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トキは不可解な子供だった。幼い顔立ちとは裏腹に妙に肝が座っていたし、突然の同居人に戸惑うこともなくマイペースを貫いている。どちらかといえば、戸惑ったのは男の方だ。

“ポチ”と呼ばれることになった男がトキについて尋ねようとしても、うまく流されるばかりで決定的な情報は得られない。深く探ろうとすれば会話の内容をすり替えられて、気付けばすっかりトキのペースに乗せられている。男の衣食住はこの子供が保証してくれたが、彼自身の不安が拭われることはなかった。

トキの暮らしているのは2LDK風呂付き、小さな商店街の裏にあるアパートの三階である。一人暮らしにしては広いほうではないだろうか。

(ここは何処なんだ)

その“一人暮らし”に終止符を打った彼は今、部屋の窓から見える景色をぼうっと眺めている。

初めて会った日にトキから聞いたこの家の住所は、全く聞き覚えのないものだった。こうして窓から見える切り取られた空間にも、見覚えのあるものは何一つ無い。彼の住んでいた(はずの)家から近いのに忘れているのか、本当に見知らぬ土地なのかさえ判別不能である。

この家の主に拾われてから、ポチと言う名を与えられてから、一体どれくらいが経ったのか彼にはわからなかった。記憶が抜け落ちるのと同時に体内時計はすっかりイカレてしまったようで、外の明るさを見ないと昼か夜かも判別できない有様だ。

おまけに何故か、この家には時計が無い。唯一トキが腕時計を持っているのだが、いちいち時間を尋ねるのも憚られて時々しか聞けなかった(最後に教えてもらった時刻は二時だ)。

男はそっと溜め息を吐く。自らの置かれた状況がいかに絶望的かを実感した。名前もわからない、家もわからない、一歩この場所を出ても行くあてさえ無い。今“ポチ”が信じられるのは、“飼い主”だけなのだ。


さてその飼い主はというと、現在は熱心に読書に耽っている。何を読んでいるのかといえば国語の教科書で、その表紙は彼にも見覚えがあるものだった。

(……あれ?)

覚えてる物、あったじゃねェか俺。心の中で呟きながら、彼はその教科書をまじまじと見つめてみた。背表紙に書かれたタイトルは『中学二年・国語“あすなろ”』――読み取って確信に変わった。やはり知っている。男はこれを使ったことがあるのだ(同時に文字の読み書きは無事であることも確認された)。

正直こんなもの知っていたところで意味はないのだが、何となく気になった。“ご主人様”の機嫌を損ねるのは覚悟の上で、彼は恐る恐る口を開く。

「……お前、中二なの」

ちらりとトキの視線がこちらに投げ掛けられる。耳を傾けてもらえるうちにと、男は続けて声を出した。

「俺も使ってたんだ、その教科書」

もう七、八年は前のことになるはずなので、中身は改訂されているのだろうが。

「……そう」

「今いくつ?」

「………十三」

トキの視線が再び本に戻され、会話はそこで終了だった。この子供に関する情報が一つ増えただけでも良しとしよう、男は一人こっそり頷いておく。

ただし忘れてはいけない、彼が一番に欲しているのは自分自身の情報だ。


そろそろ情報収集に出たい、と切実に思う。彼がベッドの上で目を覚まして以来、トキは一度もこの家を出ていない。それは男も同じで、寝床として貸してもらえたソファーの上で頭を捻ってばかりいた(あのベッドはトキの物だったらしい)。何か一つでも思い出しやしないかと必死だったのだ。

結局は努力虚しく何もわからずじまいで、現状は一歩たりとも進展していない。そろそろ外に出るなり道行く人に情報を請うなりしなければならないだろう。あまり頼りたくはないが警察でも良い、と彼は思った。

(……そーだよ、警察)

