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XANADU  作者: 神宮寺飛鳥
【虚ろなる者たち】
84/123

キズナ(1)

 ――あれからずっと、胸の奥に引っかかっていた事がある。

 何かが決定的に変わったのだと、ジュリア・ジョイスは自らを振り返る。あのゲームに出会う以前の自分と今の自分はまったく違う。そう、世の中の見え方が……世界に対する接し方が変わったから。

 これまでないがしろにしてきたものに、この世界の全てのものに純粋な気持ちで接しなければならない。そして自分に与えられた愛情と同等の愛を返さねばならない。それが人が生きていく上で必要な事であり、それを全うする事こそが生きるという事の意味だと、そう悟ったはずだった。

 努力は果てしなく続くだろう。それはきっとこれまでのツケだ。二十にも満たない人生の中で、とても短い時間の中で繰り返し先送りにしてきた問題を、その山をこれから彼女は時間をかけて解体していく。それはやりがいのある命題だ。挑むだけの価値がある。今度はきっと生きる事を楽しんでいける……そう思ったはずなのに。

 季節は冬に移り変わろうとしていた。今年は秋を感じる間もなく強い寒さが訪れたから、少女は厚着をして電車に乗り込んでいた。

 地方へ向かう電車の中は人もまばらでそれなりに過ごしやすかった。それでも臆病さが身に染みてしまっているジュリアは視線を膝に落としたまま、そこにある携帯電話を見つめていた。

 あれからずっと……胸の奥に引っかかっていた事がある。それは一人の少年の事だ。

 自分にとって何が最良で、何が最も人を傷つけない選択なのか。冷静に考え、客観的な結論を下した。その結果少女は自分の身の回りの人々と自分自身を選び、彼を見捨てた。

 それは論理的な結論だ。自らを犠牲にするという事は簡単な話ではないし、人が一人で生まれ、一人で育ってきたのではない以上、無責任な話でもある。彼は自らの環境と過去の全てを焼き払っても構わないと命をなげうち戦いに挑んだ。それは滑稽な行いだ。何の保障もなければ勝ち目も薄い。そこに命と自分の大切な人たちを天秤にかけるなど、ばかげている。

 わかっていたはずだ。だからきちんとわかった上で別れを告げたはずだ。それでも彼は笑顔でそれを受け入れて、いつかきっと全てを取り戻すと約束してくれた。その約束を無責任に信じていた自分も愚かだと思う。それでも彼ならばあるいは……そう信じずにはいられなかった。

 織原礼司は不思議な少年だった。まるで何も持っていないはずなのに、カラッポの身体に少しずつ誰かの思いを溜め込んで強くなっていく。変わっていく。優しくなっていく。そんな彼が奇跡ばかりを見せてくれたから、きっと鈍ってしまったのだ。誰かを“信じる”ことを言い訳に――罪から目を逸らしていた。

 電車を降り、ジュリアが向かったのはある田舎町にある一軒家であった。その駅は彼が通学に使っていた最寄駅。ジュリアは携帯に表示されている地図を頼りにその家まで辿り着いた。家の前には黒塗りの車が一台止まっており、助手席にはスーツ姿の男性が座っている。ジュリアの事に気づいたらしい男性と目が合い、少女はあわてて電柱の裏にすべりこんだ。


「な、なにあれ? ヤクザ? いや……ヤクザ的な公務員の方?」


 ずり落ちた眼鏡を直しながらそっと顔をのぞかせると、助手席の男は怪訝な表情でジュリアを見ていた。要するにまた目がバッチリ合ってしまったのだ。

 あわてて引っ込んだジュリアに対し男は困惑した様子で扉に手をかけた。電柱の後ろに隠れていても車のドアを開閉する気配には気づく。その瞬間、ジュリアは息を呑んだ。

 彼女の想像通り彼は警察組織の人間であった。目的は当然、重要参考人である織原礼司から事情を聞きだす事にある。

 黒須惣介が起こした大量失踪……あるいは大量殺人事件の解決には既に警察が大きく介入しつつあった。その性質上、捜査は全国的に同時に展開され、ここ織原の家にも刑事が足を運んでいるのは当然であった。そこへ現れた不審な少女……当然声をかけないわけにもいかない。


