虚ろなる者たち(3)
「おねーちゃーん、まってー! まってよー!」
とても大好きな姉がいた。姉は太陽のように明るく、誰に対しても優しく、真っ直ぐで、皆から愛された。
妹はそんな姉の事が大好きだった。いつも優しく笑って、ぎゅっと手を繋いで、どんなところに行くのだって一緒だった。
朝起きて歯を磨くのも一緒。ご飯を食べるのも、学校に行くのも一緒。遊びに行くのも、夜眠るのも一緒。
喧嘩なんて一度もしなかった。する必要がなかった。姉はいつも妹を尊重してくれたし、妹もそんな姉に全幅の信頼を置いていたから。
なんでも真似をしたがった。姉と一緒でなければ気が済まなかったから、姉が祖父に勧められて始めた剣道も一緒にやった。姉はとても強く、才能に満ち溢れていたけれど、妹は姉のようには振る舞えなかった。
妹もまた美しく純粋な心の持ち主ではあったが、それを人前に表す事を苦手とした。大勢の中で華やぐことよりも、一人きりの静かな時間を愛した。
気持ちは同じ、二人は瓜二つのはずなのに、姉はいつも誰にも愛された。姉がいつまでも自分だけのものではないのだと悟った幼いある日を境に、妹は寂しさを紛らわせるように姉に対抗心を燃やすようになった。
姉にできることは自分もできるようになる。だからなんでも競争だった。歯を磨くのもご飯を食べるのも学校に行くのも遊びも眠るのも……剣道も。
汗だくになって竹刀を振って、必死に毎日練習をしても姉は遠い存在だった。どうしてだろう? 時折思い悩む。歳はそれほど離れていないのに。姉はなんでもできて、自分はその後追いに過ぎない。
それでもいいとあきらめた少女時代、妹は姉とは違う、しかし近い場所に自らの居場所を見出した。姉とは少しだけ距離を取り、それでもどこかで繋がっていたかったから。
弓道を志したのもその頃だ。剣道は誰かを傷つける。大切な姉を前にすると思い切り振り下ろせず、うまく実力を発揮できない。
けれども弓は違う。心を研ぎ澄まし、遠く離れた的を見つめ、その先にある自分の幻想を見つめ、射る。誰にも遠慮しなくていい。大声も出さなくていい。静寂の中で己を見つめる時間が心地よかった。
「お父さんとお母さんが……離婚って……」
そんな予感は以前からしていた。だからこそ姉は、家庭の不和から妹を守るためにいつもそばにいたのだ。
姉はいつも敏感に両親の問題を察知し、それとなく妹を遠ざけてきた。それはまだ少女だった姉にとっても辛く悲しい事だったというのに、その片鱗に気づけなかった。
「まだするかもって話だからね。大丈夫だと思うんだけどね。私が何とかしてみせるから、ミユキちゃんは安心していいんだからね」
頭を優しくなでる姉の手が好きだった。暖かくて、触れた部分から優しさが染み込んでくるように思えたから。
けれど自分はいつでも守られる側で、姉に何もしてあげられない。それがいつも心苦しかった。
何年か経ち、次第に両親の不仲は隠しきれるようなものではなくなった。母の不貞が原因だとしり、母を憎みそうになった時も、姉はなぜか一生懸命に他人の為の言い訳を繰り返した。
誰かが傷つく事を嫌い。大切な人を守る為に希望を信じ続ける姉。その姿をとても美しく思い、そして同時に哀れに思った。
きっと太陽の中にいる姉は気づかないのだろう。この世界にはたくさんの影があり、目にするも悍ましい、醜い人の感情にあふれている。
自分がいつも光の届かぬ影の中にいるからこそ感じた嫌悪。姉が信じるほどこの世界は美しくなく。けれどもそんな姉は、どうしようもなく美しかった。
「お母さんの事は心配しなくていいよ。私がついてって支えるから」
両親がいよいよ離婚することになっても。裁判できっちり誰が悪なのかが詳らかになっても。姉はそれでも母親を信じ続けた。
