第二章 ④
安能 時秀は、礼教の布教を禁止した。
しかし、異人を追い払ったわけではなかった。
礼教の信仰者だと分からなければ、珍しいものが好きな安能に気に入られることは容易である。
……あくまで、ばれなければ。
ジョアンは、和人と微妙に色の違う焦げ茶の髪を、風になびかせながら、空に祈りを捧げていた。
救世主イェーラの分身である十字架は、もちろん持っていない。
服装も、礼教で指定されている黒地の修道服を脱ぎ、灰色の着物を身につけている。
本国の仲間が見たら、叱られるだろうし、殺されるかもしれない。
しかし、ジョアンはジョアンなりの信念を持っていた。
イェーラは、何処にでもいるのだと……。
信仰を捨てなければ、神は自分のすぐ傍にいるはずだ。
だから、日課になっている朝夕の祈りはやめなかった。
対象は空だ。
神は、広大な蒼空にいるのだと言い聞かせていた。
「精が出ますな」
背後で、低い男の声がした。ジョアンは、振り向きもせずに言った。
「…………松原様ですか」
声を聞けば誰なのか、すぐに分かる。
しかし、和国の言葉は弟ほど達者ではないので、ジョアンは答えるのが遅くなってしまうのだ。
松原は、ジョアンとの距離を縮めながら言った。
「礼教は、そうやって空を拝むのが重要なのですか?」
「何処に祈りを捧げても同じですが、本来なら十字架を前に、教会にこもって祈りを捧げるものです」
「ほほう。私は教会とやらを見たことがないので、分かりませんが……。一度見てみたいものですね」
松原は、礼教に興味を持っているように振る舞っている。
安能が禁止したにも関わらずだ。
しかし、実際この男が興味を持っているのは、礼教ではない。
礼教を布教するためにやって来た修道士の持ち物が目当てなのだ。
何度も、持ち物について説明を求められ、異国の品物を献上させられているので、ジョアンには分かっている。
松原は、異国との貿易を活性化させたいと思っているのだろう。
だが、それは安能も一緒で、だからこそ徹底して礼教を弾圧することが出来ないのだ。
「それで、松原様? ここは、陣営からは遠く離れていますが?」
ジョアンはたどたどしく、和国語を操りながら、周囲を見渡した。
竹林の中に、ジョアンはいる。
…………一応、誰もいない。
夜営をしている場所は離れているし、安能が放っているかもしれない、密偵の存在も感知できなかった。
「松原様自らが私の所にいらっしゃるなんて……、何かあったのでしょうか?」
何となく想像はついていたが、ジョアンはあえて尋ねた。
松原は暫時黙っていたが、やがて周囲に誰もいないことを確認するとぽつりと言った。
「…………どうやら、計画は失敗したようですな」
ジョアンは、暗い息遣いを背中越しに感じた。松原が溜息を吐いたようだった。
「青玄は、ぴんぴんして、早速、作戦を練るために、総部本家に駆けつけたようです」
「そうですか……」
瞳を閉じつつ、予想はしていたものの、どうしてこうなってしまったのかをジョアンは考えていた。
計画の失敗よりも、弟のことが気がかりだった。
どうしたのだろうか。
失敗するなんて、弟らしくなかった。
「むしろ、青玄の兄の方が先に逝きそうですがな」
「申し訳ありません」
素直に、ジョアンは頭を下げた。振り返ると、赤い甲冑姿が目に飛び込んできた。
視線を上げれば、松原の小さな四角い顔の中の太眉が顰められている。
「私は娘のことが、気がかりなだけなのですよ」
「……ええ」
分かっている。だから、頭が痛い。
何度も、ジョアンが松原から聞いていた言葉だ。
松原の娘は、青玄に嫁いでいる。
戦場では冷酷な松原だが、まだ幼い娘が戦争に巻き込まれるのは、忍びないようだった。
何とか、戦いを避けたいという松原の意向に沿って、ジョアンの弟が赴いた。
それは、ジョアンの意志ではなかったものの、すべては平和的に、事を終結させるための策略だったはずだ。
「…………時秀殿は、よりにもよって、この私に邑州を攻めるように言い渡してきました」
「オウシュウですか……?」
ジョアンはその一言を頭の中で繰り返した。
――聞き間違いなのではないか?
ジョアンは異人で、何の権限も持たない。物珍しいだけで、安能に随行を許されただけだ。安能の戦争計画など、知る由もなかった。
「……でも。邑州に当主のハルシズはいないではないですか?」
「安能の戦い方です。女子供のいる城を落とされれば、兵の士気は下がります」
「その程度のことで?」
「ええ。その程度のことでも、やる男です。そして、その攻撃の責任者を私に任せた」
「よりにもよって、貴方なのですか……」
ジョアンは、驚愕した。
「娘が巻き込まれるのは確実のようです。何とか抜け出すことが出来るように、誘いはかけてみますが……」
「誘い?」
「密偵を放ち、娘を取り戻します」
「滝王城に……、ですか?」
「危険ですが、娘はまだ子供ですからね。何とかやってみます」
「そのお役目……」
ジョアンは、考えることなく申し出た。
「私に、やらせて頂けないでしょうか?」
「はっ?」
「安能様には、適当に説明してくだされば結構です。どうせ、私は旅の異人、戦の状況も知らない私が一人いなくなったくらいで、うろたえる方ではないでしょう。……私も弟が心配なのです。是非、お願いします」
「……それは構いませんが、もしも間に合わない場合は、貴方も命を落とすかもしれませんよ。私は表立って、娘も貴方も助けることは出来ないのです」
「貴方は……、総部と和睦しないのですか?」
「それは、無理ですよ」
松原は、苦笑する。
「どちらにしても、総部は滅びなければならない。和国が一つになるためには、独立国家を保とうとしている総部は、目障りなのですよ。…………それに、私は安能から、総部を滅ぼしたあかつきには、高州と邑州の二国を頂くことを密約している」
「…………武人なのですね。貴方も」
「戦うことが仕事の愚か者です。しかし、弱い者を狙い打ちにするような攻撃は、私も好きではない」
松原は髭に隠れている口元を少し緩めた。
「行ってください。滝王城に」




