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前半コミカル、後半シリアス。最後までお付き合いいただければ幸いです。連日更新が目標。
彼が目を覚ました時、世界は酷く歪んでいた。
透明な膜に包まれた景色が光と混じり合ってぐんにゃり融解している。はて、ここは一体何処だったか。訝しんで瞳を二、三度瞬けば、次第に視界は鮮明になっていった。同時に何かが頬をつ、と伝う感覚。手で触れたそこはしっとりと濡れていたので、涙を流したらしいとぼんやり思う。
けして悲しくて泣いたわけではない、生理的な現象だ。寝起きはどうも眼球が潤む。
(……寝起き?)
そこまで考えて漸く彼は違和感に気が付いた。自分がいつ寝たのか、とんと記憶に無い。寝る前まで何をしていたのかも覚えていなかったし、何処で寝たのかもわからないのだ。
「……何処だここ」
声に出してみて急激に思考がクリアになってゆく。まずい、かなりまずい。心の中で反芻させれば背筋が冷えた。
どうやらまた悪い酒の呑み方をしたらしい。
嫌なことがあるとすぐ酒に頼る、それは彼の悪い癖だった。前後不覚になるまで飲んだくれた挙句、記憶を意識もろとも飛ばしてしまったことなど数えきれないほどある。酔った勢いでふらふらと出歩いて路上で行き倒れ、目が覚めたときには警察のお世話に、なんてことも数度経験していた。どうやら今回は後者らしい。
(やっちまった)
あーあーあー、どうすっかな。頭を掻き毟りながら見上げた天井は見慣れないものだった。溜め息を吐きながら寝ていたベッドからもそもそと体を起こす。男一人の体を横たえるには十分な広さのある、真っ白なシーツに包まれたそれは簡易ベッドとしてはやけに上等だ。
お巡りさんにまた頭下げねェと。ぶつぶつ呟きながら初めて自分のいる空間を見渡した彼は、次の瞬間きょとんと目を見開いた。
「へ?」
零れた声は間抜け極まりないものであったが、彼にそれを気にしている余裕はなかった。交番の休憩室か何かだと思い込んでいたその場所は、何とも小綺麗な個室だったのである。誰かの家、のような。
勉強机と本棚と、クローゼットが一つずつ。それから彼の座っているベッドが一つ。白い壁に白い天井、小さな窓と清潔そうな水色のカーテン、それと焦げ茶色のドアだけが景色の全てだった。 どう見ても警察署や交番では、ない。彼はそこの内部なら(不本意ながら)何度か見たことがあったし、そうでなくともここが違うことは一目瞭然だろう。
なにここ。男はぼやける頭を奮い立たせながら考え込む。
「誰の部屋だよ……」
「あ、起きてる」
わけがわからず頭を抱えそうになった瞬間、聞こえた声に心臓が跳ね上がった。
何処から現れたのか(と言ってもドアからなのだろうが)、何時の間にか部屋の中に見知らぬ子供が立っていた。飲み友達の誰かの家かも知れないと思い始めていた彼の予想を綺麗に裏切った、その子供がこの部屋の主なのだろうか。
「気分はどう」
少年なのか少女なのかもわからない、問い掛けた声は淡々としていた。茫然としているしかない男のことをじっと見つめたその子供は中性的な顔立ちをしていて、髪の長さも耳の下までと、性別を判断するには曖昧だ。小さな鼻と唇、目ばかりが硝子玉のように大きい。
「えっと……」
「……」
「警察、なわけねェ……デスヨネ」
動揺の余り言葉が崩れる。目が覚めたら知らない場所にいて、知らない人間と対面しているのだから無理もなかった。これは一体どういう状況なのかさっぱりわからない。
何から尋ねれば良いのやら、唸って悩む男を子供は暫らくしげしげと観察していた。やがて満足したのか、丸い瞳をすっと細めてみせる。
「……おじさん、」
「オニーサン」
二十代でオジサン呼ばわりされれば流石に傷付く。(こんなことしている場合じゃないのはわかっていたが)咄嗟に訂正を入れた彼を、子供は面白そうに見つめ返した。
「おにーさん。アンタ、誰?」
「俺?」
先ずは自己紹介からということだろうか。男はほんの少しの間思考して、まあ良いか、と決断を出す。見ず知らずの他人に名乗るのは抵抗があったが、相手は子供だ。おまけにどうやらその子供に助けられたらしい、ということに彼は薄々気付き始めていた。
早いとこ話を済ませてここが何処か聞いて、家に帰って風呂に入ろう。そう思って口を開いた彼の表情が、次の瞬間そのまま硬直する。
「俺、は」
………、
……………。
……………………あれ? 俺、誰だっけ。
*
*
*
「………………………え、」
えぇえぇえぇええぇぇェェ!?
