悪夢(1)
「こんにちは、勇者様。剣のお稽古ですか?」
その日、ダリア村の天気は快晴であった。
水車小屋から少し歩いた所にある川辺のスペースは俺にとって色々と都合のいい場所だった。初めてあの餅を出したのもここだったし、隠れて何かをやるには丁度いい。川に用のある村人がたまに近くを通るくらいで、基本的にここは静かで人気が無いのだ。
だからこうして彼女が声をかけてくる事は全く想定の外であった。剣を鞘に収め、何と無く気恥ずかしさから苦笑を浮かべてみる。
「ああ、うん。勇者って言っても、俺は戦闘に関しては素人だからね」
「そうなのですか? 私に剣術はよくわかりませんけど、十分様になっていましたよ!」
かなり年下とはいえ、やはり可愛い女の子にそう言われれば嬉しいものだ。まあ、実際の所彼女はよくわかっていないからこそなのだろうが。
「オリヴィア……だったけ? 君はお姫様なんだよね? それにしては……その」
そう、彼女の名前はオリヴィア。村の住人からは姫という呼び方で通っている。俺達もそれに倣って彼女を姫様と呼んでいるわけだが、彼女には幾つか不思議な点があった。
初め、俺は彼女の姿をあまり見かけないと思っていた。そりゃ屋敷に篭って村を出歩く事もないのだろうと、それで当然だろうと納得していたのだが、事実はそうではなかった。
彼女は別に屋敷に篭っていたわけではなかった。むしろ毎日のように村の中を歩き回っていたのだ。故に見かけないというのは間違いであり、正しくは見かけていたけれど、それが姫様だと認識できていなかった、という事である。
今俺の目の前には水をなみなみと汲んだ桶を傍らに置き、村娘と同じ格好をしている姫様が立っている。煌びやかなティアラの代わりに三角頭巾を頭に巻き、その佇まいはドレスを着用していた時よりずっとしゃんとして見えた。
「お姫様なのにドレスを着ないどころか……今何をしてたの?」
「はい。服飾店のネルさんが染物に使うお水を汲んできて欲しいというので、川まで汲みに来た所なんです。ここのお水はひょっとすると井戸のお水よりおいしいんですよ。勇者様、飲んでみましたか?」
「いや、生水はちょっと……っていうか君、服飾店の手伝いをしてるの? 姫なのに?」
「はい。私は姫ですけど、だからって別にどうという事ではなく、この村を……もっと言えば、この世界を構築している一つの要素に過ぎないわけですから」
思わず溜息混じりに感心してしまった。年の頃は十代前半くらいだろうに。姫と言えばわがまま放題で当然のような印象があったのだが、これは百八十度反対の種別だ。
「その剣、ズールおじいさんに作ってもらった物ですね?」
「えっ? ああ……あのおじいさんと知り合いなの?」
「この村は狭いですから、知らない人なんていませんよ。ズールおじさんは守備隊の剣や鎧を作る職人さんだったんです。私のお父様が若い頃からお世話になっていたんですよ」
笑顔で近づき、剣を持つ俺の手に触れる姫様。そうして鞘の先を指差す。
「おじいさんはここにいつも自分が作ったっていう印を入れるんです。だからわかる人が見ればすぐにわかるんですよ」
見れば確かにそこには花の模様の焼印がしてあった。この剣を受け取って三日ほど経つけれど、言われるまで全く気がつかなかった事だ。
「君のお父さんって、つまり王様? 今はどうしてるの?」
「はい。お父様は随分前に亡くなりました。魔物に襲われたんです」
「え……あ、ごめん……無神経な質問だったね」
「えっ? 無神経、ですか?」
何故か姫様は目を丸くしていた。それから本当に不思議そうに俺に問う。
「あの……不躾な質問ですが、勇者様は今無神経だったでしょうか? 私には全然普通にお話をしてくださっていたようにしか思えないのですが」
「あー、うん。君がそう言うのなら、そうなんだろうけど……わかった、気にしないで」
納得したわけではないのか、やはり不思議そうな顔をする姫。俺はこの話から遠ざかるように、あえて話題を変えていく。
「この国……で、いいのかな。この国では、姫や王様が村人と一緒に働くのは当たり前の事なの?」