「……では、またお話を伺いに来てもよろしいですかねぇ。といっても……ん? 何やってんだお前?」

「あっ、高柳さん。そこに何か不審な外国人の女の子が……」

「外人の女の子だぁ?」


 出てきたのは少し背の低い恰幅の良い男の刑事であった。彼の見送りに玄関先まで来ていた礼司の母親も顔を出し、三人の大人が電柱の影の少女へ注目する事となった。


「すげぇ髪の毛だな。電柱からはみ出てんぞ」

「織原さん、心当たりはありますか?」

「えっ? いえ……ただ、息子の友人かもしれません。この間もホラ、なんだかわからないけどコスプレした外人さんが急に訪ねてきた事もありましたし……」

「XANDUの関係者かもしれない。おい君、ちょっと話を聞かせてもらいたいんだが!」


 若い刑事が声をかけると同時、びくんと背中を弾ませてジュリアは猛然と駆け出した。しかし動きはかなりどんくさい。一度派手に転倒し、よろめきながら去っていくその後姿を追いかけようとする若い刑事を高柳は制止する。


「よせバカ。お前警察をなんだと思ってんだ。逃げるちっちぇえ女の子追い回してどうする」

「しかし、彼女もザナドゥの関係者かもしれませんし……」

「怖がって逃げてんじゃねぇか。あのなあ、俺らはただでさえ人から嫌われる仕事してんだからよ。話を聞きたかったらできるだけ穏便に接するもんだ……ったく。すいませんねぇ、織原さん。お騒がせしちゃって」

「あ、いえうちは全然大丈夫ですけど」

「でしたら申し訳ないついでにお願いしたい事があるんですがね……」


 高柳が礼司の母親に話をしていた頃、JJは必死で住宅地を走り続けていた。やがてそれも息絶え絶えに足を止めると、見知らぬ民家の塀に背中を預けて深く息を吐いた。


「……レイジ」




『……連日お伝えしているVRゲーム、“XANADU”が起こした事件に関する続報ですが……』


 JJがそれを知ったのは夕食後、自室でテレビを見ていた時だった。ワイドショーを騒がせるその奇怪な事件は、ジュリアにとって無関係なものではなかった。

 ザナドゥとのかかわりを完全に断ち切ったJJにその後の情報は一切入ってはこなかった。それがこんな形で目と耳に入る事になるだなんて想像もしていなかったし、そこから知ったさまざまな情報は彼女を苦悩に追い込むに十分な材料であった。


『えー、ここでいうVRシステムというのは、人間の意識をバーチャル……つまりゲームの世界ですね。えー、そこに完全に落とし込むというシステムの事を言うのですが……』

『まるでアニメやマンガのような話ですね。そんな事が果たして実現可能なのでしょうか?』

『んー、普通に考えればまあ、荒唐無稽な話になるでしょうねぇ……。しかし実際に行方不明者や意識不明に陥っている被害者が存在している以上は、本物のVRシステムではなかったとしても、たとえは集団催眠ですとか……なにかもっと現実的な理由からくる犯罪の隠れ蓑として、VRシステム、はたまたザナドゥというゲームの名前が挙がっているだけの可能性が……』


 情報がマスコミに漏洩したのは、当然誰かが垂れ込んだからだ。その誰かというのが何者なのかは誰にもわからなかったが、少なくともそれは既に成されてしまった。警察が実際に事件の調査に乗り出しているとなればこの数奇な事件はいよいよもってして人々の関心の集まるところとなり、お祭り騒ぎといっても良い傍観者達の矛先は、ついに被害者特定へと動き出した。そして行方不明ではなく、意識不明……実際に現実にその存在が確認されている者へと話題は移り変わっていく。


『京都に一人、このゲームに関わったまま意識不明になってる女子高生がいるんでしょ?』

『関東にも一人居るって話ですよね?』

『現在詳細は番組でも調査中となっておりますが、二人目の被害者に関してもやはり高校生、こちらは男性だという話になっています』

『いやー、怖いですねぇ。まさにネットの闇とでもいうべきか……』


 今やあらゆる情報はただテレビから発信されるものだけが全てではない。インターネット上で取り上げやすい、話題として焦点にあてやすいこのVRシステムを活用したゲームが起こした事件はあっという間に噂になり、あちこちで“祭”の様相を見せた。法の目を気にして未成年被害者の情報を出し渋るテレビ局と異なり、ネットを跋扈する無遠慮な祭りの参加者達は次々に被害者の身元を暴き、ネット上に流通させていく。そのネットに個人情報が漏洩しているという情報を一つの事件としてテレビ局が取り扱えば、被害者の情報は瞬く間に世間に晒される事となった――。




