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人間、本気を出せば空だって飛べる。
(……なんて、俺はもう“人間”とは言えないのかもしれないが)
男は空を仰ぎ見た。
“思い込み”とは結構な力を持っていたようで、今まで普通の人間と何ら変わらないように動いていた身体は、男の認識一つでずいぶんと特異な動きをするようになった。例えば歩行。地に足を着けるという感覚は、意識しなければ簡単に忘れることができる。自らの軽さと透過性を年頭においてその身体を浮かせることが出来た時には、彼は年甲斐もなくはしゃいでみたりした(トキからは冷たい目を向けられた)。
能天気だと、端から見れば思われるのだろうか。しかし男は自分の運命を受け入れてしまっていたのだ。トキの語った言葉はすとんと音を立て、不思議なほど簡単に彼の胸のうちに納まった。不自然だったのは寧ろ、今までの状態だったのだろう。
「あーあ」
欠伸混じりに思い切り伸びをする。空を飛ぶのは二日でやめた。飽きたわけではなく――どちらかと言えば楽しくて仕方がなかったのだが――酷く疲れる行為であることに気が付いたからだ。
死人が疲労する。何だかおかしい、と男は思う。その不安を言葉にしたことは、まだなかった。
トキと過ごす時間はひどく穏やかで、男にとっては安らぎの一時だった。柄じゃないとは思ったのだけれど。
何にも縛られることの無い身になって初めてわかる。自分は今までたくさんの物に触れながら、その本質を一つも理解せずに生きてきたのだ。
木漏れ日の煌めきや空の青さに、男はやっと気が付いた。生き物は暖かい。命のエネルギーは眩しくて、尊いものだった。
もう手は、届かない。
「ねぇ、死ぬのってどんな気分」
ある日の問い掛けは、この子供にしてはやけに真剣だったように思う。正直あまり自覚の無かった男は長時間考えた末に、勿体なかった、と答えを返した。
「へぇ。変わった感想だね」
「生きてりゃもっと色んな事があったかなァと思うとな。うん、悲しいとか怖いとかじゃねーよ、勿体ないカンジ」
もったいない。彼の言葉を繰り返した、子供の真意はわからない。けれど納得したように笑うから、どうやら彼の答えはお気に召したらしいと男は思うことにした。
「俺が生きてれば、成長してべっぴんになったお前といつか何処かで会ったかも知れねぇよなぁ」
「……だとしても僕が大人になる頃には、ポチなんてもうただのオヤジでしょ」
「オヤジ言うな! ……おーおー、そうだろうともさ。何せお前は現段階でまだまだお子ちゃまだからな」
「殺す」
「いやいやいや何この子、怖ッ!! ……ってアレ、俺もう死んでるんだった」
冗談と本気の区別がつかない掛け合いも、憎まれ口ばかり叩く存在も、男にとってはかけがえの無いものだった。
生きているうちにこの子供に会いたかった。そう思うと少しだけ、切ない。
「トキ」
いつでも何処でも、呼べば茶色い頭がひょこりと現れた。以前に比べれば、この子供はだいぶ穏やかになったように感じる。相変わらずの王様ぶりを発揮してはいるが、ずっと素直になった。隠し事が無くなったからなのだろうか。
でも男はまだ、この子供について殆どを知らない。
「出かけようぜ」
「人混みはやだよ」
「わーってるって」
何度か繰り返すうちに手を繋ぐ事にも慣れた。緩やかに進行する共同生活の、始めに戸惑ったことを思えば懐かしい。
彼を必要とする子供から離れる理由はなかった。どのみちこの世には、もう居場所など無い身だ。平穏な現状を維持することが、どう見ても幸せな選択である。
……予感はあった。けれど男はそれを、この子供に告げる気などない。
「行くよ、ポチ」
笑うトキに連れられて家を出る。ほんの一瞬だけ襲った眩暈に、彼は気付かぬふりをした。
いつまでこのままでいられるのかわからない。
この世に留まっていられる保証など、実は何処にもない。
霊体にも関わらず不調を訴え続ける身体が、そのリミットを示しているような気がした。そんなこと、寂しがりの子供には伝えられない。
時間が欲しかった。
どうかまだ、このままで。