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XANADU  作者: 神宮寺飛鳥
【異世界】
80/123

ごめんなさい(1)

「――お隣、宜しいですか?」


 王都オルヴェンブルム内、リア・テイル城。その中庭には夜になると涼しい風が吹き込み、物思いに耽るには丁度良い心地良さを与えてくれる。どうしようもなく孤独で運命を呪うしかなかった数多の夜をミユキはこの場所で過ごしてきた。たった一人、噴水の縁に腰掛けて見上げる星空は“本物”によく似ていて、余計に物悲しい気分になる。その悲しさをやわらげてくれるのは、いつだってたった一人の友人……オリヴィアであった。

 オリヴィアはこの孤独な二年の月日を共に過ごした、唯一と言っていい友人だ。そもそもミユキは本当の意味での友人など一人として作った事はなかった。幼心に受けた大人や肉親からの“裏切り”は少女の猜疑心を強く育てていたし、何より誰かに対し素直に心をさらけ出すには彼女は臆病な性分だったからだ。

 このわけのわからない異界に放り込まれてよくよく理解した。どんなに強くあろうとしてみても、どんなに自分は大丈夫だと誤魔化してみても、絶望の前にはただ途方にくれるしかない。

 もう何もかもだめだと、心の底からすべてを諦め涙を流していた日々。それを変えてくれたのがオリヴィアだった。そう……ミユキがゲーム内のプログラムに過ぎないと見下し、命を持たない者だと侮蔑したこの少女だったのだ。その事実は少なからずミユキの価値観を変え、そして少しだけ少女を強くした。

 いつもの様に笑って隣に腰掛けるオリヴィアは金色の髪を靡かせながら気持ち良さそうに夜風を受けていた。ミユキは片膝を抱えるような姿勢のまま動かず、それに倣って空を見る。


「はてさて……どうしたものでしょうか、これから……」

「どうしたもこうしたも……どうにもならないでしょ」


 吐き捨てるようにして呟いた言葉は仲間たちへの失望から来るものだ。昨日、華々しく帰還を果たしたレイジが伝えた世界の“真実”……結局の所、それに耐えられる者は一人もいなかったのだ。

 JJもシロウも、今日はログインしていない。いや、そもそもログインですらなかったのだから、わざわざそれを繰り返す事もないだろう。勇者連盟の方はこれまでも組織崩壊が著しかったが、今となっては完全に瓦解したと見て良いだろう。


「この世界で戦い抜こうという気概があるのは私とレイジさんだけ……と、アンヘルもでしたか。たった三人だけであの魔王を倒せだなんて……不可能に決まっています」

「あ……ミユキは手伝ってくれるのですね、この世界の戦いを」

「いや……そうだけど……。そもそもあなたは? この世界が私達にとって完全な異界であると知らされて、なんともないんですか?」

「それは……ええ、まあ。元々私達は、皆様が異界から召喚されているという認識でしたし」

「……私達はあなた達の事、ゲームのキャラクター……生きても死んでもいない架空の存在だと思っていたのよ? それでもなんともないの?」

「ええ。だって、そのお話はこの二年間でミユキがさんざん説明してくれたではありませんか。ですから私はとうに皆さんの認識も、“ゲーム”という言葉の意味も、“NPC”と呼ばれる事がどういう事なのかも、すっかり覚悟していました。ですから今更何を言われたところで動じる必要はありません」

「強いんですね……オリヴィアは」


 オリヴィアは強い。それはこれまで見てきたのだから知っている。

 オリヴィアは強い。それは人間が本来秘める、覚悟の強さと意味を同じくしている。

 そう、だからこそオリヴィアは弱い。彼女は弱さや迷いを受け入れるという強さを持つに至った。だからこそ、弱いからこそ、彼女は誰よりも強く……そして誰よりも気高く在る。


「この世界にきて、ばたばた死んでいく人達を見ました。魔物なんてわけのわからない脅威に怯えながら、それでも死を遠ざけようと戦うあなたたちの事を知りました。私はこれまでなんて小さな事に悩み、なんて些細な事に腹を立てていたのか……私の生きていた世界の狭さを痛感しました。だからこそ私は……ここで諦めるわけにはいかない」


 すっかり希望の光すら見えなかった暗闇の中に、レイジは可能性を示してくれた。

 レイジが神になる。そして彼が取り込んだ人々の意思を、人格を復活させる。これまでに既に肉体も消滅してしまっているのならばいざしらず、ミサキに至っては肉体さえ健在だとこの目で確認が済んでいる。ならばまだ、何もかも終ったわけではない。


