランの嘘に気付いたらしい。
アランに白い目を向けている。
志乃が訊いた。
「でも、お二人は全然似ていませんね?」
「それは……」
アランは笑った。よく言われることだった。
「私とジョアンは、血は繋がっていないので、当然です」
さらっと告白する。
「どういうことだ?」
外見的には、アランとジョアンは、まったく似ていない。
女性のように、中性的で金髪、蒼い瞳のアランと、男性的で、彫りの深い黒髪で癖っ毛のジョアン。それで、兄弟なのだと名乗っているのだから、自分でもおかしかった。
「まあ、それでも、私とジョアンは兄弟なんですけどね」
「意味が分からん」
「…………アラン?」
ジョアンの声に急かされて、アランは、綾女の背中を押した。
「ああっ。それどころじゃないでしょう。綾女様も、志乃さんも」
「…………やだ。そうですよ! 行かないと!」
志乃が廊下をぱたぱたと駆けていった。
「私も後で合流するので、綾女様も行って下さい」
「しかし……」
「兄弟水入らず。お願いします」
その言葉に、綾女は渋々頷いた。
「なあ、アラン」
捨て台詞のように言う。
「出て行くのなら、本当に今のうちだからな。分かったか?」
「はっ?」
綾女はアランを見なかった。背中だけ見せて、さっさとその場を急いで去って行った。
アランは、こみ上げてくる笑いを止められなかった。
…………何て、面白い人なのだろう。
アランを気遣っているのには違いないのに、どうして脅しているような口調になるのか?
……駄目だ。
アランは、笑みを隠すために、眼鏡を押し上げた。
「アラン。どうかしましたか?」
「いいえ。何でも。行きましょうか? ジョアン。良い場所があるんです」
アランは、先ほどまでいた櫓にジョアンを誘う。
ここなら、人気はないだろうし、再会の舞台に、相応しいような気がしたのだ。
『懐かしいですね。アラン』
ジョアンは、アランの導きで櫓に入ると、まず母国語でそう言った。
母国語を使えるのが嬉しいのか、続けて早口で言う。
『本当……長かった。和国に来てから、お前は私の傍から離れることもありましたが、こんなに長くなったことはありませんでしたよね?』
『うーん。寺に入っていた時は、一月以上戻らなかったかもしれませんが』
『お前が滝王城に来てから、もう一月以上は経っていますよ。もっとも、祖国と和国では、時間の数え方も違うので分かりませんが……』
『どうして?』
アランは、核心をついた。ジョアンに会えたことは嬉しいが、時間も惜しかった。
ジョアンはただ微笑するだけだった。
『私は、ただ使者に立っただけですよ。お前が心配だったから』
『すいません。青玄を殺すことが出来なかったのは、私のせいです』
『良いのです。……やはり、人を傷つけることなど、良くなかったのでしょう』
言いながら、ジョアンは本来なら十字架の首飾りをつけている位置に手を置く。
イェーラーに祈りを捧げているのだろうが、その内心まではアランにもよめなかった。
――アランはイェーラーを信じていない。
むしろ、憎んでいる。
だから、人殺しをしたところで、罪悪感も抱かないし、むしろ教義にはみ出た行為をすることに、快感から覚える。
それをジョアンは分かっているのか?