「……あら? あなたはさっきの……?」


 チャイムの音に玄関から顔を出した礼司の母の前、そこには小柄な金髪の少女がうつむきがちに立っていた。家の付近には既に警察の気配はなく、小さく会釈したジュリアを礼司の母は快く受け入れ、家に上げ暖かいココアを入れてくれた。

 外見年齢が実年齢よりもかなり幼く見えるジュリアを完全に子ども扱いしての対応であったが、ジュリアはただ追い返されなかっただけですでに心底ほっとしており、自分が子供扱いされている事にすら気づくことができなかった。


「それで、えーと……あなたは?」

「あ、はい。そ、その……ジュ……ジュリア……。ジュリア・ジョイスと言います……」

「はあ。ジュリアちゃん? かわいらしいお名前ねぇ」

「きょ、今日は……あの、その、織原礼司さんのことで……お話……というかその、礼司さんが、そのぅ……どこの病院に……いえ、病院がどこなのかはわかってるんですけど、その……病院の……あの……礼司さんに、会いたくて……ご家族の方の、許可、が……」


 もじもじと俯きながら途切れ途切れに話すジュリアに礼司の母は苦笑を浮かべる。


「そう、あの子のお見舞いに来てくれたのね。という事はもしかして、あなたも?」

「は……はい。わ、私も……その、ザ、ザナドゥの……で。それで、礼司さんとは、一緒に……やってました。だから……その、心配、でぇ……」

「やっぱりそうなのねぇ。あの子急に外国人のお友達がいっぱいできたみたいだけど、そういう事だったのねぇ……」


 ――織原礼司が意識不明の状態で発見され、病院に搬送された事をジュリアが知ったのは、このザナドゥ事件の情報がネット上で爆発的に流れ始めた後……つまり最近の事であった。しかし礼司はもう何週間も前に倒れ、病院に担ぎ込まれていた。そう、それこそあの――彼と別れを交わしたすぐ後。レイジはきっとあの異世界で何かに巻き込まれ、意識を失った。


「でも、ザナドゥ事件の関係者なら、あんまり不用意に外を出歩いたりしないほうがいいわ。今日も家の前に報道の人たちかしらねぇ。たくさん人だかりができてて、あの刑事さんがすごい剣幕で追い払ってくれたの。それまでなんだかピンポンばっかり鳴らされるし、わけのわからない話で私たちの方が混乱しているっていうのにね……」

「ごっ、ごめんなさい……そんなときに……」

「え? ああ、いいのいいの! 息子を心配してこんなに可愛い子が訪ねてきてくれたんだもの、母親としては嬉しいわ。元々これから病院に行くつもりだったんだけど……一緒に行く?」


 こうしてジュリアは礼司の母と共にバスで病院へと向かう事になった。

 礼司が入院している病院でもマスコミとはひと悶着あったのだが、それも高柳の手ですっかり平穏を取り戻しつつあった。それもいつまで持つものかはわかったものではないが、少なくとも病院に入る二人を阻害するようなものはなかった。

 面会の手続きを済ませ、迷わず病室へと向かう母につきしたがってジュリアが見たのは、病室の中、ベッドに横になって穏やかな表情で眠りについている礼司の姿であった。それはあのゲームの……異世界で何度も何度も見てきた顔。彼は現実に存在する人間で、こうして肉親がいて、普通に暮らしていたどこにでもいる高校生であり……。そんな現実を直視し打ち震えながら歩み寄り、ジュリアは少年の傍らに縋りつくようにして膝を着いた。


「レイジ……嘘でしょ……? どうして……どうしてよ。どうしてこんな事に……」


 もう、そんな事を問う資格すら自分にはないのだと、はっきり自覚している。それでも問わずには居られなかった。どうして。なぜ。こんな事になってしまったのか、と。


「死なないって……言ったじゃない。大丈夫だって言ったじゃない! なのにどうしてこんな……わかってたのに! こうなるって、わかってたのに……どうして……どうしてよぉっ!」


 最早問いはレイジへ向けられたものから自分へと摩り替わっていた。そうだ。わかっていたはずだ。こうなると知った上で見捨てたはずだ。彼をあの世界に一人、孤独に戦わせたはずだ。