「むしろここからがスタート……。私はもう、逃げません。自分自身の願いから」


 強く拳を握り締めながら目を細めるミユキ。それから直ぐに肩を落とす。


「……とは言え、どうやってあんなバケモノになった姉を元に戻せば良いものか……。何か良い知恵があるのなら借りたいところですが……オリヴィア?」


 見ればいつの間にかオリヴィアは神妙な面持ちで俯いていた。気を窺うように声をかけると、少女は首を横に振りながら力なく答える。


「考えていたのです。レイジ様の言う、自分が神になるという事の意味と……この世界が神自らの手で滅びようとしている事の意味を」


 自分たちを誰がどう思っているか、そんな事は些細な問題だ。この世界の人間たちは、自分を客観視するという事に疎く、その分そういった事に関しては寛容だ。しかし神に関してはそうは行かない。彼女らは神の存在を信じていたし、自分達は神の寵愛に値するだけの存在であると確信していたからだ。

 どんな時でも、どんな苦難でさえも神が与えた試練であり、だからこそ神は自分たちに試練を乗り越えさせる為に勇者達を遣わしている……そう考えていた。しかし今となってはそれもすべてが曖昧になってしまった。神は何を目的として世界を滅ぼそうとし、そしてわざわざ勇者を招き入れるような真似をするのか……。


「ずっと考えていたのです。自らが創造したこの世界を、神自らの手で滅ぼそうとする意味を……。一体何がどうなればそうなってしまうのでしょう? ミユキは考えた事がありますか?」

「何故って……」


 そんな事は誰にもわからない。今や最も真実に近づいたあのレイジですらハッキリ認識していないのだ。この戦いが何のためにあり、誰が望み、仕組み、どんな必要性を持って試行されているのか……。返す言葉を捜し沈黙するミユキに、オリヴィアは真っ直ぐに次げた。


「――たとえば。私はお料理が大好きです」

「……また急なたとえ話ですね」

「あくまでたとえですから。私は料理に対し強い想いを持っていますし、料理を作る事を楽しいと感じています。しかし自分がそうやって想いを込めて作ったにも関わらず、なんの躊躇もなくあっさりと捨ててしまう時があります。それはどんな時でしょう?」


 答えあぐね肩を竦めるミユキ。オリヴィアは少し寂しそうな笑顔を浮かべ、目を閉じた。


「答えは……“どうしようもない失敗”をしてしまった時――ですよ」


 例えば、もう腐っている食材でも使おうものなら、その過ちは看過出来るようなものではない。自分で生み出したものが自分に害を成す……ならば作り手の取る道は一つだけ。己の手でその過ちを否定し、なかった事にする。そうやって失敗を取り消す事だ。


「神は……ロギアは。この世界を作った事を、悔いているのではないでしょうか」

「……世界創造を……後悔する……?」

「つまりこの世界は神にとって……どうしようもない、失敗作だという事です。だとすればここにいる私達は……これまで世界を支えてきた、この世界で生きてきた先人たちは……。それぞれの理想や希望に殉じ、それでも明日を信じて生き抜いた人達の誇りや魂は……決して報われる事はなく、ただ“なかったこと”になってしまうのでしょうか?」


 涙を流す事を知った、この世界でたった一人の少女。悲しみを理解し、共感する力……人間ならば当たり前に持つその力を、この世界で始めて具現化した少女。

 彼女はその目の前で彼の王が滅びた時、その剣を受け取りながら誓ったのだ。彼らの想いを決して無駄にはしないと。死も争いさえも、すべては意味のある事。意味のある事だったと、そうしてみせると。だというのに……神はそれさえも否定するというのか。

 剣を握り締めながら唇を噛み締めるオリヴィア。大切な物を踏みにじられた時、彼女は自然に憤りを覚える事が出来るまでに完成しつつあった。“人間”に最も近づいた“人形”は、その運命故に孤独であり、そして脆くもある。


「新たな神の統治する世界……それが私達にとっての安らぎならば良いでしょう。しかしその保障はどこにもありませんし……そもそも、神とはなんなのか。今の状況を、この世界の人間が正常に認識し判断を下す事が出来るのか……。それは私にさえもわからないのです。この剣の力を使って……ダモクレスの号令で彼らを従わせる事は出来る。けれども彼らのまだまだ伽藍に過ぎない心の中を伺い知る事は、私でさえも難しいのです。そんな状態の彼らにこの世界の真実を語り聞かせる事が……本当に、王として正しい事なのでしょうか……」

