キズナ(3)
「――おや。目が覚めましたか、救世主?」
ゆっくりと、闇の中に沈んでいた意識が覚醒し始めていた。この世界の理は眠る勇者に夢は見せない。故にレイジの意識はただ闇の中にあり、目覚めはひどく唐突なものであるように感じられた。
意識だけではなく体全体がまるで泥のように重い。何度か目をきつく閉じてからゆっくりと開き、どこか耳慣れた声の方向へ視線を傾けた。そこでようやくレイジは自分が椅子のようなものに拘束されているという事、そして自らの眼前に一人の女が立っている事に気づく。
女は白いドレスを幾重にも着込んだ長身の美女であり、その顔を銀の仮面で覆い隠していた。だがそれが今となってはなんの意味もないという事を彼女も自覚しているのか、ゆっくりと仮面に手をかけ、素顔を露わとした。
「アン……ヘル……。いや……お前は……」
「改めて自己紹介でもしましょうか。私の名はロギア……この世界の管理者です。織原礼司……いえ、レイジと呼ぶべきでしょうか。一度貴方とこうして言葉を交わしてみたいと常々思っていました。世の理を変革する存在――救世主と」
何度か頭を振ると、ようやく靄が晴れるように意識がはっきりとしてくる。見渡せばそこが牢獄の類である事は明らかであり、椅子の上に座るレイジの手足は頑強な鎖で縛りつけられていた。それは決して頑強なだけのただの鎖ではない。どんなに力を込めたところでびくともせず、精霊器は勿論魔力の一欠けらすら顕現させる事を拒む封印具であった。
「貴方は自身に起きた事のあらましを正常に記憶していますか?」
「……俺は確か……あの時……」
記憶を掘り起こすと眉間に鋭い痛みが走った。それが“彼”の精霊器の影響であることは明らかで、レイジは何ともやるせない表情を浮かべる。
あの時からどれほどの時間が過ぎたのか判断する手立ては存在しない。だが一つ確かな事は、あの時遠藤の弾丸がレイジの胸を穿ち、結果レイジはこうして囚われの身となったという事だろう。まさか未だこの身が無事であるとは思っていなかったので、それが不幸中の幸いだろうか。どちらにせよ、彼にとっては好ましくない状況に変わりはない。
「遠藤さんを嗾けたのはあんたか?」
「はい。とはいえ、遠藤が私と協力関係を結んだのは随分と以前の事……そうですね。貴方の認識で表現するのならば、フェーズ2の終わり頃、だったのですが」
「フェーズ2の……そんなに前から……?」
「彼が独自の目的意識を持ってこの世界へやってきていたという事は貴方も聞き及んでいたのでしょう? そして貴方は知っているはずです。彼が目的と手段を取り違えるような人間ではないという事を。彼は決して感情に流されず、ただ己にとっての最良を掴み取ろうとした。人としてどこまでも優秀な人材であると言えるでしょうね」
「……俺はそうは思わない。遠藤さんは……間違っている」
「それは貴方の倫理観と違えているだけの事。物事に真の正当性など存在しません。きれいごとを口にして叶えられるほど、人の望みは安くはないでしょう? そう……貴方もまた、己が願望の為に過程を踏みにじろうとした一人。彼と貴方は同類でしょう」
楽しげに語る女の声にレイジは何も言い返す事が出来なかった。
確かにそれはその通りだ。レイジは自らの過ちを認めようとせず、それを取り返す為に戦ってきた。ただただその願いを叶える為、その為だけに戦い抜いてきたのだ。手段を選んでいる余裕などなかった。だからこそ、幾つもの失敗を重ね、失態を晒し、悔恨に苛まれながら前に進んできたのだ。
「結果、貴方は全てを帳消しにする権能を求めた。“神の座”……それが貴方の傲慢の終着点。自らの願いの為にこの世界全てを掠め取ろうというその愚かで醜い結論は、決して誰にも許されるようなものではないでしょう」
「……そうだな。確かに俺のしている事は傲慢で愚かだ。希望を追いかけて傷ついて失敗して、その度に挫けそうになり……また新しい希望に縋って歩き出す。そんな事を繰り返し繰り返し、多くの歎きや苦しみを生み出してしまった」
神の力で全ての過ちに清算を――。その願いは本来人の身に余る大罪である。もしもこのザナドゥという異界でなければ、はたまた彼が異界に招かれた英雄でなければ夢見る事すらおこがましくばかばかしい結論であったはずだ。だがそんな光が目先にちらりと過った刹那、彼は己の愚かしさを鑑みる理性すらなかったから。
「俺の罪は受け入れる。俺のしたすべての過ちも、許されない誰かの想いも……全て」
