姉と私「手」
姉の手は、綺麗だと思う。
まっすぐに形の整った指。手入れの行き届いた爪。染みひとつない肌。程よい肉付き。
まるで、コマーシャルの手みたい、と私はたびたび言うのだが、姉はいつも、
「もう、けいちゃんはお世辞がうまいんだから」
などと言って、まともに取り合ってはくれなかった。
けれど私は、姉の手は世界で一番綺麗だと、心底思っていた。
姉が料理をする時も、仕事でワープロを打つ時も、りんごの皮をむく時も、私は姉の手ばかりを見ていた。
布巾を絞る時、携帯電話でメールを打つ時、洗濯物を干す時、お茶を淹れる時、髪を手ぐしで整えている時、何かを考えなが ら顎に手を添える時。少しでも姉の手が見えれば、そればかりを目で追っていた。
私達には自分の部屋がないので、おおよその時間を、居間で一緒に過ごしている。
テレビを見ている時の、テーブルに置かれた姉の手をじっと見ているので、私の勉強は全くはかどらない。
参考書の問題が進んでいないことに姉が気づくと、
「ほらほら、そっぽ向いてないで、勉強しなさい」
と言って、居間から姿を消してしまう。
姉の手が見えなくなって、ようやく私は、勉強に身を入れはじめる。
「でね、その先輩っていうのがまた面白くてね、
……ねぇ、けいちゃん、聞いてる?」
夕飯時も、私の目は姉の手に釘付けになってしまっていた。
もちろんその間、食事は進んでいない。
「あら、全然食べてないじゃない。どこか具合でも悪いの?」
否定すると、姉はしばらく私を見つめはじめた。
両手を、頬に添えている。
やっぱり私は、姉の両手を見つめる。
他から見れば、二人で見つめ合っているように見えるのだろうが、私は姉の手を見ているので、その通りにはなっていなかった。
見つめたままの姉が、やっと口を開く。
「けいちゃん、ずっと私の手ばかり、見てるわね」
私は、目を見開いた。
姉から、そんなことを言われるなんて。
今までになかったことなので、大層驚き、思わず姉の目を見てしまった。
姉の顔を見たのは、なんだかとても久しいような気がする。
ああ、そういえば、姉はこんな顔をしていた。
「この手に恋でもしてるの?」
冗談まじりに、笑いを含めて姉は言った。 だがその言葉で、やっと確信が持てたように思う。
私は、姉の手を愛してしまっている。
笑いださない私を見て、姉も笑うのを止めた。
少しだけ何か考えた後、腕を真横に伸ばす。当然、私の目も、同じ方向に動く。
「けいちゃん、私を見て」
手を伸ばしたまま、姉は呼びかけた。私は黙って従う。
私の目を確認すると、姉は手を下ろして、静かに言った。
「そんなに、好きなんだ」
私は、うなずいた。
どうしてこうなってしまったのだろう、と思うと、涙が出てきそうだった。
無論、泣きたくないので我慢した。恐らく、顔はゆがんでいたと思う。
「今まで、ずっと、そうだったの?」
うん、そうなの。
姉の問いに言葉が出せず、私は頷いた。
顔をさらに歪ませて、それでも視線は、姉の手を離さなかった。
その姉の手が、徐々にぼやけていった。
「いつから、なんだろうね」
ほんと、いつからなんだろう。
もう、きっかけさえも、忘れてしまっていた。
なおも私が黙っていると、姉は席を立ち、私の隣に座った。
私の方に体を向けると、私の顔を両手で包んだ。
どこを見ていたらいいのか分からないので、目を閉じた。溜まっていた涙がひとつこぼれ、姉の手に落ちた。
「けいちゃん」
姉が呼ぶ。
姉のきれいな手が、私の顔に触れている。両頬に、姉の手を感じる。
姉の手の温度と、私の頬の温度が、緩やかに同じになってゆく。
でも。
それでも私は、平然だった。
そんなことをされても、動じたり浮かれたり、しなかった。
自分でも、なぜこんなにも落ち着いているのか、不思議に思った。
その答えは、目の前からすぐに返ってきた。
「こんなことじゃ、もう満足できないんでしょう」
そうなの。もう、足りないの。
相変わらず声には出せず、心の中で答えながら、首肯した。
もう、近くで見るだとか、触れるだとか、そういった類の欲求ではなくなっていた。
私は、さっき嘘をついた。
この泥のような感情に、『愛している』だなんて綺麗な言い回しは、とても似つかない。
では、この気持ちは、何というのだろうか。
「それじゃ、この手は、けいちゃんにあげる」
あげる、と言われた瞬間、私は堰を切ったように泣き出してしまった。
ああ、そうだ。
この感情は、欲望だ。
綺麗なものを手に入れたいという、誰もが持っていて、誰もが自然に抱く、ただの欲望だった。
翌朝、眠りから覚めて目をこすった際に、違和感に気づいた。
いつも見慣れている手が、私の両手首から生えていた。
慌てて起き上がり、居間で朝食を用意している姉のもとへと駆けつける。
「あら、おはよう。けいちゃん」
姉は、いつものように片手を軽く上げて、挨拶した。
上げたその手は、綺麗ではなかった。
姉の手の次に見覚えのある、紛れもない私の手であった。
改めて、私の持つ姉の手を見た。
とても綺麗な形と肌をしていたが、姉が持っていた時とは、どこか違っていた。
どこが違うのか分からなくて、もう一度、姉が持つ手を見る。
姉の手は、いつもと同じようにせわしなく動いていた。私の持っていた手が、せわしなく動いていた。
その瞬間、何かとんでもないことをしてしまったような気がした。
思い知ってしまった後、私は泣き出した。
姉に見つからないように居間を出て、扉を閉める。
泣き顔を押さえる私の手は、とても綺麗な手をしていた。