「いえ、そういうわけではありませんよ。本来でしたら王には王の、姫には姫の、民には民の勤めるべき領分というものがあります。王は王として働くべきですし、姫も姫として働くべきでしょう。しかし今の私は、正しくは姫ではないものですから」
「それってどういう意味?」
「えーと……。この国は名をクィリアダリアといい、世界の南西部を領地とする一大国家でした。でしたというのは、今はそうではないという意味でもあります。それはさておき、クィリアダリアの姫はある一定の時期を迎えた際、正統な王位継承者であるという事を神にお認め頂く為に洗礼の儀というものを受ける慣わしがありました」
「つまり君はその洗礼の儀を行なっていないと?」
「ですです。クィリアダリアの王は領地と領民を統べる者である以前に神の子の一人に過ぎません。王という存在は神にその権威の一部を委託され、代行者として人々を導く者です。故に人々に王とその同胞と認められる為には、絶対に洗礼の儀が必要なのです」
なんだかややこしい話だが、つまり彼女はまだ正式な手続き上、姫ではないという事か。
「今はまだ姫ではないのですから、村のみなさんと立場は同じです。皆さんは私の事を姫様と呼んでくれますが、私には自分が姫であるという自覚は薄いんです」
「その、クィリアダリアが今は一大国家ではない……っていうのは、君がこの村にいる事、洗礼の儀を受けられなかった事と関係あるのかな?」
「はい。とはいえ、実は私も人から聞いただけなんです。さっきのもじいやの受け売りで……。ですから、私に自らやこの国の歴史を語る権利はないのかもしれません……」
風が吹き、姫の綺麗な金の髪がはらはらと揺れる。
まだあどけない少女だというのに、憂いを秘めた瞳はどこか大人びてさえ見えた。
「……って、も、申し訳ありません! 神の使いである勇者様に向かって、なんだかとっても偉そうな事を言ってしまったような気がします!」
「あ、ああ。それさ、みんな言うんだけど……別に俺、自分が勇者だからって偉いとか、そういう風には思ってないんだ。だから姫様も普通に接してくれるとありがたいかな」
「いえいえいえいえそんなまさか! 我々にとって神は絶対の存在……神があるからこそ世があり、世があるからこそ我らがあるのです!」
「だから神の使いに失礼はよくないって?」
頭を縦に振りまくる姫。俺は溜息を一つ、彼女の傍らにあった桶に手を伸ばした。
「手伝うよ。えーと、服飾店のネルさんに持っていくんだっけ?」
「えぇー!? いえ、そんな、めっそうもない!」
「急がないとネルさんが困ると思うよ? 俺はまだこの村を隅々まで把握してるわけじゃない。姫様が案内してくれないと、ネルさんに水が届けられない」
この時の姫の挙動不審っぷりときたら相当なもので、まさに筆舌に尽くしがたい。異国の舞にも見える奇妙な動きの後、観念したのか小さく頷いて見せた。
「あ、ありがとうございます……勇者様」
上目遣いにそんな事を言うものだから、俺はすっかりいい事をしたような気分になり、軽い足取りで彼女より先に村へ向かって歩き出していた。
「悪いねえ。まさか姫様が勇者様を捕まえてくるとは思ってもみなかったもんだから、なあんにもおもてなしできないんだけど……」
「いやいや。多分今後もお世話になると思いますので、これくらいの事は」
無事にネルさんという恰幅のいいおばさんに水を届けた後、俺は姫と一緒に大通りに向かっていた。ネルさんが今回の礼にと、ちょっとしたお駄賃をくれたのである。
「姫様もいつもありがとうねえ。これっぽっちしかないけど、たまには勇者様と一緒に何か食べておくれ」
全力でお駄賃を拒否る姫様だったが、おばさんはその小さな手を無理矢理開くと数枚の硬貨をそっと握らせた。姫は何度も何度も頭を下げ、最後には笑顔で手を振って見せた。
なんだかそうしたやりとりの一つ一つが、彼女……オリヴィアが姫ではなく、普通の少女なのだと物語っているかのようで……少しだけ奇妙な感じがした。