たっぷり三十秒の沈黙の後、近所中に聞こえるのではないかというくらい大きな声が轟いた。叫んだのは子供ではなく男の方である。
笑い事ではなかった。考えれば考えるほど思い出せない。彼は自身の名前も住所も電話番号も、仕事をしているのかいないのかも、家族の有無さえわからなくなっていたのだ。
「えェェ? マジで? 俺……嘘ォォォォ!?」
「うっさいなァ」
何処からか椅子を引っ張りだしてきてベッドサイドに座った子供は、脚を組み頬杖をつきながら男を眺めていた。 冷静な表情に色は見えない。男の由々しき事態にも我関せずといった様子だ。
「だってお前、これアレだろ!?」
「記憶喪失」
「ンなベタな展開あってたまるかァァ!!」
もう一度声を張り上げた男に、あーはいはいそうですか、と面倒臭そうに相槌を打った子供は僅かに首を傾げた。色素の薄く細い髪がさらりと揺れる。
「まー良いじゃん。よくある事だし」
「無ェよ」
「言葉を覚えてるだけマシでしょ」
言われて男はゾッとした。彼の今覚えてることといえば、何故かはわからないが自分の年齢と性別(見ればわかるが)ぐらいのものである。これで喋れなければ絶望的だ。そこまでいくと記憶喪失ではなく退化だが。
「僕は、トキ」
そう呼ばれてた、と子供は言った。僕、と言うからには男なのだろうか。それにしてはやけに線が細い気もする。
自分がこの子供――トキ、と同じぐらいの頃はどうだったかを思い出そうとして、男は早々に諦めた。すっぱり記憶が抜け落ちているのだ、わかるはずがない。
「アンタは」
「……何だ」
「自分のことがわからない。家にも帰れない」
「そーだけど……」
事実を淡々と突き付ける、トキはどこか楽しげだ。反対に男の顔は色を失ってゆく。
そうだ、これからどうすれば良い?
「仕方ないから、しばらくここに置いてあげるけど」
「え、」
まじですか。
男にとっては願ってもない話だった。こんな子供の世話になるわけにもいかないだろうが(今は一人のようだがきっと親だっている。いなければおかしい)最低限、今後の見通しが立つまでの居場所があるのは安心材料になる。今直ぐ身一つで放り出されるよりずっと良い。
礼を言おうと笑みを浮かべた彼はしかし、トキの次の言葉に凍り付いた。
「アンタの名前はこれからポチね」
「ポチィィ!?」
だって名前覚えてないんでしょう。言われたことはその通りなのだがあんまりだ。
ポチって。ポチって。ぶつぶつ繰り返す男の事は綺麗に無視してトキは続ける。
「僕ちょうど、ペットが欲しかったんだよねー」
能面のような無表情から一変、初めて子供が見せた笑顔は“にこり”ではなく“ニヤリ”だった。黙っていれば整った顔をしているのに、と男は思う。思っても言わない。それほどまでに、子供の笑顔は凶悪だった。
名前も家もわからない彼にとって、トキは唯一の頼みの綱だ。漸く冷静になってきた頭で考えてみたが答えは一つだった。
拒否権は、ない。
この瞬間、男はポチになったのである。