「しかしそれも結局は叶わなかった。貴方は失った者に懺悔することもできないままここで終焉の時までただ封じられ時間を浪費するのです」
「……何故俺を封印する? どうしていっそ殺さない? お前にとって邪魔な存在だというのなら、俺をさっさと始末してしまえばいいはずだろう? なのに何故……?」
「理由は幾つかありますが……希望的観測か、或いは絶望的観測か。どちらにせよ、貴方が“生きているのか死んでいるのかわからない”事こそ世界変動値を跳ね上げさせる要因となり得る。無限に繰り返されるこの物語はいよいよ終幕の時を迎えようとしています。役者はこれまでで最高のものを……そして筋書きもまた、貴方のお蔭で揺らぎを得ようとしている。ならば導き出される結論は、きっとこれまでの私を踏破するでしょう」
うっすらと笑みを浮かべるロギアの表情は確かに笑顔だというのに、何故かその瞳からは何の感情も読み取ることができなかった。何度目を凝らしてロギアを捉えようとしても、何故だが彼女の事が意識に入ってこない気さえする。確かにそこに生きているはずなのに、まるで幻のような気配。その不気味さはレイジの胸に冷たく染みついていく。
「……お前は俺たちを使って何をしようとしているんだ」
「私はただ、終わらせたいのです。ただただ、終わらせたいのです。すべてのものが一度始まった瞬間から終わりのその時に向けて動く事を本能とするように。私もただ、終わりのその瞬間を迎えたいのですよ……救世主」
凍った笑みを隠すかのように仮面を纏うロギア。女はそのまま牢屋からするりと抜け出すと格子を閉ざし、レイジが囚われた部屋を完全に封鎖してしまう。
「世界が終るその時に再び会いましょう。その時を貴方はそこでただ待っていなさい。己の願いが……夢が。追い求めてきた希望が崩れ去るその瞬間に胸を焦がしながら……ね」
足音が遠ざかっていくのをレイジはただ俯いたまま耳にしていた。扉が閉ざされる音が響き渡り、薄暗い牢獄の中にただ静寂が残された。
「遠藤さん……こんな……こんな事で本当にいいのかよ……」
きつく目を瞑り歯ぎしりをしても悔しさは消えない。こんな事になってしまったその責任は間違いなく自分にもあるのだ。そしてロギアの言う通り、自分がここにただ囚われているだけできっとたくさんの人が悲劇に巻き込まれてしまうだろう。
「みんな本当にお人好しだから……俺がこんな所にいたままじゃだめなんだ。まだ……やらなきゃいけないことがある。俺には……!」
何とか鎖から逃れようと足掻いてみるが、封印具はぴくりとも動かない。鎖と腕との間には多少の隙間があり、もがいたところで肉に食い込むような事はないというのに、なぜかまったく動かないのだ。普段のレイジならばそれが強力な魔法の力を持っている事を肌で感じることもできただろうが、今の彼は封印具の効力で“世界とのつながり”を絶たれた状態にある。つまりただの一人の人間以上の存在ではないという事だ。
「守らなきゃいけない物が沢山あるんだ……! 大事な物が……大事な人達がいる! 俺のわがままを、間違いをここまで守ってくれた人達がいる! だからあきらめてる場合じゃないんだ! 俺は……! それに……遠藤さん……!」
封印に抗おうともがいていたその時、再び牢獄に来訪者の足音が響き渡った。まだロギアがここを後にしてから間もないというのに一体誰がと顔を上げたレイジの目の前に現れたのは、まったく予想だにしなかった人物であった。
その面影を追いかけて、その声を聴く為にここまで足掻いてきた。失った未来をもう一度と願い続け、足掻き続け、それでも届かずに何度も胸に突き刺した苦悩に抉られながら、それでももう一度と願ったその大切な人が。夢が。幻が、そこに凛と佇んでいた。
黄金の鎧を身に纏った魔の王。笹坂美咲の“躰”を有するその女は無言でレイジを見つめていた。レイジもまた沈黙と共に眼差しを返す事だけしか出来なかった。戦場でただ一度きり交わった二人の重く複雑な運命は、容易く言葉に出来るものではなかったから。
「――久しいな、救世主」
その沈黙を破った言葉が、その第一声があまりにも彼女と同じで、しかし決して同一ではないのだと思い知らされ胸が軋んだ。笹坂美咲はこんな冷たい声で自分を呼ばない。それどころか救世主だなんて、そんな言葉使おうとすらしないだろう。途端にがくりと力が抜け、レイジはうつむきながら息を吐いた。
「……何の用だ」
