第三章 ①
「嫌な雲ですねえ」
アランは、大きく伸びをしながら言った。
「雨でも降るのかな?」
「曇っているのは、お前の方だろう」
綾女は、白くなっているアランの眼鏡を指差した。
「……ああ」
のろのろと、アランは眼鏡を取って、着物の袖で拭いた。
「これで、よく見える」
アランと綾女は、城の物見櫓にいた。
城に入ることも滅多にない綾女だ。櫓に登ったのも、初めてだった。
アランは、開け放たれた四角い戸から、景色を俯瞰している。
…………楽しそうだ。
「まったく、お前は、ちゃんと感謝しているのか!」
「感謝していますよ。でも、青玄様はいないじゃないですか? 誰に感謝をすれば良いのです」
青玄が出立してから、一月以上が経っていた。
季節は、暖かい春を確実に巡っている。
アランなど、青玄と会った期間は数日程度なので、最近は「どんな顔でしたっけ?」などと、とぼけるほどだ。
綾女は、自然とアランと一緒にいる時間が増えた。
別に好き好んでではない。
この男には、監視役が必要だからだ。目を離すとロクなことをしない。
あちらこちらを、ふらふらして、周囲を混乱に導く。
青玄がアランを客人なのだと布由に紹介してしまったために、邑州でのアランの地位は向上してしまったのだ。
こんな訳の分からない異人を、無碍に出来ないのが切ないところだった。
確かに、本当のことを告白して、この緊急時を更に切迫させる必要もない。
しかし……。
布由が言いつけを守って、アランを客人扱いしているのは、傍で見ていて何とも言えなかった。
いっそ、出て行けば良いのに…………。
「お前はな。奥方様の許しを得て、入城することが出来たんだぞ」
「ああ、そっか。あの十三歳の……」
アランは、わざとらしく、そこを強調して言う。
「じゃあ、ついでに、もっと上の階に行かせてくれませんかね? 私は最上階からの景色が見たいデス」
「……ふざけるな。天守は、青玄様と奥方様のみに許された場所だ。軽々しく家臣が足を踏み入れて良いものではない」
「つまらないな」
「斬るぞ」
背後から短く脅すと、アランは両手を挙げた。
「……でも、何でいつも志乃さんが奥方様にお話するのですか。何故、綾女様は話さないのですか?」
「うるさいな」
綾女はアランの首根っこを掴み、屋内に引き摺った。
「私は、奥方様から避けられているからな」
「どうして?」
「どうしてって……?」
「綾女様!」
着物の裾を割って、志乃が床を滑るようにやって来た。
「何だ。どうしたのか?」
「その、奥方様ですよ!」
「お前、盗み聞きしていたな?」
「そんなことより!」
「とりあえず、落ち着いたらどうだ?」
「落ち着いてなどいられません! 大変なんです!」
「もしかして……」
アランは、綾女に着物を引っ張られた無様な姿勢のまま、志乃を見上げた。
「安能の軍勢に何か動きでもあったんですか?」
「軍勢? 相変わらず、お前、難しい言葉を知っているな。アラン?」
「ある意味そうです。アランさん」
「志乃? 一体、何があったんだ?」
綾女が詰め寄ると、志乃が混乱を隠さずに涙目になった。
「あの……。先ほど、奥方様に使者が来て、その使者は奥方様に、松原殿の所に戻ってくるように進言したそうです。間もなく、邑州は攻められるって」
「ちょっと、待て。おかしいじゃないか。安能が治めている洋州に接しているのは高州の方だぞ。本家を狙って、直ぐに戦争が終結したほうが良いだろう。そちらを徹底的に狙うはずだ。だから、青玄様だって精鋭を率いて本家に行ったのだぞ。……まさか、そんな手を」
「心理戦……」
アランは、再び四角い小窓から外を眺めながら言った。
「卑怯でも何でも。結局人がお互い殺しあうのが戦争じゃないですか。自分の奥さんが殺されたりしたら、人は怒りに燃えるでしょう。でも、怒りだけでは相手を倒せないのも戦争です。冷静な判断と、兵士の数が決め手なんでしょ。ともかく、安能と総部の差は歴然としています。素早い降参をおススメしますけどね?」
「余計な口を挟むな!」
綾女は怒声を飛ばしたつもりだったが、いつもの勢いがないことに、自分でも気がついていた。
青玄は戦いを望んでいなかった。何とか和解をする道を模索していた。
安能は、ほとんどの領地を自分の手にしている。
たった二国が全国と戦うようなものなのだ。
それでも、戦う道しか選べなかったのは、五代に渡って築いてきた総部という名前を背負っているからだ。
名門・総部家が百姓上がりの安能に隷属することなど、青玄ならいざ知らず、歴代の主に代々仕えてきた老臣たちには、認められないことなのだろう。
「とにかく、志乃。その話が本当だったとしたら、まず救援を頼まなければならないだろう。九鬼城の有路様に……」
「有路様はともかく。支城は、安能の味方になった諸州の連合軍と戦っているらしいです」
「そうか……」
「総部本家からも、救援を寄越してくれるでしょうけど。遅れるのは必至です。どうしましょう? 綾女様」
「…………そんなことを言われても」
切羽詰った志乃の様子を眺めていて、この城の人間を率いることが出来る人間を綾女は選び始めた。
誰がいるのだろう?
一応、留守居役は存在しているが、武人としてはとっくに引退している老人だ。
本来なら、青玄の妻である布由が率先して、皆の気持ちを落ち着けなければならない。
しかし、まだ無理だ。
大体、こんな重大な情報を、すぐに志乃に漏らしてしまう時点で、よくない。
老人と女性と子供。
結局のところ、ここで動けるのは綾女くらいしかいないのではないか……?
「全員が逃げる時間は、ないんだろうな」
「ここから逃げるようにって、敵方のお父上が奥さんに言ったってことは、全員、逃せないかもしれないってことでしょう? みんなを許すつもりなら、最初からここを狙って来るはずないじゃないですか?」
「……そうだな」
……アランの奴、意外に、賢い?
目を丸くしていた綾女だが、すぐに機敏に廊下を歩き始めた。
早足で、自分についてくる志乃に、指示を出す。
「真偽のほどは、ともかくとして。いずれにしても、邑州の民を城に迎え入れなければならない。そのままで暮らしていたら、安能の兵に何をされるか分からないな。開門の許可を奥方様に貰ってくれ」
「はっ、はい。それで、綾女様は?」
「私は村に出て、直接みんなを城に呼んでくる」
「無茶するなあ……。さすが、じゃじゃ馬姫」
ゆっくりとした歩調のくせに、足の長さのせいだろうか。すぐにアランに追いつかれてしまった。綾女は苦い顔で言い放った。
「お前は、来なくていいからな」
「何故?」
「お前がいると、面倒だからだ。ああ、もう、これから、何故とか、どうして……とか、そういう言葉を禁止するぞ!」
綾女は、歩みを止めて、アランの口に向けて人差し指を突きつけた。
だが、その時、アランは綾女を見ていなかった。
眼鏡越し……。
廊下の先に視線を向けている。
真摯な空色の瞳に出会ったことがなかった綾女は、動揺した。
「どうしたんだ?」
「………………ジョアン」
アランは掠れた声で呟いた。