「どうして? あの女は私たちを捨てて他の男に走ったんだよ? それなのにどうして……?」
「お母さんが私たちを捨てたなんてそんなはずないよ。今は少し素直になれなくなってるだけ。ちゃんと話を聞いてあげて、ちゃんとこっちからも歩み寄ってあげればわかってくれる」
「姉さん……そんなの無理だよ。人間は姉さんが思ってるほどちゃんとしてない。あの人が改心するわけない。お父さんを苦しめて罵って……自分の為の言い訳ばかりして。醜くて汚い大人なんだから……」
ぎゅっと拳を握りしめる。どうしてあんな女の娘に生まれてしまったのだろう。
確かに父親は仕事が忙しく家に居つかなかった。家の事はあの人に任せきりで、それでさびしかったのかもしれない。だけどそんなものば不貞の言い訳にはならない。
何もかも承知の上で結婚したはずだ。承知の上で子供を産んだはずだ。それが大人の責任のはずだ。それなのにどうして今になって、まるで何も考えていませんでしたなんて、自分の罪さえも理解していませんでしたなんて、そんな愚かしいことがあるのだろう。
「姉さんがそんなことする必要ない。東京に行けば、私たちとも会えなくなるんだよ?」
「ミユキちゃん……。確かにミユキちゃんの言う通りかもしれない。もうだめなのかもしれないね。だけどもうだめだって、全員が諦めてしまって……それで最後に私まであきらめちゃったら、それは本当にどうしようもなくなって……親子だっていう、この世界にたった一つしかない繋がりさえもなくなってしまって……。そんなのは、さびしすぎるよ……」
「自業自得じゃない。一人になりたくないのなら、集団の中でルールを守ればよかった。そのために社会があって、家族があったんだよ。ルールを守れない人間ははじき出されても仕方がない。仕方がないんだよ」
姉は本当に困ったように笑って。それから暖かい手で、いつものように妹の頬を撫でた。
「“仕方がない”なんて、そんな言葉……私はミユキちゃんに使ってほしくないな」
「姉さん……?」
「諦める事は、いつだって思い続ける事よりも簡単だよ。こんなもんかって、まあしょうがないかって、仕方がないなあって……。だけど、諦めてしまったら、その瞬間本当に何もなくなっちゃうんだよ。本当にもう……しょうがなくなっちゃうんだよ」
手に触れようとして、しかし遠ざかる姉の姿。姉はマフラーを首に巻き、靴を履いて背を向けて。
「だからね、私東京に行くね。ちゃんと自分でバイトして、住むところも探すから。少しでもお母さんのそばにいて、あの人を支えてあげたいんだ」
「本気なの……? だったら……私は? お父さんは? 置いていくの? あの人みたいに捨てるの!?」
「ミユキちゃん……?」
「姉さん……そんなのバカだよ。なんで? どうしてそんな風に愚かなの? きれいごとばっかりで、全然現実的じゃない! 姉さんはなんとなくいつも恵まれていて、なんとなく全部どうにかなって……そんなだから人の気持ちもわからない! 私の気持ちも……お父さんの気持ちも……あの人の気持ちも……」
思わずはっとして顔を上げると、姉は少しだけ振り返り悲しげな眼を向けていた。それでもやっぱり最後には笑って、「ごめんね」と言って扉を開けた。
「姉さん……姉さん!」
駆け出しても姉は振り返らなかった。寒空の中、大切な人が遠ざかっていく。自分よりも裏切り者を選んで、手の届かない場所へ……。
「どうして……どうしてなの? 間違ってるのは、私の方なの? ……違う、私は間違ってなんかない。間違ってなんか……間違ってなんかっ!!」
零れ落ちた涙が乾いたアスファルトに吸い込まれて消える。力なく崩れ落ち、少女は本当に久しぶりに、人目も憚らず声を上げて泣いた。