だが、それを知られていたとして、ただ利用されているに過ぎないとしても、 アランからジョアンを切ることは不可能だった。
どん底にいたアランを救ったのが、ジョアンであったのは間違いないのだから……。
『……でも、ジョアン。イェーラー教の教えは「唯一神」でしょう。唯一、イェーラーを信じる者が救われるなのだから、それを逆手にとれば、イェーラー教以外の宗教を信じる者は、救われないということになる。だから、母国にいらっしゃる「総長」は、貴方に人を傷つけても、布教する道をお勧めになったんじゃないですか?』
アランは、天井を見上げた。
イェーラー教にも階級があり、派閥がある。
ジョアンが所属しているイェーラー教の新興勢力では、母国にいる総長を中心として、階級が構成されいてる。ジョアンは若手では一番の出世頭で、和国の管区長に任命されているが、何しろ宗教とはいえ、縦社会だ。ジョアンは独断で動くことなど出来ず、本国の総長の指示に従って行動するしかなかった。
最初、安能よりだったイェーラー教の派閥は、今は松原に与するように、方向転換を図っている。総長は、「松原に接近するように」と、ジョアンに手紙を寄越した。
遠く離れた場所にいるくせに、的確な判断だとアランも感心はしているが、それによって事態がややこしくなっていることも事実だった。
『松原様は、協力の報酬に和国で再び布教することをお許し頂けるように、安能を説き伏せてくれると約束してくれました』
『…………私は、失敗してしまいましたけど?』
アランは眼鏡を取って、着物で拭いた。よく曇る眼鏡だ。
『布由姫を、ここから無事、連れ出せば目を瞑ってくれるみたいですよ』
『でも、松原さんは、この城を落とすこと自体、快く思っていないんでしょう? そんなに、やる気はないと?』
『松原様には、せめて、猶予時間を設けて頂きたいものですね。女性や、子供が安全な所に、逃げ切れるような時間さえ頂ければ……』
ジョアンは、茶色の瞳を伏せた。
安全な所なんて……。
アランは、ゆっくりと首を振った。
『残念ですが、ジョアン。みんな逃げませんよ。青玄様の指示があれば別でしょうけど、ここを動くことなど出来ません。城に民を迎えいれようとしていますし。敵兵が近づいていると知れば知るほど、交戦意欲は高まっていくでしょうね』
『まさか……?』
『そのまさかというヤツです。弱者だからこそ、反乱するのです。どんなに規律正しい軍隊でも、男手のない場所ですることなんて、知れているでしょう』
『……略奪』
『だから、降伏しても、安全だという絶対的な保障が必要なんです。和国の人は体面を重んじます。敵に辱めを受けるくらいなら、自ら命を絶つでしょう』
『それは、イェーラーの教えでは禁じられている行為です』
『そう。だから……。和国人はイェーラー教になかなか入信しないのですよ。……ジョアン』
『しかし……』
狭い櫓の中を行ったり来たりしながら、ジョアンは呟いた。
『無理です。とにかく、ここを出なければ、布由姫様も犠牲になってしまいますよ』
『貴方は奥方様と一緒に行ってください。同志が待っているでしょう?』
布教は禁止されたが、異人の退去命令が下ったわけではない。
ジョアンと同じくイェーラー教の修道士たちは、和国の南端で、布教の許しが出るのを、首を長くして待っているのだ。
『……アラン?』
『私は、お願いをされてしまったのです。たった数日しかつきあいがないのですが、あの人は、なぜか私に託していった。あの女を』
『たったそれだけのために、お前は動くのですか?』
『はあ……。まあ、そんなところです』
ジョアンは、眉を顰めた。
アランよりも長身のジョアンだ。屈むようにして、アランの顔つきを確認している。
揺るがないアランを知ると、今度は頭を抱えた。
『…………おかしいですよ、アラン。私達が和国の戦争に介入しても意味はないのです。それなのに、お前はここに残ると言う?』
『だから、綾女様が気がかりなんですよ。せめて、落城するその時までは、誰かが傍にいないと、何をするか分からないんです』
『珍しいですね。お前がそんなに誰かのことを気にかけるなんて』
『女性に剣を向けられたのは、初めてだったんです』
『はっ?』
アランは、物見櫓から再び遠景を眺めた。
凛然と聳えている鷲尾山を正面に見据えながら、笑った。
あの山の麓で綾女と出会ったのだ。
彼女の悠然と剣を構える姿を、美しいと思った。
そして、儚いとも思えた。
潔い人は、すぐに散ってしまうことも厭わない。
『貴方も聞いていたでしょう? 綾女様は、私に逃げろと言うのです。事あるごとに。そう言われると、私も意地っ張りなので、出て行く気力を失うのですよ』
『お前も、痛い目を見るかもしれませんよ』
ジョアンはアランの隣に立って、和国の景色に目を向けていた。
おもむろに下界を指差す。
『松原様の陣営はあの辺り。ここからは見えにくいですが、鷲尾の山の近くに築かれています』
『そうですか』
アランは考えながら、言葉を続ける。
『ここも、敵の奇襲を想定して築かれている山城です。総部が負けるのは必定でも、少しは持ちこたえることが出来るかもしれません』
眼鏡をかけなおしたアランは、口元に薄い笑みを浮かべた。