「市場で果物でも買いましょう! 勇者様はどんな果物が好きですか?」
「え……? 果物なら別にそのへんで採れるじゃないか」
「あっ、そうですね……勇者様はそうですよね。すみません、果物は森に行かないと採れないものですから……」
顔を赤くして俯く姫。気が利かなかったのはどうやらこちらの方だったらしい。
「誰でもシロウみたいな力があったら、そりゃ苦労しないよな……」
苦笑し、それから市場を物色する。果物を売っている露天に狙いを定め、姫の手を引いて歩き出した。
「俺はどの果物がうまいのかもわからないんだ。出来れば教えてくれると嬉しいな」
「あ……はい! じゃあ、私が一番好きな物をお試し下さい! きっと気に入ります!」
満面の笑顔で店のおばさんに駆け寄る姫。そうして背伸びして陳列棚の向こうにいるおばさんへと小銭を差し出した。
「おばさん、クナの実を二つください!」
「あら姫様。クナの実だね。せっかく買ってくれたんだ、おまけしようかねえ」
「おまけはいりません。私におまけをしてくれるより、他の誰かにしてあげてください」
そんな話をした後、姫は左右の手に青い果実を二つ持って戻って来た。
「お待たせしました! これはクナの実といって、とても背の高い木から採れる果実なんですよ。少しすっぱくて、柔らかくて甘いんです!」
果実を受け取りまじまじと観察する。色は真っ青。これだけ青いとちょっと不気味だ。手触りはつるつるとしているが実は柔らかく、強いて言うのなら洋梨のような感じだ。
姫はクナの実をエプロンでごしごしと擦り、両手で持つとそこへ思い切り齧りついた。皮の中は白っぽく、透明感のある実が詰まっている。俺も真似をして上着の裾で実を擦り、そこをそのまま齧ってみた。
「いかがですか?」
「うーん。すっぱい梨だ。水っぽいけど、爽やかな香りがする」
「火を通すとすごく甘くなるんですよ。パイにすると最高なんです!」
言われて見ると、初日の歓迎会でそのパイを見たような気もする。あれはハチミツをかけたんじゃないかってくらい甘かったっけ。
二人並んで果実をまるかじりにしていると、先ほどまでより時間の流れが穏やかになったような気がする。少ない人通りがそう錯覚させたのだろうか。
「うん、うまい。なんか疲れが取れそうな味がする。また食べたいな」
「気に入っていただけましたか。でも、また食べるのは難しいかもしれません。あまり在庫がないらしくて……今日は運がよかったです」
「え? ただの果物なのに? これ、そんなに貴重な物だったの?」
「今はどんな物も物価が上がっていますから。この村はまだいい方です。なんとか自分達の力だけで日々の糧を得てやっていけますから。でも酷い所になると、まともに食べていく事すら難しい場合もあるそうです」
食べかけの果実を見つめる。言われなければまさか、この果実の価値なんて考えもしなかっただろう。けれど姫の寂しげな言葉を聞いた今なら、それを思わずにはいられない。
「前から気になってたんだけどさ。この村って、もしかして……」
質問しようとしたまさにその時。村の入り口の方から人々がどよめく声が聞こえて来た。
「何だ?」
馬の嘶きと男の叫び声も聞こえる。村人は直ぐに集まり出し、小さな人だかりを作っていた。
「もしかして……アレス!?」
知らない名前を叫び、姫は突然走り出した。俺は残っていたクナの実を急いで食べてからその後を追った。
入り口前の人だかりを掻き分け進む姫。俺はその直ぐ後ろについていく。それを突き抜けると、目の前には倒れた馬、そしてその傍らに膝を着いた一人の男の姿があった。
「アレス!」
姫はすぐさま男に駆け寄る。そこでようやく気付いたのだが、この男は確か初日、姫を担いで屋敷に持って行った兵士の片割れだ。
「姫様、申し訳ございません……貴重な馬を……」
「……構いません。それよりアレス、ソドナ村の様子はどうだったのです?」
「は……。事前連絡の通り……一切相違は御座いません。奴です。“双頭竜”が現れました」
ざわめく村人。姫は目を細め、唇を噛み締めている。
「では、ソドナ村は……?」
