第二章 ③
結局、アランは大人しく納屋にいた。
……迷ってしまっている。
ものの見事に……。
格子の外に広がる明けていく空を、アランは寝転んだ姿勢のまま、じっと眺めているだけだ。
……何故?
自分なのか?
アランと青玄は、縁も所縁もない他人だ。
出会って数日の付き合い。
まして、アランは青玄の命を狙っていたと白状しているのに……。
……ああ。
『どうしちゃったのかな。私……』
母国の言葉で呟く。
何だか、うまく丸め込まれてしまったようだ。
……兄だけだった。
兄が目指す理想だけだった。
それ以外のものなど、気にも留めたくないとアランは思っていた。
…………気付いてはいるのだ。
心の何処かで、兄と自分との別離が近づいていることに……。
何かきっかけがあれば、直ぐに破綻してしまう間柄だということも……。
しかし……。アランは、やらなければならなかった。
心の底に、暗い感情が眠っているうちは、動かざるを得なかった。
青玄の命を奪う……。
物騒な依頼は、アランにとって丁度良い機会でもあった。
結果的には、犠牲者が減るだろうし、アランは一人で旅に出ることも出来る。
青玄さえいなくなれば、安能の天下になる。
この国の長い戦乱の時代が終わるのだ。
――だが…………。
それは、果てしなく矛盾していることだった。
人を殺して……、それで、勝ち取る平和のなんとちっぽけなものだろう。
結局、アランも躊躇してしまった。
青玄は、気持ちの良い青年で、アランが自ら殺してしまうには惜しいと感じた。
いっそのこと、アランを処刑すると決めてくれれば、アランだって腹を括ることができる。
そう考えて、捕まっていたのに、青玄は殺すどころか、アランと友情まで築こうとしていた。
そして、挙句の果てに……。
押し付けるように、綾女を託していった。
一体、どうしろと?
迷い続けた挙句、アランはこんなことになってしまっている。
『いずれにしても、間に合わなかったし』
昨夜の話からして、青玄は、今頃馬上の人だろう。結局、アランは何も出来なかった。
追いかける気力もないし、追いかけても変わらないだろう。
『…………困ったな』
「何だ? 異国の言葉か?」
「…………えっ」
アランは、狼狽して目を擦った。
顔を上げると、そこには綾女がいた。
「ど、どうしたんです。一体?」
まったく気がつかなかった。
アランが人の気配に気付かないなんて、珍しい。
それほど、自分は熟考していたのか?
微妙に彼女が顔をそむけているのは、やはりまだ自分に免疫がない証拠とも思えたが……。
しかし、気を長くして沈黙を続けていると、綾女は仕方なさそうに、体を屈めて、距離を詰め、小声で呟いた。
「青玄様は、出立された」
「そうですか」
「縄は、解いたままだったようだな」
「はあ」
自分で解いてしまったのだが、余計なことは言わない。
綾女は、置き去りにされていたアランの編み笠を放り投げた。
すんなりと受け止めると格子の前で悠然と微笑する綾女と目が合った。
「行って良いぞ」
「…………えっ?」
「ここに、青玄様は、もういない」
「ちょっと待って下さい。でも、私を捕えておくことは、命令されているのでしょう」
「厳命はされていない。父は逃すなと息巻いていたがな」
綾女は、アランの手を取って、無理やり体を起こさせた。
「納屋から廊下に出る途中で、外に出ることができる」
「そうなのですか?」
「お前は、天狼だ。化け物が逃げても不思議ではないだろう」
「化け物じゃありませんよ。外国人ですが、人間です」
「うまく逃がしてやろうとしているのに、つべこべとうるさいやつだな」
「それとも、手の甲の口づけ一つで、私に気持ちが……」
「何だ。お前は私に斬られて、死にたいのか?」
半ば本気で口にして、損をした。
天狼という化け物は彼女ではないのかと思うほど、憤怒の形相で綾女が睨んでいる。
漲る殺気をかわすように、アランは早口で和国語を話した。
「し……しかしですね。変じゃないですか? 綾女様だって、私を疑っていた一人でしょう。ちゃんとした取調べもしないまま、解放するなんて」
「戦になる」
「…………はい?」
分かり切っていることだ。
真摯に言われると、逆に困惑してしまう。
「そうみたいですね……」
「青玄様がここに安能を寄せ付けないように、うまく兵力を分散させるだろう。でも、ここが戦場にならない保障はない」
「無関係な私を、ここから放とうというのですか?」
「兄上が捕らえられているんだろう? 正直、お前は信用ならないし、怪しいが、これ以上の面倒はごめんだ。ここには、今留守居の兵士と、老人、女子しかいない。お前が狙っているものは何もないはずだ」
「確かに……」
ここにいて、どうするのだろう。
本当は、兄の居場所を、アランは知っていた。
ここを出れば、青玄の情報と共に合流することだってできる。
……でも。
「良いんですよ」
「何が?」
「もう良いんです。私。やっぱり、ここにいますよ」
「…………はっ?」
アランは、うんと伸びをして、肩を叩く。
「少し、疲れましたからね」
「何を言っているんだ。お前の兄はどうするんだ? 囚われているんだろう?」
「大丈夫ですよ。あの人が囚われているのは、体ではないのです。心なんですから……」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味ですよ」
アランは、すたすたと歩き出した。
「ああ。でも、ここにいるからには、逃げも隠れも、悪いこともしないので、少しふらふらして良いですかね?」
「馬鹿なことを言うな」
「ところで、私、城に行ってみたいのですが?」
「ふざけたことを言うな!」
納屋から出ると、志乃とぶつかった。
「ああ、すいません」
「えっ……。アランさん?」
志乃は綾女を追ってきたらしい。丸い顔に丸い目を一杯見開いている。
アランが何食わぬ顔で、屋敷をうろついていることに驚いたらしい。
「綾女様、……これは一体?」
志乃は、綾女の藤色の袖をつかんだ。
「…………私が愚かだったんだ。志乃」
「何のことですか?」
面白いから、放っておこう。
アランは、再び廊下の床を滑るように、歩き始めた。
…………が。
瞬間……、後頭部を綾女に拳で殴られた。




