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どこをどんなふうに、どうやって帰ったのか覚えていない。気付けば彼はあの殺風景な部屋のベッドに膝を立てて座っていて、それを目の前の子供はじっと見つめていたのだった。

トキ。小さく呼んでみた声は情けなく擦れている。しかしちゃんと相手に届きはしたのだろう、丸い瞳が応えるように一つ、ゆるりと瞬いた。

「トキ」

「うん」

「…………、」

男は怖かった。さっき自分に何が起こったのか、それを認めて口にするのが怖かった。けれど曖昧なまま漂うような、今の状態はもっと怖い。

暫しの逡巡の後、彼はとうとうその重い唇を開いた。目の前の子供がどこまでを知っているのかはわからない。だが彼よりはずっと、見えているものがあるはずだった。

――だから、行っちゃ駄目だって言ったじゃない。

そう言った子供の瞳に浮かんでいた絶望が、男の頭から離れなかった。

「トキ、俺は――」

俺は、何なんだ?

問うと子供は僅かに目を伏せる。きゅっと寄せられた眉が痛々しい表情を作り上げた。

言いたくない。ぽつりと零された声は弱々しく泣きそうで、それでも涙は流さない。強情な子供は頑なに首を横に降り続けたが、頼む、と繰り返し紡がれた男の言葉についに諦めたようだった。

「……バカにしないで聞いてよ」

「当たり前だろう」

「きっと信じない」

「信じるよ」

真摯に聞こうとする姿勢を見せれば、トキは小さく溜め息を吐く。何度か瞬きを繰り返して男の態度が変わらないのを見ると、ようやくその唇を開いた。

「……この世には、二種類の魂がある」

「……は」

はぁ、と間抜けな音に変わりかけた声を慌てて『はい』に変更する。トキがじろりと男を睨むので、苦笑いを浮かべながら先を促した。

「その違いは密度だよ。エネルギーの強さ、ってゆーか……元気の良さみたいな。生きているものの魂は活発で存在感があるし、反対に死んでしまったものの魂は陰っていて、存在も薄弱になってしまう」

やけに具体的な説明だ。思って男は苦笑する。突拍子もない話が始まったように見えるが、実は薄々“そっち”の話ではないかと思っていたので衝撃は少なかった。けれどそれを口にするのがこのいとけない子供だと思うと、どうにも妙な感じだ。

「弱い魂は強い魂に負けてしまって、世界に影響を及ぼすことができなくなるんだ。生きている人間に触れられないし、物にも触れない――」

「……ちょ、タンマ」

漸くトキの言わんとしていることに気が付いて、男は思わず頭を抱えた。

「つまりアレか、お前はその……俺が、」

「人の話は最後まで聞く」

「ハイ……」

有無を言わせず黙らせて、小さくトキは笑みを浮かべた。こんな時までこの子供はご主人様属性だ。男も苦笑して続きを促す。重たい空気のまま真実を突き付けられるよりは、幾分幸せな気がした。

「稀にだけど、死んでしまった者の魂の中にも強いエネルギーを持っているやつがいて、現世の物体や人間に触れることもできる。ポルターガイストとか知ってるでしょ、アレはそういうのの仕業なわけ。でも余程特別な場合じゃないと、姿を生きてる人間に認識させることはできない」

つまりポチ、アンタの今の状態はね。

そこでトキは一度言葉を切る。男の反応を見ているようだった。痛いほど真っすぐな視線に射ぬかれて居心地の悪さを感じつつ、彼は大丈夫だと頷いてみせる。続きを、と。

「……ポチの肉体は、ここにはない」

「………、」

「ポチは魂だけの状態になって、この世を彷徨ってる」

「……つまり、」

俺は死んだのか?