「そう邪険にすることもあるまい。見ての通り貴様は神の法により守護されている。貴様に触れることは愚か、私には近づく事さえ許されぬ」
「だったら早々に去れ。俺はお前と口を利きたくないんだ」
「随分と嫌われたものだな。そんなに目障りか? “サササカミサキ”の躰は」
驚きに思わず顔を上げると、アスラはどこか穏やかな表情を浮かべてレイジを見つめていた。その変化にわけもわからず取り乱してしまう。それもそのはず、今この瞬間のアスラの声に、眼差しに、あれだけ追い求めたあの人の名残を見つけたのだから。
「おま……え……。どうして……それを……」
「さて、それは私が知りたい事なのだがな……。この躰は本来用意された魔王の器ではないらしい。ミサキという、“救世主”の躰に私の精神を定着させたものだそうだ。その影響だろうな。私はどうやら、ミサキという存在に強く影響を受けているらしい」
「それは……いったいどういう……?」
「――ミサキの精神は死んだ。あれはこの世界で作られた仮の肉体の消失と共に完全に精神活動を停止したのだ。中身を失った躰は上位世界に取り残されたまま……それをロギアが回収し、アスラの精神を乗せた。だが、それはロギアにとっても初の試みだったのだろうな……」
「えぇーっ!? じゃあ私、あの竜に負けて死んじゃったんだね……ショックだぁ」
アスラにとって見覚えのない景色、それは笹坂美咲の記憶によって構成されていた。
彼女が馴染み親しんだ京都の景色。そこにある公園のベンチに腰掛け、誰もいない静寂の世界に二人は並んでいた。片方は躰の、そして片方は精神の主。同じ顔、同じ声、しかし服装の異なる二人は永遠に沈まない夕日を眺めていた。
「記憶にないのか?」
「うん……。えっとね、私が思い出せる記憶はあの日、竜に挑む為にログインする直前まで。そこまでの事も結構飛び飛びだけど……でも、それまでの事は思い出せるんだよね。ただ、私が死んじゃったその日以降の事はさっぱり……」
「……おそらく上位世界の躰に刻まれた記憶の限界がそこだったのだろう。そこから二度と貴様の精神は上位世界の器に戻ることがなかったのだから、記憶は永遠に上書きされんよ」
「あー。つまりそこから先はセーブしてないから、データがないって感じなのかな? でも、こうやってアスラと話すようになって、アスラがアスラの中の私を自覚してくれるようになって、少しずつ少しずつ、アスラの記憶が私にもわかるようになってきたんだ。だからなんとなく……なんとなくだけど、今どんな状況なのか、私にもわかるんだ」
少しさびしげな笑みを作るミサキをアスラは腕組みしたまま無表情に見つめる。ミサキは体を大きく伸ばしながら深く息を吐き、どこか遠くに想いを馳せた。
「そっかぁ……。私、死んじゃったんだ」
「ああ。この躰に残っている記憶……つまり今の貴様もやがて私の精神活動に上書きされ跡形もなく消え去るだろうな」
「だよね。一つの躰に二つの心なんて、そんな矛盾……長く続く筈がない。だからわかってるんだ。私がもう終わってしまった夢の続きのような存在で……決してもう、死んでしまった事実が動く筈はないんだって。それでもね、アスラ。私はあなたとこうして話ができて、うれしかったな」
にっこりと笑みを浮かべるものだから、どうにも理解出来なくなる。目の前のミサキは精神活動が脳に焼付いただけの文字通りの幻だ。だからそれが現実に何か影響を及ぼすような事はあり得ないし、しょせんは消え去るだけの存在。だが今ここに意識の残滓があることは間違いのない事実であり、アスラはそんなミサキにとって黙っているだけで自分を殺す存在なのだ。それを恨みはしようが、“よかった”だなどと語るのは正気の沙汰とは思えない。
「私がいる限り貴様は間違いなく消滅する。サササカミサキであった事は何もかもがなかったことになる。それでも貴様はよかったと言うのか?」
「だって、元々心が死んじゃってそれで終わりのはずだったんだよ? そこにアスラがきてくれて、私の躰を守ってくれていたから、こうやって少しだけでも言葉を交わす事が出来たんだから。今の私は幽霊みたいなものだけど……でも、こうやってアスラと話せるからさびしくないしね」
「……それは嘘だろう。貴様の胸は軋んでいる筈だ。私の目を通し、記憶を通して知った、この世界の顛末を垣間見てな」
ばつの悪い表情を浮かべ、静かに目を瞑るミサキ。その瞼にははっきりと焼付いている。泣き出しそうな顔で、自分が残した剣を必死に握りしめて戦うレイジの姿を。この世界にまで自分を追いかけてきてくれた大好きな妹の姿も。自分が死んでしまった、その過ちが多くの悲しみを生んでしまった事も。
