ハウリング(1)
――子供の頃は自分が特別な人間で、ヒーローになれるだけの才能を秘めているんだって、そう本気で信じていた。
大人はみんな俺を褒めてくれた。絵が上手だね。足が速いね。歌が上手いね……。誰だって覚えがあるはずだ。大人はみんな、子供に嘘をつく。まるで何者にでも自由になれるのだといわんばかりに笑顔を振りまいて、子供は疑う事を知らない。だから思い込んでしまう。自分は特別な人間で、誰からも大切にされる……かけがえのない存在なんだ、って。
子供の頃は自分が特別な存在で、ヒーローになれるって信じてた。別にアニメやマンガに出てくるような、本当に特別な存在じゃなくてもよかった。幼い頃、俺は小さなサッカークラブに入っていた。そこでは俺はエースストライカーで、皆から頼りにされていた。
だけど直ぐに気付かされるんだ。自分が誇らしく思っていた居場所も、華々しい成績も、何もかも広い世界に出てみれば些細な事に過ぎなかったんだって。思い上がった夢をボロクソに叩きのめされて、また新しい夢を探して……何度も何度も立ち上がって。そうやって漸く気付くんだ。自分は全く特別な存在でもなんでもなくて、この世界に絶対に必要なモノではなくて、幾らでもどこかの誰かで代用が効いてしまう様な小さな塵に過ぎないんだって……。
この世界では毎日呆れるほどの人間が生まれて、笑えるくらいあっさり死んでいく。この星の上で繰り返される無限のサイクルは、背が伸びるにつれてどんどん近づいてきた。そうやって少しずつ大人になって行き、平凡な日常の中に自らを埋もれさせて行く。だって仕方ないんだ。他に生き方がない。特別になれないのなら、代用の効くたった一つになれないのなら、誰かと同じ様に生きて行くしかないのだから。
それは延々と続けられてきた人の歴史そのものだ。子供は夢を取り上げられて大人になる。だったらどうして夢なんか与えるのだろう。最初から何も与えられなければ、取り上げられる痛みだって感じずに済むのに。
少しずつ痛みを恐れるようになって。少しずつ傷付かないやり方を見つけて。やがて期待したり、夢を見る事を鼻で笑うようになり。それで安いプライドを慰めていた。
本当は嫌だったくせに。何者にもなれない自分が嫌で嫌で仕方がなかったくせに。まるで全部わかりましたって、もう最初っから夢なんて一度も見たことがありませんでしたって、そんな皮肉った顔をして歩いて行く。大勢の人の中に紛れて行く。痛さを感じないように。寂しさを感じないように……。
電車の吊革にぶら下がりながら、当たり前の日常を見つめていた。窓の向こうでは夕闇に沈んで行く街が見えた。大嫌いな田舎の町へ俺を乗せて運んで行くこの小さな箱の中、俺はどうしようもなく凡庸だった。
――あの戦いの後、気付けば俺は自室のベッドの上に転がっていた。俺は直ぐにマトイに連絡をつけようとしたけど、マトイはいつまでも電源が入っていないか、電波の届かない所にいて、何回も何十回も電話をかけたのに、結局一度も言葉を交わす事は出来なかった。
そこでやっと俺はもう彼女とは二度と会えないのだという事に思い至った。マトイは死んでしまった。殺されてしまった。もう戻らない。もう二度と会う事は出来ない。あの少し気恥ずかしそうな笑顔を見る事も、少し汗ばんだ手を握り締める事もない。
マトイは優しかった。本当に優しかったんだ。俺みたいなクズに、どうしようもないバカな俺に優しくしてくれたんだ。それなのに俺は彼女が死ぬその瞬間まですっかり彼女の事が頭の中から抜け落ちていた本当に死んだほうがいいようなクソ野郎だ。思い出すだけで身体の中を後悔が暴れ周り、叫びだしたくなり、飛び出したくなり、逃げ出したくなり……やっぱりどこにも行けないのだと思い直し、力なく倒れこんだ。
マトイの事を思い出し、皆の事を思い出しては泣いた。もうこの世界のどこにもいたくなかった。願わくば全ての記憶と共に自分の存在を消し去ってほしかった。だけど俺はまだ生きている。無様に生き続けている。死んでいない以上は生きていて、生きている以上は死ぬわけにはいかなかった。自ら命を絶とうという考えが脳裏を過ぎる度、自分の両親の顔、友達の顔が思い浮かんで何も出来そうになかった。
だから俺はもう、全部を無駄だった事にした。そうだ、最初から全部無駄だったんだ。大丈夫だ、別に何も問題はない。何も考えずに学校に行って、何も考えずに帰って寝る。その繰り返しをこれまでずうっとやりこなしてきたじゃないか。今更出来ない道理なんてない。元通りになっただけ。俺は何もかも元通りになっただけ。そう言い聞かせ、きつく目を瞑った。
俺の人生にはもうなんの価値もないと思った。結局俺はその程度の奴だったんだ。肝心な時に身動き一つとれず、大切な人を軽く見殺しにしてしまうクズ……。それを一度ならず二度もやらかした自分を、世界中の誰が信じられるっていうのだろう。俺だって信じらんねぇよ。俺が俺を信じらんねぇのに……誰が俺を必要としてくれるっていうんだ。