「オリヴィア……」

「……すみません。いけませんね、愚痴を言うなんて。私らしくもありません」

「そんな事ないわ。愚痴くらい言うわよ。人間……なんだから……」


 ゆっくりと顔だけで振り返り微笑を返すと、オリヴィアはゆっくりと立ち去っていく。淡い月明かりの下から城の影に吸い込まれていくその背中は、とても小さく……儚く見えた。




「結局、誰もこなかったでございますね、マスター」


 壁に背を預けたまま、リア・テイルの会議室でレイジは待っていた。この扉を誰かが開き、共に戦おうと名乗り出てくれる事を。それがどんなに一方的で無茶で理不尽な願いだったとしても、誰か一人でも居てくれれば……そう願わずには居られなかった。しかしもう二時間以上ここに突っ立っているのに、誰かが戸を叩く気配はないままだった。

 部屋の中をウロウロ歩き回り、落ち着きのない様子で壁際に立っている主を横目にアンヘルはティーセットを持ち込み、彼の分もお茶を淹れて見せた。誰かが来るまでそんな気分じゃないと言い張っていたレイジも、結局は折れて円卓に腰掛ける事となった。


「この世界から逃れられないミユキは必然的にマスターに協力を願い出るでしょうが、それ以外は全滅と考えた方がよさそうでございますね」

「……いや、まだ一時間あるだろ。決め付けるには早いよ」

「マスターの方がおかしいのですよ、本来は。あんな真実を知ってむしろイキイキしているように見受けられますが」

「そりゃそうさ、希望はまだあるんだ。俺は絶対に諦めない。なんだかよくわからないけど、今絶対諦めちゃダメだっていう強い気持ちがあるんだ。自分でもこう、上手く説明出来ないけど……一人じゃない気がする」


 きょとんとした表情を浮かべるアンヘルを前にレイジは苦笑を浮かべた。今ならなんとなくわかる。自分の能力と、それが何を齎すのかを。

 今の自分がここにいるのは決して偶然なんかじゃない。自分が受け継いできた皆の想いが、願いが、覚悟が……何度も何度も折れそうになる心をつなぎ合わせ、背中を押してくれた。だから自分はここにいる。ここにいることができる。どんなにそれが素晴らしい事か。少年の心の中には今、感謝しかなかった。例え仲間が誰一人ここにこなかったとしても……これまで自分を支えてくれた全ての人へ、感謝するしかない。


「ここで俺が諦めたらマトイに会わせる顔がないだろ? せっかく凄い力を貰ったんだ。この力ですべてにケリをつける。俺がこの世界をハッピーエンドで締めくくってみせる。その為になら俺は、たった一人でだって戦い抜いてやるつもりなんだ」

「マスター、しかしその力は……」

「わかってるよ。それでも俺は俺だ。俺はもう迷わない。この力を使いこなしてみせる。それになんだかんだ言っても今喋ってるのは俺の意識だし、そんなに心配要らないよ」


 明るくそう語るレイジだったが、彼は知らない。自らが力を暴走させ、異形の姿に変貌を遂げてしまった事を。

 バウンサー以外でその事実を知るのはアンヘルただ一人。それも直接ではなくまどろみの塔から情報を取得しただけの事だ。故に彼はまだ知らないのだ。自分が手に入れた力がどれだけの危険性を持つのか。“その時”が来たならば、その漆黒は彼の自意識など簡単に塗りつぶしてしまうのだという事も。


「……いえ、そうですね。マスターなら或いは……“あれ”を御するかもしれません。なぜならば貴方様は間違いなく、この世界が選んだ救世主なのですから」


 それに、だからこそ彼の傍に自分がいようと結論を出したのだ。もしもまたあの力が目覚め、矛先が彼の大切な者に向いた時、彼を止めるのが自分の役割だ。その為に存在を否定してまで己の力を解き放ったのだから……。


「レイジ、アンヘル……いるの?」


 物思いに耽りながら目を細めていたのは一瞬の事。その時、扉の向こうから小さな声が聞こえて来た。待ち構えていたレイジがぱあっと笑顔を浮かべて立ち上がると、アンヘルも意外そうに扉の向こうへ声をかけた。


「JJでございますか?」

「JJ! 来てくれるって信じてたよ!」


 嬉しそうに駆け寄るレイジ。しかし扉が開く気配はなかった。何かを察して足を止めるレイジ。その予想通り、JJの声色は暗かった。


「扉は……開けないでくれる? 最後に……ちゃんと話をしておこうと思って。お別れ……言いに来たの」

「お別れって……JJ……」

「ごめん……あんたの話、一日ちゃんと考えたんだけど……でも、やっぱり無理。私、自分の命を賭けてまでこんなゲーム続けられない。ううん、ゲームですらない。こんなのただの殺し合いじゃない。私は殺されるのなんか嫌だし、誰かを殺すのも真っ平御免よ」