「私の……せいだね。レイジ君をあんなに独りにしてしまったのは。だめだなあ、私。いつも良かれと思って行動して空回り。本当に大切な人を傷つけてばかりで……。本当、いやになる」
「大切な人、か。私には理解出来ん事だ。私は所詮、命じられた役割を演じるだけの装置に過ぎない。そんな私が貴様のような躰を得て、その美しい心を塗りつぶしてしまう事を申し訳なく思う。だが、私にはどうする事も出来ぬのだ。私は私自らの意志で、存続することをやめる事が出来ない」
口元に手を当て無表情に考え込むアスラ。ふと気づけばその横顔をミサキは嬉しそうに見つめていた。その理由がわからずに首をかしげるアスラの頬にミサキは手を伸ばす。
「なんだ? 何を笑っている?」
「理解できないなんて、そんなの嘘だよ。だってアスラはこの世界を、これまで何度も何度も繰り返し見つめてきたんでしょ? 今だってそう、ちゃんと心があるあったかい人間のセリフだったんだから」
「……はあ。そういうものか?」
「笑ってみてよ、アスラ。そしたらきっとすべてがうまくいくよ。悲しいことも、苦しいことも……笑ってみてよ。アスラに足りないのは理解じゃないよ。ただ気持ちを、心を、表に出して表現する事なんだから」
頬を温かい両手が包み込む。ミサキは顔を寄せ、優しい瞳でアスラへ囁いた。
「――ね? 笑って見せて、アスラ」
「……ミサキの記憶はわずか私の記憶に紛れるように焼付いていた。私はこれまでに何度か彼女と言葉を交わした。そしてレイジ、ミサキが貴様にどんな思いを抱いていたのかを知った。だから伝えに来たのだ。貴様に彼女の言葉を……な」
「ミサキは……ミサキはまだ生きているのか!?」
「死んでいる。もうその精神はとうに活動を終えている」
「だったら代わってくれ! 少しでいい! 話をさせてくれ!」
「不可能だ。できるのなら最初からやっている」
「なんだよ……それ……。どうしてお前なんだ……。どうして……」
話を聞いたレイジは明らかに取り乱していた。背後で両手を拘束されたまま少しでも距離を近づけようと前に身を乗り出してみるが、封印具がそれを許さなかった。叫ぼうが祈ろうが事実は変わらない。目の前にいるのはミサキではなくアスラ、それも決して変わることのない現実なのだ。
「ミサキは……何て……?」
「……自分を追うのも、負うのもやめろと」
きつく目を瞑りながらその言葉を聞いていた。わかっていた事だ。これまでの事すべて、ミサキが望んだことではなかったと。ただ自分のエゴを振りかざしていただけなのだと。
「それでも……俺は……取り戻すよ。たとえミサキ自身が、それを望まなくても……」
「何故だ?」
「そんなの……好きだからに決まってるだろッ!!」
レイジの叫びにアスラはきょとんと眼を丸くする。それでもレイジは叫ぶのをやめなかった。
「好きだから会いたいんだ! ミサキに会いたい……会いたい! もう一度話したい……もう一度俺に笑いかけて欲しいっ! 自分の傲慢だってことはとっくにわかってる……でもっ、この願いは諦められない! 追うなって? 負うなって!? そんなの追うにきまってるだろ! その罪の全てを背負ってでも、追いかけるに決まってるだろう!」
この姿で、この声で、そして彼女の言葉で語ることこそ、彼女の願いに沿うのだとアスラは考えていた。だがその考えが甘い事であり、むしろ逆効果であったのだとすぐに理解する。前髪の合間から覗く真っ直ぐなレイジの視線は、願う事を諦めたりはしていなかった。ただ意志の炎を宿した、強い目だったから。
「――待ってろ! お前をその躰から追い出して、ミサキを取り戻してやる! だから……伝えろ! すぐに助けに行くって! 消えずにそこにいろってな――ッ!!」
「――ああ、伝えよう。やはり貴様と話せてよかったよ……レイジ」
マントを翻し立ち去るアスラの横顔には微笑みがあった。二人の存在は決して交わることはない。だからこそ、それを快く思う。
「覆して見せろ。全ての過ちを」
愛する人の姿をした魔王が残した言葉をレイジは胸に焼付ける。その痛みに少年は負けなかった。これまでの過ちが、これまでに紡いだ絆が彼を支えていたから。
状況をすべてひっくり返すその瞬間まで、少年は決してあきらめないと誓った。この光の届かぬ封じられた牢獄の奥底で闇に包まれても尚、彼の心はただ光だけを追い求めていた。