「おかえりなさい礼司。夕飯は? っていうかお昼ちゃんと食べてるの?」
家に帰り、リビングから顔を覗かせる母を無視して階段を上がる。部屋に着くと漸く人心地つくことが出来る。何処にいてもずっと誰かに見られているような気がして怖かった。俺は俺の事を誰よりも良く知っている。自分がゴミクズだって事を誰より知っている。だから気になって仕方がないんだ。何とか表面上は織原礼司って人間を演じてはいるけど、少し見つめられたら直ぐに見透かされそうで怖かった。お前は人でなしの……人殺しのゴミクズだって、誰かに言われるのが恐ろしくて堪らなかったんだ。
ベッドの上に倒れて、もうそのまま眠ってしまいたかった。あの戦いからどれくらい経っただろう? もう……暫くHMDさえつけていない。パソコンの電源すらつけていない。でもいいんだ、もう……今更戻った所で誰になんて謝罪すればいいんだ。
「どうして……俺だけ生きてるんだよ……」
マトイが死んでしまう。マトイが消えてしまう。その絶望と焦燥感だけが頭の中に残っていて、今もぐるぐるとリフレインを続けている。あの後何がどうなって生き残れたのか全く検討もつかないが、要するに俺は……マトイを残して一人で逃げ出したのだろう。それ以外にあの状況を切り抜けられる可能性はなかった。
「ごめんよ、マトイ……。俺なんかと関わったせいで……ごめん、ごめんなさい……」
普通の女の子だったんだ。
本当に普通の……ただの女の子だったんだ。
どうしてあんな無残な死に方をしなきゃならなかったんだ。
どうして俺は……あんな状態になるまでアホみたいに放心していたんだ。
考えても答えは出ないと知りながら、闇の中でその事だけを考え続けていた。この想いと痛みだけが彼女の存在を俺の中に残してくれる気がした。だから許される限りはずっと苦しみ続けて居たかった。そうする事以外、彼女を思い返すことさえも罪だと思えたから……。
「……礼司、礼司! あんたにお客さんよ!」
いつの間にか泣き疲れて眠っていたらしい。母親の慌てた声とノックの音に身体を起こすと重い身体を引き摺って扉を開く。そこにはいかにも血相抱えたと言う様子の母の姿があった。
「なんか物凄い人が来てるんだけど……あんた、どうやってあんな美人捕まえたの?」
「物凄い……美人……?」
ゆっくりと階段を下りて行くと、その途中でもう彼女の姿が目に入った。見間違える筈はない。もうこの半年見続けてきた馴染みの顔だ。しかし何故、どうして彼女が……そんな疑問が頭の中で犇いていた。彼女は俺の姿を見つけると丁寧に一礼し、それから真っ直ぐに俺の目を見て口を開いた。
「お久しぶりでございますね。レイジさん」
「アン……ヘル? どう……して……?」
そう、そこに居たのはアンヘルであった。一瞬マトイやミサキが何かの奇跡で俺の所に来てくれたのではないかと期待したが、これはある意味において同等の奇跡であった。混乱する俺の所にずかずかと歩いてきたアンヘルに、俺は絞り出すように告げる。
「とりあえず靴……脱いでくれる……?」
きょとんとしているアンヘルにここでは靴を脱がないと家に上がれないのだという話をすると、彼女は大人しくヒールの高いブーツを脱いで上がってくれた。母は慌ててリビングに引っ込んで行き、俺はアンヘルを連れて自室に戻った。アンヘルは俺の部屋の中をぐるりと見渡すと、特に何を言うでもなく中央にあるテーブルの傍に腰を下ろした。
「それで……アンヘル、なんだよな? 本物の……」
「はい。わたくしはアンヘルでございます」
「だけど……アンヘルは、NPCだったんだよな? だったらこっちの世界に……現実に肉体は存在していないはずだ。一体どうしてここに……」
「レイジさんは既にご存知の筈です。バウンサーと化したハイネから聞き及んでいるのでしょう? あの世界……ザナドゥが、“異世界”であると」
異世界……またその言葉だ。もう俺の思考はとっくにパンクしそうになっているのに、また突然アンヘルが現れてわけのわからない事をいう。もう気がどうにかしてしまいそうだった。
「わたくしは確かに、皆さんが言うところのNPCです。故にこの世界……“上位世界”に肉体は存在しません。故に私はロギアの権限を使い、こちらの世界に“逆召喚”を行っています」
「……ごめん……全然……一つも理解出来ない……」
「順を追って説明しましょう。レイジさん、貴方様は異世界についてどの程度の知識をお持ちでしょうか?」
「ちょっと待ってよ、勝手に説明をはじめないでくれる? 俺はもう、ザナドゥには関わらないって決めたんだ。今更何を言われたって関係ないんだから……」
「それは、世界の真実に触れ……絶望したからでございますか?」
