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「…………っ!」

びくりと震えた小さな身体に正解を知る。舌打ちしたい衝動に駆られるのを飲み下し、彼は喉の奥からくぐもった声を絞り出した。

今までずっと何か、隠してきたんだろう?

「……俺をおちょくってんのか?」

ふつふつと沸き上がった感情が知らず籠もったらしい。トキの身体が小さく跳ねたと気付いたときには、もう遅かった。

「――そ、んなこと、ない!」

思わず声を荒げた子供の真剣な表情を見れば、それが嘘でないことはわかる。冗談や揶揄ではない、何か特別な事情があるのは間違いなかった。そしてトキはそれを、隠しているのだ。

瞬間頭にカッと血が上って、男は子供の手を勢い良く振り払った。ぱしりと音を立てて弾かれた掌にトキが一瞬傷ついたような表情を浮かべて、やりすぎた、と後悔する。

けれど謝りはしなかった。彼の頭の中を占めている最重要事項は自らの記憶で、それを捜し当てるためにどんな些細な情報でも見落とせないと思っている。それを一番の情報源である子供に――記憶の無い彼の、唯一の理解者であるトキに隠し事などされていたとしたら。これで平気でなど、いられるはずがあるだろうか。

いくら彼でも、それがトキの個人情報ならば根掘り葉掘り聞き出そうと気はない。男は確信していた。トキが今まで秘密にしていたそれは、彼自身に関わることなのだと。

「ポチ、」

「……触んな」

今度こそトキの顔が泣きそうに歪んだ。流石に可哀想になって誤魔化すように、俺は一人でも歩ける、と言葉を付け足す。

俯いてしまった子供と男の間に沈黙が流れた。問い詰めるタイミングを逃してしまったらしい。いつの間にか喉の渇きも消え失せてしまって、いたたまれなくなった彼は視線を彷徨わせる。何処を見ても木と土ばかりで、最終的に視界に残ったのは寂れた交番だった。そこからのんびりと恰幅の良い婦人警官が外に出てくる。

「あー……、ええと」

どうにかこの場を切り抜けたい男は、その婦警に声をかけることを思い立った。いっそ腹を括って、記憶喪失について相談してしまっても良いかなと思う。あののんびりした様子なら、少しくらい込み入った話にも付き合ってくれるのではないだろうか。トキと自分の関係を話すのは面倒なので、ボケた迷子の老人でも保護したことにして、そういう場合警察はどんな対応をしてくれるのか聞いてみるのも良いかもしれない。

(……つーかそれ良くね?)

頭の中を閃光が走ったようだった(ひらめいた、というのはまさにこんな感じに違いない)。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう、と男は思う。同時に考え付いた自分を大袈裟に誉めてやりたくなった。そう、何も馬鹿正直に自分は記憶喪失なのだとカミングアウトしなくとも構わないではないか。

「俺、ちょっとあの人と喋ってくるから」

そうと決まれば躊躇う必要はない。一刻も早くこの空気から抜け出したかった男の決断は早かった。

ついて来んなよ。そう彼が言い放つのと、目の前の子供がばっと顔を上げたのは同時。そのまま背を向けた彼は、トキの丸い瞳が極限まで見開かれていたことに気付かなかった。

「ポチ、待って」

細い声が背中から追い掛けてきても男は振り向かない。これ以上この子供に振り回されてたまるかと、半ば意地になっていたのだ。

「行っちゃ嫌だ、」

婦警は男の存在に気付いたのか、真直ぐこちらへと歩いて来ていた。待って、と弱い声が未だに彼を追い掛けている。トキ自身は地面に縫い止められたかのように、ベンチの前から動かないままだった。

「行かないで、ポチ……!」

悲愴に満ちた声を必死で無視して男は前を見据える。婦警の顔がはっきり識別できる位置まで距離を詰めたことを確認すると、自分の存在をアピールするように軽く手を挙げた。にっこりと親しげに会釈してみせてから声をかける。

「あの、すんません」

確実に届いたであろう声に、しかし婦警は歩みを止めなかった。彼に向かって真直ぐに、ずんずんと近づいてくる。

ちょっと待て。違和感に気付いて男は息を呑んだ。何故彼女は立ち止まらないのか。気のせいだろうか、婦警の目線はこちらに合っていない。

(……てゆーか近いんですけどォォ!)

そのまま前進を続けた婦警との距離は、気付けばついに残すところ三十センチを切っていた。しかし次の瞬間、男は我が目を疑うことになる。

――婦警が彼の顎に頭突きを食らわせたはずの、まさにその瞬間に、彼の視界から彼女は消え失せてしまったのだから。

「……え?」

思わずきょろきょろと辺りを見回して愕然とした。消えたはずの婦警は男の後ろ側を、何事もなかったかのように歩いていたのだ。ちょうど彼に背中を向け、のしのしと一定のリズムでその場から遠ざかっていく。


まるで男の存在など、無いものであるかのように。


「…………な、ま、」

何なんだ一体、と、まさかそんなはずはない、という言葉が同時に口から飛び出そうとして失敗する。

必死で否定しようとしても、気付いてしまった“それ”は男に現実を突き付けた。身体の奥底が震える。からっぽの、からだが。

――消えたんじゃ、ない。婦警は彼の身体を、“通り抜けた”のだ。

悪夢でももう少しはましに違いなかった。男の手足から急激に力が抜けてゆく。

「だから」

呆然と立ち尽くす男の、すぐ側から冷えた声が聞こえた。緩慢な動作で首を捻れば、色素の薄い小さな頭が見える。

「――行っちゃ駄目だって、言ったじゃない」

トキは漆黒に濡れた瞳で、真直ぐ男を見つめていた。



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