 はっきりとした口調で告げられた否定の言葉にレイジはきっと落ち込んでいる……そうアンヘルは考えていた。しかしその背中はいつの間にかしゃんとしていて、少年は少し考えこんだ後、優しい声で頷いた。


「……そっか。そうだよな。うん……ありがとう、JJ。ちゃんと言いに来てくれて……嬉しかったよ。他の皆は来てもくれなかったんだよ、ひでーよな。現実に戻ったらメールがきてればいいんだけど……なんて」


 ティーカップを持ったまま目を真ん丸くするアンヘル。それからそっと彼の横に回りこんで顔を見てみたが、全く淀みのない、一切の迷いも見当たらない晴れやかな顔をしていたものだから更に驚いた。そして同時に心配にもなる。なぜこんな時に、こんな顔でいられるのかと。


「JJの言う通り、これからはただの殺し合いだ。自分が殺されるかもしれないし、誰かを殺すかもしれない……そんな事になったら、誰だって嫌になるよ。だからさ、JJは悪くない。俺が言うんだから間違いない。今日まで本当にありがとう! JJがいてくれなかったら俺、きっとここまでこられなかったと思う。なんだかんだでいつもJJに頼りっぱなしだった。年上なのに情けなくてごめん。他には、えっと……いや、なんか……ごめんとありがとうしか言う事が思いつかないな」

「レイジ……あんた……」

「本当に……本当に感謝してる。嘘じゃないよ。だから……ありがとう、JJ」


 深々と頭を下げたその仕草を扉越しのJJが知る事はなかった。それでもレイジの姿は暗闇の中に立つ少女の目にはっきりと見えるかのようだった。少年はきっと嘘なんか吐いていない。思えば彼はこれまでずっとそうだった。正直で、真っ直ぐで、愚かだけれど、それでも精一杯誰かの期待に答えようとしてきた。思い出してしまうとどんどん記憶が胸の中にあふれ出て、堪らなくなって少女は思わず扉に手をかけた。


「どうして……責めないの? あんた一人で……魔王に勝てるはずなんかないのに。私今……あんたやミユキ、オリヴィアやこの世界の人達に“死ね”って、そう言ったのよ……?」


 しかし扉は重く、どうしても少女の力では開く事が出来なかった。感情に流されて彼に手を貸したい気持ちはある。だが同時に自分を冷静に見つめるもう一人の自分がそれをさせまいと扉を押さえつけていた。


「俺は死なないよ。俺は勝つ。そして全部を取り戻したら、会いに行くよ」

「どうして……どうして、そんな前向きでいられるの?」

「前向きなんじゃないよ。自信だってない。やれるかどうかなんてわからない。だけどやれるからやるんじゃない。俺は勝ち目があるから戦うんじゃない。それがやらなきゃいけない事で、譲れない願いだから挑むんだ。それは誰のせいでもない。俺が決めた、俺自身の生き方だ」

「自分で決めた……生き方……。すごいね……レイジは。私なんかとは違う。危なっかしくて見ていられないけど……でも……誰よりもきれいで、強い気持ちを持ってる……」


 無言で眉を潜めるレイジ。それは扉の向こうで語る少女の声が震えていたからだ。きっと今目には見えないところで彼女はとても苦しんでいて、迷っていて、そんな姿を見せたくないからこの扉一枚を隔てているのだと、そう理解してしまったから。


「私はね……自分で何かを決めた事なんか一度もなかった。生まれた時からずっと誰かに何かを決められてきたわ。でもそれでしょうがないんだって諦めて、自分は特別なんだって……そうやって思い込まないと頭がどうにかなりそうだった。弱い自分を否定する為に他人を否定し続けてきたわ。どうやって誤魔化して取り繕って……必死で作ったのが今の私。こんな自分大嫌いで、どうなってもいい……死んだって構わない。そう思ってた。思ってたのに……っ」


 自分の命について考えた時、少女は初めて理解したのだ。自分を束縛するジョイスの家が、それでも自分に愛情を与えてくれていた事。両親は確かに変わり者だが、それでも何もかもがただ自分のためにあったのだと。誰かに愛を伝える事はこんなにも難しい。時にそれが歪んだ形で少女を縛り付けるだろう。それでもそれは、彼女を動かせない為にそこにあるのではなく。彼女を何かから守る為だけに、ただそこに存在していたのだ。


