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時間が、無い。











トキの為に、何かしてやりたいと思った。

男は手に持ったマグカップをゆっくり持ち上げる。トキの私物、シンプルな白地に赤のラインが入ったそれの中には並々とコーヒーが注がれていた。小さく音を立てながら一口、唇を付けて中身をすする。男の好みを考慮して濃い目に入れられたはずのそれはしかし、何だか酷く味気ない気がした。

ふぅ、男は小さく息を吐く。馬鹿になった舌には早々に見切りを付けていた。彼が“それ”を自覚してからというもの、ずっとそうだったので。


男は死んでいるらしい。

それに彼自身が気付いた、気付かざるをえなかったその翌日、突然彼の指先から感覚が消えた。

ショックを受けたわけではない。むしろ、ああ来たか、と思った程度である。今まで自分が生きていると思い込んでいた、トキの力を借りて身体の異変を誤魔化していた、そのツケが回ってきたのだと感じた。

指の次は足、それから舌だ。視界にはっきり確認できる彼の身体は、今や実態の無い虚像と変わらなかった。あぁマジで幽霊っぽいなァ。ぼんやりと男は思う。

「ポチ、良い天気だよ」

呟くようにトキが言った。カーテンの隙間から柔らかな光が差し込む。時間の感覚が酷く曖昧になってしまった男には、辛うじて朝らしいということだけがわかった。

返事を返しながら、子供の頭をくしゃりと掻き混ぜてやる。何も感じない掌でも、その髪の柔らかさはわかるような気がした。

穏やかな時間。一人の子供と居候の男の、他愛無い一時。それを唯一邪魔するのは、男の頭を襲う鈍い痛みと身体の怠さだった。

感覚を失ったはずの身体が不調だけを訴える様に、男は思わず舌打ちしたい衝動に駆られる。こんなのはフェアじゃない。

「……大丈夫?」

こめかみを押さえた男を気遣うようにトキが言う。併せ持った全ての慈悲を男に向けようとする、この子供の角はすっかりとれてしまったのだろうか。あの傍若無人っぷりは何処へ消えた、と男は思う。実は最初から、この子は優しかったのだけれど。

――男が体調を気遣われる場面が、ここ最近格段に増えていた。トキの横暴さが目立たなくなったと感じてしまう、それほどに。

(身体が重い)

気のせいではなかった。時間が経つにつれて確実に、彼の身体は重さを増してゆく。生前(と言うには多少抵抗があるが)に経験した貧血を、かなり悪化させたような。

大丈夫、と口先だけで答えれば子供はくしゃりと顔を歪める。嘘はあっけなくバレたらしい。

「魂、ってのは疲れたりするもんなのか」

「…………わかんない」

暫しの沈黙の後返ったいらえは微かに揺れていた気がした。何か思うところがあるのだろうが、トキはそれ以上何も言わない。男も、何も聞かない。

このいとけない子供に全てを尋ねるのは酷だと、彼はもう理解していた。トキは他の人間よりずっと、多くのものを背負っているから。

「――まぁそれは置いといて、だ」

トキ。

呼び掛けに子供はついと顔を上げる。鈍痛のする頭を一振りし、男は真直ぐにトキを見つめた。

「お前、家族は何処にいるんだ」

問い掛けた瞬間、子供はその目を際限まで見開いた。地雷だとわかっていてわざわざ踏んだ、男はもう慌てたりしない。

な、に、言ってんの。やっとの思いで言葉を返したトキに、彼は柔く笑いかける。

「女の子が一人暮らしってのァ、やっぱいけねーよ。いくらしっかりしてたって中学生だろう」

それに俺、実体が無いみたいだし。

おどけたように言い添えて男はトキを見る。親と一緒に暮らしたほうが、お前の為だよ(だって彼には護ってやれない。護るための、身体が無い)。

「僕は、平気だ」

「一人は淋しいって、言っただろう」

「ポチがいる」

「……それでもな、」

このままじゃお前は、一人になる――寸前まで出かかった言葉を男は無理矢理飲み下した。

「……俺とお前は、違う」

生きる世界も立場も、全て。

言えば子供はぐっと手を握り締め、そのまま無言で下を向いた。それで良い、と男は思う。

――トキの為に、何かしてやりたかった。強情で横暴で寂しがりの、この子供に。

「なぁトキ、一人は、淋しいよ」

男は知っていた。他人の中に自分の居場所を見いだせない、その淋しさを。孤独の恐ろしさを。

「……ひとりは、さみしい」

記憶を失った。世界から隔絶されたことを知った。最後に別れを言いたかった相手がいたのか、それさえわからない。自分という存在を認めてくれた人間が、この世にどれだけいたのか。自分が生きていた証拠を伝えてくれる相手が、見つからない。

それは果てしなく深い絶望のように思えた。その淵に叩き落とされそうになった時、男は気付いたのだ。彼には、トキがいてくれること。

トキの為に、何かしてやりたかった。

「でも、僕、」

俯いたまま、トキは絞り出すように言葉を紡ぐ。

僕は、会えないんだ。言った瞬間肩が震えて、泣いているように見えた。

「会いたいけど、会えないんだ……」

「――俺が、何とかしてやる」

ぐらり、傾ぎそうになった身体に鞭打って男は立ち上がる。子供の頭をもう一度撫でた、彼は漠然とそれを感じていたのだ。



 急がなくては、ならない。




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