普通は一番に駆け込むべき場所だ。記憶喪失で帰れません、などと言っても狂言だと思われるかもしれないが、身内ぐらい探してくれるかもしれない。彼の顔を覚えている警察官だって、何処かにいるかもしれなかった。飲酒で行き倒れた前科があるので。

――そうだ俺、自分の酒癖が最悪なことは覚えてるんだよな。

口元に手をやりながら男は一人ごちた。どうやら記憶は完全に消えているわけではなく、極一部残った部分もあるらしい。外に出て刺激されれば、もっと何か思い出すことがあるはずだ。

そうと決まれば、と。意を決して彼は口を開く。

「おい」

「……」

「おいってば」

「……」

「……トキ」

なぁに、ポチ。言いながらやっと顔を上げた子供がにこりと笑った。どうあっても彼に名前を呼ばせたかったらしい。こういうところは本当に子供なんだなと男は苦笑する。

「俺、外に行きたいんだけど」

「散歩ってこと? まだリード買ってないし、トイレなら家の中にあるんだからわざわざ……」

「んなわけあるかァァ!!」

完璧な犬扱いに眩暈がしそうだった。思い切り叫んだ男にトキは冗談だよ、と笑ってみせる。先刻の素直な笑顔とは別の、口の端だけを吊り上げた嫌な笑みだ。

この子供は本当に自分をペットにしたいのだろうか、考えて彼は虚しくなる。トキなら本当にやりかねない。何故だろう、まだ短い付き合いだが、不思議と男にはこの子供のことがわかる気がした。

「マジ勘弁してくれる……」

「リードと首輪じゃ不満? 格好良くメタリックな鎖にしようか」

「いらねェよ!!」

「……前から思ってたけど、テンション高いねポチ」

誰のせいだ。

男はがっくりと脱力した。正直疲れているのだ、気のせいかずっと身体が重く息苦しい。それでも会話にいちいち大袈裟なリアクションを挟むのは、自分を鼓舞する意味もあった。

トキの(軽いイジメのような)言葉に言い返す気力を失ったら終わりだ、漠然と彼は思う。憂欝になってはいけない。一度落ち込んだらもう這い上がれない、そんな気がしていたのだ。

「ホント、外行きたいんだけど」

「……どうして」

どうしてって、言わせるのかそれを。

男は目を瞬いた。自分が落とした記憶の破片を探そうとする、その行為は至極当然のことだ。この子供だってそれはわかっているだろうに。

ぽかんとする彼の目の前で、トキの顔がほんの少しだけ歪んだ。ぎょっと目を見開いた時には何事もなかったかのように、いつもの何を考えているのかわからない表情に戻っていたのだが。

「……トキ」

「夕飯何食べたい?」

「無視!?」

ここで終わらせてたまるかと慌てて立ち上がった彼を、煩わしそうにトキは見返した。そこまで嫌そうな顔しなくても良いじゃないか、半ば悲しくなりながら男は思う。

ぱたん、軽い音を立て国語の教科書を閉じると、トキは静かに立ち上がる。このまま逃げられてしまいそうだった。

「おい!」

「……あした、」

男に背を向けたまま、ぽつりと零された声は小さい。彼は耳をそばだてその音を拾った。

「じゃあ明日、連れて行ってあげる」

そのままキッチンの方へ消えた小さな後ろ姿を、男は黙って見送った。最後に零された声の儚さが意外で反応に困ってしまう。

(何なんだ、一体)

もしかしてあの子供は寂しかったのかもしれない、と彼は思った。理由はわからないが、中学生の一人暮らし。自炊はできるようだがきっと不安だってあるだろう、真偽のほどを確かめる術はないのだが。

部屋に一人取り残されて何となく視線を彷徨わせると、それがある一点で制止する。トキの置いていった、国語の教科書だ。男はその裏表紙に目を落とした。先刻までトキの掌に隠されていた辺りに、油性ペンで小さな文字が書き込まれている。よく目を凝らせばどうにか、カタカナだというのがわかった。

「トキ……トウ?」







“トキトウ ミハル”








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