姉の事を嫌いになろうと思った。もうあんな奴知らないって。けれど、それは叶わなかった。
いつだって本当は彼女の事を気にかけていた。それはきっと姉も同じ。一回も返事なんか出さないのに、毎月手紙が届いて。丸っこくてかわいい、女の子らしい字でたっぷり近況が書いてあって。たくさんの手紙の中に、笑顔の友達が写っていて。仏頂面のあの女とのツーショットすら、あって。
決して見捨てたわけでも、裏切ったわけでもない。わかっている。姉はすべてをきちんとやり直そうと、ただ正直に願いに従っているだけなのだと。人を信じて、自分を信じて、希望を信じて……決してあきらめずに。
そんな姉から連絡が来なくなり。XANADUというゲームの話を手掛かりに、レイジと出会って。この異世界に降り立って、二年もの歳月を孤独に過ごして。
姉が残したものがこの世界にはたくさん溢れていて。どこに立っていても胸がざわつくような気がして。素直になれず正直になれず、ただ本当の気持ちをまっすぐにぶつけられなかった後悔と、厳しい現実に打ちのめされて……。
それでも、幸せは確かにあった。自分を救うために必死になってくれる人がいた。友達と呼べる人がいた。裸のままのありのままの想いをぶつけ、それに応えてくれる人たちがいた。
強くならなければと思った。確かに願った。力が欲しい。きちんと誰かと分かり合いたい。願いを叶えたい。夢を叶えたい。
あきらめずに信じ続ける力が欲しい。困難を乗り越え……まるであの人の様に。太陽に照らされる月ではなく。自らが太陽になれる様に――。
――魔王が振り下ろした渾身の刃は、少女の視線の先で停止していた。
魔王の意思ではない。確かに今も振り下ろそうと力を込めているのに、切っ先はびた一文動こうとしない。それどころか気づく。全身が全く動かない事に。
声も発せず驚いているのに瞳すら震えない。いつの間にかミユキは立ち上がっていて、しかしまるで周囲の時間が止まったかのように彼女の額から血の滴が零れ落ちることはなかった。
「わた……しは……。姉さんに……なりた……かった……」
あの人の様に暖かく。あの人の様にまっすぐで。あの人の様に優しく。あの人の様に愛されたかった。
「でも……なれな、かった……。私は……姉さんには、なれ……ない……」
全く別の人間で。どんなに焦がれても、その幻想が身に落とし込まれることはない。そんなことは知っている。だから最初から同じ風にはしなかった。
けれどもその根本にあるのは。心の奥底にある願いは。幼い頃から何一つ変わらず。ただ彼女のあとを追う事だけを叫んでいたから。
虚ろな瞳に火を灯し、頽れた体に芯を通し、折れかけた心に接ぎ木を当てて、少女は顔を上げる。
「だから……違う。私の本当の願いは……過去に戻る事。過去に戻って、もう一度姉さんに……伝えられなかった事を、今度は正直に……だか、ら……」
“巻き戻れ”――。
その願いのままに世界は動き出す。時間にして一分足らず。あの一瞬、魔王が疾駆し距離を詰めるあの瞬間まで、まるで巻き戻しのように、しかし意識はそのままで繰り返す。
時を刻む音が聞こえる。カチン、コチンと響く。魔王はそれに驚きながら、しかし“あの時と同じようにしか動けず、そのまま膝蹴りを繰り出した”。
ミユキはそれをかわし。当然のようにあらゆる傷が全快した躰で“弓”を振るった。その衝撃で魔王は大きく背後へと吹き飛ばされる。
スローモーションのように空を舞い、ゆっくりと着地する魔王。次の瞬間カチンという音と共にすべてが急激に動き出した。時の流れは絶対的なものに戻り、まるでこれまでの流れがすべてなかった事になる。
「……何をした?」
「……さあ?」
正直な話、本人もよくわかっていなかった。だが少しずつ理解する為の努力を始める。
