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「良い? ポチ」
「……」
ポチ、という呼び名を与えられてしまった男は恨めしげな視線を相手に送る。彼の目の前に座っているのはその命名主なのだか、余程そのネーミングがお気に召したのかひどく上機嫌だった。
(状況を整理しよう)
男は鈍く痛む頭を押さえながら考えた。やはり二日酔いなのだろうか。
この子供はトキというらしい(本名かどうかはわからない)。目の大きな、けれど中性的な顔立ちで色白。黒よりは茶色に近いショートヘアーで、真っ黒なパーカーを着ていた。
いまいち性別のはっきりしないこの子供に自分は拾われたらしい。おまけに自分は記憶喪失らしい――というのが、現在彼に与えられている情報の全てである。
トキは最初に、自分が男を見つけて『拾って』来た時の様子を端的に語り聞かせた。彼の予想通り、外で倒れているところを見つけて連れ帰ったらしい。トキ一人で男を運んだのならさぞ大変だっただろう。協力者がいたのかとも思ったが、彼にそれを訪ねる時間は与えられなかった。
良いかいポチ。上の目線から言い聞かせるように、ゆっくりと子供は言葉を紡ぐ。
「この家では僕が法律だから。今から言う約束、よく聞いて」
破ったらぱんつ一丁で外に放り出すから。
さらりと恐ろしいことを相手が言うので男は身体を強ばらせた。何だ、一体何を言い出す気だ。
「ひとつ、僕の言うことは絶対。ふたつ、僕の許可なく家のなかの物に触らない。みっつ、」
言いながらトキの瞳が男を捕えた。吸い込まれそうな黒。縁取った睫毛が意外と長いことに気が付いて感心する。まるで人形のようなその顔立ちに、うまく出来たものだ、と彼は思った。口さえ開かなければ完璧に違いない。
「僕に黙って、一人でこの家を出ないこと」
「……?」
思わず首を傾げる。何故トキがそんなことを言うのか、男にはさっぱり理解できなかった。勿論世話になるのだから、最後に出ていくときは挨拶ぐらいきちんとするつもりでいる。しかしトキの言うのはそれだけではなく、散歩程度の一人歩きもアウト、ということらしい。
「外に出たいときは、必ず僕も一緒に行く」
「え、俺そんな心配されるような状態?」
「そうじゃない」
とにかく駄目なんだ、そう言うとトキは席を立った。この話はここまで、と言うことか。そのまま部屋から出ていこうとするのを、男は寸でのところで引き止めた。
「おい」
「なに、ポチ」
「……。お前、親は」
トキは男の呼び名を変える気はないらしい。慣れるしかない、心中で溜め息を吐きつつ彼は問う。
「いないよ、この家には」
「え、一人暮らし?」
「まァそんなとこ」
ふぅん、と頷いて見せながら男は考える。トキの年齢はどう見ても十三、四かそこらで、一人暮らしができるようには見えなかった。本人がそう言うならば事情があるのだろう、深くは聞くまいと彼は思う。
(正直、ありがたい)
他人の家に転がり込む事への抵抗も、相手がトキ一人ならどうにかなりそうだった。子供という点では問題大有りなのだが、何よりも問題なのは自分自身であることを男は自覚している。これからどうするか、少なくともそれを考える時間は必要だった。
「お茶入れてくる。飲むでしょ」
「悪ィな」
幼い足取りで去ってゆく後ろ姿に何故だか和んでしまって、男は小さく笑った。一体何をしているんだろう、と思う。本当はもっと取り乱したりするべきなのかもしれないが、どうもこの空間は安らぐのだった。きっと自分は一人暮らしだったに違いない、思い出せないがそんな気がする。
(少しの間くらい、こういうのも悪くない)
不思議な子供だ。見ず知らずの男を家に上げておきながら、面倒まで見るという。警戒心のないのは幼さゆえか。トキに心を許してしまっている自分がいることに、男は気が付いていた。
数十秒後、平べったいステンレス製の皿に注がれた紅茶を目にした彼は、前言を撤回したくなるのだが。床に皿を置いて、子供は軽やかに言い放ったのだ。
「お飲み、ポチ」
「飲めるかぁァァ!」