「ジュリアちゃん……」

「私のせいだ……私のせいだ……! ごめん、レイジ……一人にしてごめん! 私がついてれば……一緒にいれば……傍にいられたら……っ」


 それで何かが変わったかどうかなんて誰にもわからない。全てはただの結果論。もし過去に、その瞬間にJJがあの場に居たからと言って悲劇を避けられたかどうかなんて事は誰にもわからない。それでも今、こんなにも張り裂けそうな胸の痛みを、こんなにも悔いてやまない過去を間違いと断言できる悲しみと……全ては嘘偽りのない正直な本心で。


「どうすればよかったの……どうすれば……。レイジ……レイジ……」

「ジュリアちゃん……ジュリアちゃん。落ち着いて。あなたのせいじゃないわ」

「私のせいなんです! 私が見殺しにしたんです! 私は怖かった……自分の失敗が大切な人たちを傷つけるかもしれないって、そう考えたら震えが止まらなかった! 逃げたんです、私は……ただ自分が傷つく事を恐れて……ただ自分だけがよければそれでいいって!」


 振り返りながら大粒の涙を零し震える少女に礼司の母は優しく微笑み、そっと肩に手を置く。


「人間は誰だってそうじゃない。みんな自分が一番よ。自分自身を大切に思うことは絶対に間違いなんかじゃない。自分を大切にする事、それが自分以外の全てを大切にする事でしょう?」

「そうだけど……そうですけど……それでも私は……私は……っ」

「礼司の事、心配してくれたのよね。大事に思ってくれたのよね。だったらありがとう。そんなにも一生懸命になってこの子の事を考えてくれる人がいる……それだけでどんなに私たちが救われるか。悪くない人なんてこの世界に一人だっていない。だけどね……それでも、誰かの為に涙を流す事はできるわ。それでいいじゃない。ねっ?」


 人前で泣くのは恥ずかしい事だと思っていた。だからいつでも歯を食いしばってつらい事も悲しい事も飲み込んできたはずなのに。誰かに少し優しくされただけでこんなにも思いがあふれて、止められなくて、涙になって零れ落ちてしまう。そんな自分の弱さに……そして乾いた心にしみこむようなその優しい言葉がどうしても礼司と重なってしまい、余計に涙が止まらなくなった。


「あの子が大丈夫だって言ったのなら、きっと大丈夫。大丈夫よ、ジュリアちゃん」


 目を瞑り、歯を食いしばりながら涙を流すジュリアの小さな身体を礼司の母は優しく抱きしめてくれた。それが余計に礼司と重なってまた悲しくなり、ジュリアはしばらく彼女の腕の中で涙を流し続けた。


「……やはりあの子もザナドゥの関係者でしたか」

「……おいこら、待てって。ありゃどう考えても被害者側の人間だ。今出て行くのは無粋」

「しかし高柳さん……我々には圧倒的に手がかりが不足してします! 少しでもプレイヤーから直接話を聞かなければ、ただでさえネット上は誤情報が飛び交っていますし……」

「わーってるよバァカ。それでも今ここに割ってはいるような必要性はねぇだろって話だ。泣いてるちっちぇえガキから無理くり話を聞き出すつもりかボケ。落ち着くまで待ってやるくらいの時間、俺たちにだってあるんじゃねえのか」


 病室の入り口に隠れていた二人の刑事。高柳はジュリアの目的をなんとなく勘で察し、もしもその勘が当たっていたならばここにジュリアをつれてくるように礼司の母に伝えていた。実際にこうして眠ったままの礼司と顔を合わせた様子を見ればジュリアがどんな立場の人間だったのかはわかる。とりあえずはそれを確かめたかったのだ。


「おめぇは真面目だが真面目なだけのバカだな。おら、小銭やっからとっととあったけぇ飲み物でも買って来い。当然人数分、あの子のは甘いのにしろよな」

「はあ……。高柳さんはどうするんですか?」

「俺はここで見張りだよ。女性二人だぞ? なんかあったら困るだろうがよ」


 とぼとぼ歩いていく部下の背中を見送りながら高柳は上着のポケットに忍ばせたタバコに手を伸ばそうとし、そっとその手を下ろした。部屋の中から聞こえる泣き声が止むまでは、もう少しだけ時間がかかりそうだ。そんな事を考えながら手持ち無沙汰な右手をズボンのポケットにねじ込み、男は肩をすくめた。

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