「生き残りは僅か、、残りは全滅です……。私も村人の避難誘導を手伝いましたが、そのせいで魔物にやられ……申し訳御座いません」
「良いのです、許します! アレス……貴方は立派な事をしたのです。誰が貴方を責めようと、きっと神がその優しく勇敢な魂を称えてくれる事でしょう……!」
姫は男の頭を抱えるようにしてそう言った。俺はそこで気付いた。彼の足元に、赤い水溜りが広がりつつある事に。
「姫様、一刻も早く……避難を……。奴がここに来るまで……何日もかからないでしょう」
身体を離す姫。男は血に染まった手で姫の小さな手を握り締める。
「オリヴィア様……どうかご無事で……。貴方と共にこの辺境へ逃れてきた事を……悔しく思う事も、ありましたが……。今ではもっと……貴方のお傍で……貴方の笑顔と、成長を……お見守りしたかったと……そう、心より思っております……」
「アレス……だめっ! だめです、気を確かにっ!」
「オリヴィア様……どうか……健やかに……」
「――アレスッ!」
男の身体から力が抜ける瞬間が俺にもわかった。もたれかかる身体を受け止め、姫は目を閉じ歯を食いしばっていた。
「アレス……先に神の御許でお休みなさい……」
次の瞬間、驚くべき事が起きた。アレスと呼ばれた男の身体が白い光に包まれ、まるで塵のようになって散っていったのだ。その現象そのものもそうだが、何より驚いたのは消失の様子が魔物とあまりにも酷似していた事だ。
アレスは……死んだ。そして今はもう居ない。残されたのは彼が着用していた衣類と剣だけ。消失するのは中身だけで、装備類は残されるようだ。
彼がここにいたという痕跡は、その装備、そして地べたと姫の身体についた血の跡だけ。それもゆっくりと光に変わり始めている所を見ると、やがて完全に消えて失せるのだろう。
「姫様……何事ですか!?」
「じいや……」
人を掻き分け駆けつけた老人。彼は俺を見て一礼し、慌てて姫の身体に触れる。
「お怪我はありませんな? 一体何が……」
「アレスが……アレスが逝きました」
「なんと……」
正直俺はさっきから置いてけぼりを食らっているのだが、爺さんがやけに神妙な面持ちなのはわかる。姫は胸に手をやり一度深呼吸をし、それから村人達へと告げた。
「――皆さん、聞いてください。アレスが命懸けで持ち帰ってくれた情報です」
しんと静まり返る村人達。何と無く俺も雰囲気に呑まれ、ぴったりと口を閉じた。
「双頭竜が現れました。竜はこの村にも来ます。皆さん、急いで避難の準備を!」
先ほどまで黙り込んでいた村人達が、“双頭竜”という言葉を聞いて一気にどよめきはじめた。それが何を意味するのかはよくわからないが、少なくとも良くない物であるという事だけは確かだろう。
口々に不安を漏らす村人達。姫は彼らを眺め、大声で言った。
「大丈夫です! まだ竜が来るまで日があります! 避難は十分間に合います! それに、この村には彼らが……勇者様がいらっしゃいます!」
「はいっ?」
急に姫が俺を指差すものだから、思いがけず素っ頓狂な声が出てしまった。
「我らの事は、必ずや勇者様がお守りくださいます! 我らはただ心してその時を待ち、これまで通り神に祈りを捧げましょう! さすればきっと、神は我らをお救いになられる事でしょう!」
「ちょ、ちょっと……?」
何かこう、無責任な事を言っているような気がするのだが……どういう状況だ?
「勇者様、約束の時です。どうか我ら迷える子羊をお救い下さい……!」
姫が俺の前に跪くと、もう歯止めは効かなかった。集まった村人全員がその場で俺を拝みだし、手を合わせ、なにやらぶつぶつと祈りの言葉っぽい物を呟き始めたではないか。
「おいおいおい……?」
「神よ……どうか……どうか!」
「いやだから、俺は別に神とかではなくて……」
俺の無駄な抵抗は全員の視線により黙殺された。
そう。俺はこの瞬間まで何も理解していなかったのだ。
俺達が彼らにとってどのような存在で、この世界がどのような状況にあるのか。俺達が集められた意味と理由。それが今、試されようとしていた――。