「死ぬかもしれないって考えたら……今までの事、色々思い出した。小さかった時の事とか、ママと一緒に水族館に行った事とか……。パパのピアノに憧れて自分からピアノ習いたいって言ったの、私。そしたらパパ凄く喜んでグランドピアノを買ってくれたわ。執事の連中も私の事腫れ物みたいに扱ってると思ってたけど、いつも私の我侭に付き合ってくれて、時には私の味方になってイタズラに付き合ってくれた。後でママにこっぴどく叱られても、私と一緒に笑ってくれた……っ」


 どうでもいいと思っていた事。そこにあって当たり前だと考えていた事。人や思い、それを失うかもしれないと考えて初めて気がついた。自分がどんなに小さな物の考え方で生き、小さな目線で世界を決め付けていたのか。


「大嫌いな学校の奴らもっ、家庭教師の先生も……っ! 嫌なことから逃げ出したくないよ! 私っ、まだ生きていたい……ここで死んだり出来ない! 今死んじゃったら、私を愛してくれた皆になんていえばいいのかわからないから……だから私……まだ……死にたくないよ……!」


 気付けば抑え切れない想いは涙となって溢れ出ていた。止め処なく零れ落ちる雫のすべてが暖かく、自分の身体の中を巡ってきた大勢の人の願いなのだと知った。こんなにも自分は誰かに愛されていて、必要とされていて、期待されている。それを自分の我侭で裏切る事は出来ない。こんな所で死ねば誰にもその死という事実すら伝わないかもしれない。誰にも何も伝わらない死は決して完結する事のない呪いだ。自分の失踪がジョイス一族に齎す破滅を思えば答えは一つしかない。それでもこんなに胸が張り裂けそうなほど苦しいのは、レイジやこの世界で出会った仲間達の事を、いつしかとても大切に感じていたから。

 孤独だった自分に暖かさをくれた。愚かな自分に沢山の気付きをくれた。決して一人では成す事の出来なかった沢山の成長に感謝してもしきれない。一人ではない事の強さと素晴らしさをこんなにも教えてくれた大切な人に、今はただ裏切りの結論しか弾き出すことが出来ない。そんな自分を殺したいほど憎み、呪い、それでも答えは決して変わる事はない。


「ごめん、レイジ……ごめんなさい! 私……あんたの事……見殺しにする! この世界の事全部……これまでの私全部……全部……見殺しにする……っ! だから……っ」


 目をきつく瞑って叫んだ瞬間、あっさりと扉は開かれた。涙でくしゃくしゃになった顔を上げると、そこにはあっけらかんとした様子のレイジの笑顔があった。


「……俺は死なないよ。俺は君を恨まない。見てみなよこの顔。扉なんた俺達の間に必要ないんだよ。これまで一緒に、死線を潜ってきた仲間じゃないか」


 ぽんと優しくJJの頭を撫でるレイジ。JJは俯き、肩を震わせながら首を横に振る。


「ごめんなさい……私……怖くて……」

「わかってるって」

「だって、私が指示を間違えたら……大切な……と……とっ、友達が……死んじゃうなんて」

「うん……そうだね」

「皆の命に、責任なんて持てない……私……そんなに強くなかったから……」

「ありがとう、JJ」


 その声がとても優しくて、頭を撫でる手が暖かくて、少女は堪えきれずに少年胸に飛びついた。少年はまるでそうなる事がわかっていたかのように落ち着き払った様子で少女を受け止める。


「ごめんなさい……ごめんなさい! レイジ……ごめん、ごめん……ごめんなさいぃい!」

「いいんだよ、JJ」

「初めて出来た友達なのに、私……皆の事、大好きなのに……どうしても……できない! できないんだよぉおおおおっ!」


 歳相応の少女のように泣きじゃくるJJの姿に僅かに目を伏せるアンヘル。その視線の先、レイジは優しく少女をあやすように言い聞かせていた。大丈夫だと、ありがとうと。結局一度足りも彼が少女を否定する事はなく、少年はただ少女に感謝の言葉を伝え続けた。

 JJがこの場から去っても、きっともう誰もここには訪れないだろう……アンヘルはそう確信していた。世界を救いたいと、誰もを救いたいと願った彼はきっと一人ぼっちになる。どうしようもなく孤独に落ちていく。それでも彼は誰も憎まず、誰も責めず、そこで一人で戦い続けるだろう。その身体が完全に闇に飲み込まれるその瞬間まで。


「それが世界を救う者のさだめ……なのですか? クロス……」


 その日、会議室を訪れたのはJJただ一人。

 ログアウトしたレイジの携帯電話にも、仲間からの連絡は一件もなかった――。

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