自分が今何をしたのか。自分の本当の願いはなんだったのか。手にした大弓が二つに折れ、形を変える。せり出した柄を掴めば、まるでそれは最初からそういう形であったかのように。
“鞘”から“剣”を抜いて。刀身はない。矢と同じように光で織り成す。そう、弓は紛い物。あの人と真正面からやりあっても勝てないからと諦めて無理にゆがめた願望に過ぎない。
だから本当はこれだ。こうだった。思い出すように願いを紡ぐ。祈りを紡ぐ。そういう事だ。ああ、わかっていた。自分は最初から――これで姉を超えたかった。
「私、姉さんに勝ちたかった……」
抜刀すると同時に振るわれた光の斬撃が遠く離れた魔王にまで波及する。魔王もまた炎で相殺するが、一瞬で距離を詰めたミユキが背後に構えている。
「姉さんに勝って……認めてもらいたかった」
再び抜刀と同時に無数の斬光が魔王へ迫る。光速の衝撃波を防ぎきれず全身を斬りつけられるが、魔王の鎧が衝撃を拡散する。しかし体は凍てつき、身動きが取れない。
納刀と同時、鞘の底を打ちつけ魔王を吹っ飛ばす。すぐさま刀から弓へ形状を変化させ、掌の中に青白く光り輝く矢を作る。放たれた一閃は魔王の露出した胸部にあるコアに直撃し、盛大に氷が花開くと同時、コアに亀裂を生じさせた。
「JJが言ってた。これが心願という奴なのね。今ならなんとなくわかる……たぶん、これなら負けないと思う」
「心願……なるほど。心の奥底にある、本当の願い……それが貴様の宿した業なのだな」
にこりと笑顔を浮かべるミユキに魔王も笑い返す。全身からあふれ出した炎が氷の領域を一撃で粉砕し、結晶の欠片が空を舞う。
二人は同時に構え、中央で激突する。炎と氷、直進と逆進の力は光を溢れさせながらぶつかり合い、せめぎ合う。
「姉さんに見せてあげるね。私がどんなに姉さんの事を想っていたか。あなたの事が大好きだったか」
「それは素敵だな。だが、それだけではないのだろう?」
「うん。やっぱりごめん。私、姉さんに……レイジさんを渡したくないみたい」
照れくさそうに笑い、勢い任せに魔王を押し切る。躰のあちこちを凍え腐らせながら魔王は満足そうに笑う。そう、やはり。こうでなくては――意味がない。
「正々堂々、全部ちゃんとしたいから。あなたを倒して、きっちり仕切り直す。魔王アスラ……あなたの事は知らない。あなたが何を願っていたのかもわからない。それでも私は躊躇いなく、己の願望の為にあなたを斬る」
「やってごらん。それがミユキにできるのならば――ね」
「……ふ、ふふ……あは! あはははははははっ!!」
のけぞるようにして突然笑い始めたロギアにオリヴィアが眉を潜める。その時になって漸く気づくのだ。ロギアの体を拘束していた光の鎖が途切れている事に。
「やった……やっと……やっとだ! やっと解放された!! 時間はとっくに過ぎているのに……“リセット”が来ない! 世界が死ぬのをやめたのよ!!」
嬉しそうに、しかし涙を流しながら絶叫するロギア。そのあまりに鬼気迫る様子に誰もが息を呑んだ。ロギアは肩を震わせ小さく笑いながら、すっとオリヴィアを指さす。
「貴女です。貴女が今……く、ふふふ……この世界に認められたから……あは。世界はもう……私がいなくても……あはあは。いいって……お役御免って事です……あはは!」
「え……は? 一体、何が……?」
「まだ気づいていないのですか救世主? 私は最初から、この少女に話を聞かせる為に貴方を呼びつけたのですよ。わざわざ塔の外に出て、その子に聞こえる場所を確認して」
剣を向けるオリヴィアもわけがわからず混乱していた。ロギアはゆっくりとオリヴィアへ歩み寄る。まるで混沌の底のような、どす黒い瞳で。