腹を括って問い掛けた男に返ってきたのは、「残念だけど」の一言だった。

(……そうか)

そうなのか。

呟いて彼は掌に視線を落とす。おれはしんだのか。もう一度言ってみても実感はなかった。なんて、呆気ない。

「……って、ちょっと待て!」

茫然とした頭で全てを受け入れようとする、その寸前に男はおかしな点に気が付いた。仮に自分が死んでいたとしよう(だってそうでもなければ婦警にすり抜けられたこの身体は説明できない)。そうだとして、この目の前の子供は何だ。

「お前には俺の事が見えてる! それにトキには俺、触れるじゃねーか。メシだって食ったし、このベッドだって」

「……僕は……、」

子供はまた言い淀んで、ふいと視線をそらしてしまった。それでも直ぐに顔を上げ、真直ぐ男を見つめてみせる。

「僕は、例外なんだ。ちょっと特別な魂を持ってる」

「トクベツ?」

「僕の魂の密度は、普通の人間よりずっと大きかった。昔からそうだったんだ、魂が、身体から溢れちゃうくらいエネルギーを持ってる」

他の弱い魂たちに、分けてあげられるくらいにね。

一息に言い切った、トキの顔がまた歪んだ。本当は言いたくなかった。そう言われた気がして、男の胸が微かに軋む。

「強い魂には、弱いものがひかれて集まってくる。僕はずっと、そういうものを見ながら生きてた……」

「……トキ」

お前は、“そういうもの”が見える人間なんだな。

問えば子供は小さく頷いた。俯いた頭を撫でてやりたいと思いながら、男はゆっくりと自分のおかれた状況を自覚してゆく。

どうやら自分は、この子供の“魂”とやらに吸い寄せられて来たらしい。トキに触れていれば世界に触れることができる、それは子供から力を分け与えられていたからだ。けして離すなと言われた、やわく小さな掌を今更ながらに男は思い浮べた。

「僕に触ってなくても、僕の“所有物”にならポチは触れるよ。ベッドだってそう」

「……なるほどなァ」

うまく出来たもんだと苦笑を浮かべる、彼はもう全てを享受してしまっていた。

トキの住んでいるこの家は、言うなればトキの所有物だ。家具だってそういうことなのだろう。一度知ってしまえばそれは不思議なほど、すとんと彼の胸に納まった。

「じゃあお前、霊能力者、ってヤツなんだ。学校行かないのってそのせいなのかよ」

「……別に、そんなんじゃない」

むすりと答えたトキはばつの悪そうな表情を浮かべていて、強ち間違ってもいないのだろうと男は思う。外に出るのを拒んだのは、余計なものが呼んでもいないのに集まってくるせいなのかもしれない。“そういうもの”が見えることをトキ自身が望んでいないのだったら、それは苦痛以外の何でもないはずだった。だとしたら。

(可哀想なことをした)

こうして今傍にいる自分のことを思うとトキが気の毒だ。出ていったほうが良いのかな、男は真剣に考える。

「……それに僕、霊能者とは違うんだ」

「え?」

いきなり思考を引き戻された男は間抜けな声を上げる。トキは何故か申し訳なさそうに、呟くように言葉を紡いだ。

「見えるだけ。触れるだけ。霊能者なんてちゃんとしたもんじゃないから、成仏させてあげることなんてできないの」

「……じょーぶつ」

「魂が身体から抜け出るときに、記憶を落としてきちゃうのって良くあることなんだ。僕はポチを見つけたけど、でも」

あとは何にもできないよ。

ごめんなさいと謝られて面食らった。トキが男に謝罪する必要など、何処にもないのに。

小さな手が男の服に手を伸ばす。また叩き落とされないかと震えながら、彼にその気が無いことを知るとそっと裾を握り締めた。

「ここにいてよ、ポチ……」

一緒にいて。ひとりは、さみしい。

追い出されるのではないかとさえ思っていた男は、あえかなその言葉に酷く驚いた。幽霊と一緒でもつまらないだろうに、そう考えながらも小さく頷くとトキは安堵の息を吐く。

うっかりそれを可愛いと思ってしまって、先刻まで頭を占めていた事柄を呑気に削除した。男は考えていたのだ、ここを出て行く覚悟を決めようと。外に出てもどうにかなるはずだった。困ることなど、何一つない。

(だって俺、死んでるし)

そう、彼は死んだのだ。

世界とのさよならさえ、知らないうちに。






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