「この世界が“進化”を確信し安堵するためには。私をこの世界から解放する為には。勇者ではなく、この世界にもともと備わっている貴女達人間が意思に目覚め。変革に目覚め。“世界”を納得させる必要があったのです」
ロギアは懐から懐中時計を取出し、それをうっとりと見つめた。時計の針はすでに滅びの時を指し示している。だが、世界はまだ何事もなく存続しているではないか。
「つまり……オリヴィア。貴女が完全に自我に覚醒したおかげで、王としての役割に目覚めたおかげで、この世界は自らの将来性を認識し、結果として私の束縛が解けたわけです。ありがとう、オリヴィア・ハイデルトーク……本当にありがとう」
オリヴィアは小刻みに震えていた。それはこの世界が救われたからではない。むしろ逆。
今、自分は何か決定的な事をしてしまったのだと予感したからだ。おそらくこれでもう、“これまで通り”ではない。それが何を引き起こすのか、もう誰にも予想できない。
震えるオリヴィアの切っ先を掴み、ロギアは笑みを浮かべる。引き裂かれた皮膚から血が流れても強く、女は強く切っ先を包み込む。
「ちょっと、待て……。今日この世界が終わるって、さっき……」
「ええ。終わるはずでした。ですが終わらない可能性もあった。だから賭けたんですよ。いえ、仕上げたというべきでしょうか。レイジ……救世主よ。貴方は本当によくやってくれました。こんなにも人間の意識に変革を起こしてくれた。自らの意思で殺意を抱き、神に仇名す程に」
「え……? あ……? え?」
愕然とするオリヴィアはあわてて剣から手を放した。がらんと音を立てて転がったダモクレスの剣の先端からゆっくりと血が滴っていく。
「オリヴィア・ハイデルトーク……貴女は上位世界の人間を否定しましたね。しかし貴女自身のやっていることはまさにそれです。理不尽を憎み、敵を憎み、嘆き、吠え、絶望に抗する為に怒りで刃を砥ぎ、殺戮と嫌悪でのみ明日を切り開く生き物、それが人間です。この世界は間違いではなかったと言いましたね。ええ、実にその通りです。計画通り貴女は、貴方達人間は、異世界人と接することでその人が本来持つべき可能性を吸収する事に成功した。怒りや憎しみ、そんな真黒な感情の果てに、人は争いの中で無限の進化を繰り返す。それこそが“世界”の欲していた願いなのですよ」
胸がぎゅっと苦しくなり、上手く呼吸が出来なくなる。思わず後ずさりながら服の上から胸を掴み、荒く肩を上下させる。
そんなつもりじゃなかった。だけれども間違いなくそうだ。少女は自らの胸の奥底に人を憎む気持ち……理不尽を打破するための“殺意”を抱いてしまった。それこそが世界が進化を認めるスイッチであり……この世界に欠けていたものだった。
世界の王であるオリヴィアが抱いた殺意は感染し拡大する。この世界ではやがて当たり前にすべての人間が殺意を理解するようになるだろう。“現状を嘆き”。“解決の為に怒り”。“殺意を以て奪い”。“また奪われ、奪い返す”。それは上位世界の人間とこの世界の人間が全く同じになることを示唆している。
「わ、わた……わたし……」
「おめでとうオリヴィア。この世界はもう貴女の物です。さあ、王権を振りかざしなさい。自らの国に凱旋なさい。その先に待っているのは、王座を巡る争い……貴女の望んだ、間違いの世界です」
「ああ……ああ! ああああああっ!!」
崩れ落ちたオリヴィアへと駆け寄るレイジ。オリヴィアは焦点の合わない瞳で頭を抱え涙を流している。
「オリヴィア! しっかりしろ、オリヴィア!!」
「わたしは……なんて……なんてことを……。ああ……だめ……。抑えられない……どうして……っ」
震えながらレイジの上着を掴むオリヴィア。その胸の奥底に沸いてしまった、自らが知らんぷりをやめて肯定してしまった黒い感情がこの世界に広がっていくのをはっきりと感じる。
「レイジ様……ちがう……ちがうんです。そんなつもりじゃ……わたし、そんな……そんな、つもりじゃ……ああ……ごめんなさい。ごめんなさい……」
「オリヴィア……? ロギア! オリヴィアに何をしたんだ!?」
「何もしていませんよ? ただ世界が進化を確信し、私の拘束を解いた。ただそれだけの事です」
「そうじゃない……これから何がどうなるんだって聞いているんだ!!」
レイジの叫びにロギアはにたりと笑う。背筋の凍るような邪悪な笑み。先ほどまでの人間らしい感情のこもった言葉などまるですべて幻であったかのように、その闇は心を苛む。
「さあ? この世界の停止していた時間が流れ始め、永遠の理想郷は終焉を迎え……普通の世界に戻ったんじゃないですか?」
「普通の世界って……」
「食べ物が無限ではなくて、住む場所が無限ではなくて、資材が無限ではなくて、人の寿命が無限ではなくて、当たり前にそれらを奪い合い憎み合う世界ですよ? まあ、そんなことは別にどうだっていいんですけど。私はこうして晴れて自由の身になった。世界はもう、管理を行う神を必要としていないという事です」
「え……それって……?」
「はい。ですから、貴方達が神になることも不可能になった、という事です」
瞳を見開き呆然とするレイジ。ロギアは嘲笑するようにして唇に手を当てる。
「貴方が神になる為にはある手順と条件を踏む必要があったんですよ、救世主。まずこの世界が不完全なままで、神の支援を欲している状態であることが最低条件。その上で私が死ぬなりなんなりして……まあ基本的に世界の加護を受けている間は不死身なのですが……まあそれでもなんとかするとして。その上でレイジ、貴方がこの世界に望まれ、神に選定される事。ですがどちらの条件もすでに満たす事はできませんね。世界は変化を確信したのならこの世界を滅ぼすこともせずに眠りにつくでしょう。これでハッピーエンドです」
「そん……な……」
「……ああ。それとも、この世界が自死によって滅び続ける方が貴方にとっては都合がよかったのですかね?」
笑うロギアの言う通り。レイジはその事実から目を背けていた。
神を必要とする世界。神になろうとする行動。オリヴィアの言う通りだ。レイジはこの世界の未来を見てはいなかった。過去をやり直す事ばかりで、この世界の秒針を先に進めようとしなかった。
ただ今にとどまり続けようと願うだけで何を成せるというのだろう。泣きじゃくるオリヴィアを抱きながら少年は強く歯を食いしばる。
「俺は……何をやってたんだ……」
そうして気づく。ロギアに対する世界の呪縛が解けた時だろう。レイジの力を奪っていた呪縛もまた消滅していたと。
あの呪縛はまさに同一。世界が神と認識するものを繋ぎ止める為の呪い。異世界からの召喚が“神の召喚”を誤認させて行われるのなら。神の権能を分け与えたのが精霊器だというのなら。レイジに対し世界からの干渉が働くように調整するのも不可能ではなかった。
同じ呪縛に繋ぎ止められていた二人は同時に解放された。レイジは泣き崩れるオリヴィアに上着をかけて立ち上がる。その眼差しを神へと向けて。
「――ああ。もうその気になったら自分を上位世界へ転送させることも可能なようですね。安心しました。もう世界は私を繋ぎ止めていない」
「ロギア……」
「貴方達勇者は、この世界中に散らばって人間を蹂躙し、導く為に召喚したのです。貴方は十分にオリヴィア・ハイデルトークに希望を見せ……その心に闇を植え付けた。その働きはまさに救世そのものです。感謝していますよ、レイジ」
「……………………ロギアァアアアアアアアッ!!」
叫ぶと同時に自らの影から精霊器を作り出すレイジ。これまでに取り込んだ人々の願いが形成す刃を前にロギアは冷たく見下すように目を細め。
「八つ当たりですか? 自らの行いによって世界が思う通りにならないというだけで泣きわめく……愚かですね、人間というものは」
次の瞬間、ゆったりと左右に腕を広げたロギアの背後から無数の武具が出現。まるで光背のように神の背で回転をはじめ、女は光を帯びて浮かび上がる。
「なるほど、権能はそのままですか。封印も解かれ、真の意味であらゆる神の力を扱う事が出来るようになりました。ああ。全く以て興味はありませんが――まさしくこの世界は今こそ私の思い通りです」
空中で足を組み、天に片手を掲げるロギア。するとパンデモニウムを覆っていた分厚い雲が晴れ――天空に浮かぶ城よりも更に上空が澄み渡る。
青空の彼方、この世界に存在しない宇宙と呼ばれる空間の代わりにそれは最果てとして浮かんでいた。神と世界とが対話するための座を有する場所、“神域”。普段ロギアが留まっていたゲームマスター専用の領域がゆっくりと降下を始める。
「なんだ……あれは……?」
「私が何万年も住んでいた家ですよ。あれも権能で生み出したものです。そして、これも――すべて権能です」
翼を広げた神域の下部が展開し、彼方此方に砲台のような突起物がせり出してくる。そこから勢いよく放出され始めたのは砲弾ではなく、大型の棺のような物体であった。
その中のいくつかはまどろみの塔にも飛来。レイジ達のすぐそばに着弾した。機械的なデザインの棺が開かれその中から姿を見せたのは、アンヘル達と同じ、武装した天使であった。
「これは……戦闘型の天使?」
「先ほど説明しましたね。私は五百万体の天使を操れた、と。尤も、世界の干渉を受けなくなった今ならばその数は無尽蔵でしょうが」
アンヘルとは異なる装備の、仮面で表情を隠された天使達。一体一体が剣や槍を手に翼を広げ、レイジ達を包囲する。
「もちろん強いですよ。本気で死に始めた世界には劣りますがね。……ほら、どうです? これからこの世界を軽く終わらせてみましょうか。本当にこの世界が繰り返してしまわないかどうか、検証が必要ですからね」
「本気で言ってるのか……!?」
「ええ。と言っても、まあ、この世界で滅んでいないのはもはや中央大陸だけですので……あそこだけ終わらせてしまえば済む事なのですが」
はっとした様子で顔を上げるオリヴィア。泣きはらした顔で剣を拾い上げ、神へと刃を向ける。
「オルヴェンブルムだけは……私の国だけは……あなたの思い通りになんか……っ」
「なりますよ?」
あっけなく指をさすその先で、大量の天使がオルヴェンブルムへと射出されるのが見えた。棺に包まれた天使は着弾と同時に町を貫き人々を吹き飛ばしていく。
「いや……いやぁあああああっ!!」
悲痛な叫びが響くと同時、レイジは刀を手に駆け出していた。その行く道を無数の天使が塞いでも彼を止めることはできない。一瞬ですべての敵を薙ぎ払い、雷を纏った救世主は神と対峙する。、
「憎しみですか? たったそれだけの感情で、もうどうにもならない結末をひっくりかえせるとでも?」
言葉もなく刃を振るうレイジ。その一撃を受け止めたのは見知らぬ神の精霊器であった。空中で足を組んだまま、頬杖をついたままのロギアの背後から放たれた無数の光を帯びた武具がレイジを襲い、その衝撃に距離を離される。
「どうせもう終わる世界です。少々面倒ですが……良いでしょう。その恨み、憎しみ、悲しみ……付き合いましょう。そして終止符を打ってあげましょう。ご苦労様でした……レイジ」
次から次へと放たれる光が、魔法が、刃がレイジを襲う。影から生まれた茨でそれらを薙ぎ払い、レイジはただ感情だけを空に吼えた。