真正面からの揺ぎ無い一言に言葉が詰まった。一緒に胸も詰まって泣き出したくなるけど、涙は何とか堪える事が出来た。彼女は俺の返答を待っているのか沈黙を保っている。重苦しい空白……それを引き裂いたのはノックの音だった。
「失礼しまーす……。これ、よろしかったらどうぞ。お口に合うかわかりませんけど……」
「おかまいなく」
トレイの上にケーキとティーカップが乗っていた。それを持って来た母はアンヘルをじっと見つめた後、そそくさと撤退していった。おかまいなくというが、アンヘルのような超絶美人が……それも超外国人……っていうかもう異世界人なんだけど……が、こんな一般家庭を唐突に訪ねて来れば、お構わないわけにはいかないだろう。
「彼女がレイジさんの母親ですか?」
「うん……見ての通り普通の人だよ」
「家族……というものを、わたくしは知識としてしか理解していません。ですが……失いたくないものなのでしょう? 貴方様にとっても……」
無言で俯いた。今……深雪は……美咲はどうなっているのだろう? 考え出すと不安で仕方がなかった。その苦しみから逃れるように唇を噛み締め、紅茶に手を伸ばす。
「異世界について……だったよな」
一番きつい話題を避ける為ならそんな世迷言にも付き合う自分の狡さに心底呆れつつカップを傾ける。正直味なんかわかりゃしなかったが、少なくともカラカラに乾いていた唇を潤すには十分だった。
「異世界……言葉通りの意味だろ? ここ……俺達のいる世界とは異なる世界……」
「その通りです。我々ザナドゥの民は、皆さんが暮らすこの世界を“上位世界”と呼んでいます。そして同時に我々が暮らすザナドゥの大地を、“下位世界”と呼称します」
「どういう意味……?」
「これも言葉の通りです。上位世界は下位世界の上位に存在する世界です。この仕組みをレイジさんに理解してもらうのは難しいでしょうし今は時間がありませんので割愛しますが……世界には優劣がある。その事だけ今は記憶しておいてください」
上位世界と下位世界は、基本的に縦に連なる構造をしている。
世界の“流れ”は上位世界から下位世界へ向かって零れ落ちるように、常に一方通行で流動する。下位世界は常に上位世界の残滓による影響を受け続ける為、その力関係は基本的に不動でありのだという。
「……っていわれても全然訳がわからないんだけど……」
「今はそれで構いません。肝心なのは、私は別の世界の人間であり、別の世界で人間であるからこそ、こうして肉体を伴ってこの世界への移動を果たす事が出来たという事です」
「それって……アンヘルは……その、生きている命だって……そういう事?」
ゆっくりと頷き、彼女は俺に手を伸ばした。握手を求めるようなその仕草におずおずと手を伸ばすと、アンヘルは俺の手を取って強く握り締めた。その掌からは確かに温もりを……鼓動を感じられる。これは紛れもなく、俺達と同じ人間の手だった。
「わたくしは生きています。わたくしだけではありません。あの世界に生きる全ての命が、紛れも無く本物なのでございます。尤も、この身体は仮初の物……。“逆召喚”は神の力を使ったとしても一時的に過ぎません。もう数十分もすればこの肉体はザナドゥへ引き戻されるでしょう」
「逆召喚って……?」
「その前にまずは召喚についてご説明申し上げる必要があります」
――“召喚”。それは文字通り、異世界から自らの世界に存在しない何らかの理を召喚する事である。この召喚は基本的に一時的な物であり、“世界の流れ”に逆らう事は出来ない。即ち、上位世界から下位世界へと向かい続ける世界の流れに従い、下位世界の何者かが上位世界から何者かを呼び出すのが一般的なのだという。アンヘルの逆召喚というのは、この世界の流れという一つの理を無視し、強引に下位世界から上位世界へ存在を送り届ける事を言うらしい。その実現には下位世界“そのもの”の力と、それを操る神の権能が必要不可欠……なのだとか。
「わたくしはこの逆召喚の為に“ザナドゥ”そのものを騙しています。ザナドゥに神の権能を誤認させる事により、一時的な逆召喚を実現しているのです。但しこれはそう何度も出来る事ではなく、長時間は持ちません。故に今、わたくしは単刀直入にレイジさんにお話を伝える必要があるのです」
「……アンヘルがここにいられるのは少しの間だけで、同じ事をもう一度するのは難しいって事はわかったよ。それ以外わからないけど……」
「十分でございます。レイジさん、貴方様がご不在のザナドゥは今、完全な劣勢を強いられています。魔物の軍勢は西大陸から一気に攻勢を強め、カルラ要塞が突破されるのは時間の問題です。レイジさんが制圧しきれなかった南大陸も、既に魔物に奪い返される寸前でございます。どうか一刻も早くザナドゥへお戻り下さい」
「どうしてそんな事を……? アンヘルは……GM側の人間だろ……?」
「GM側の人間……でした。今はもう、わたくしは何者にも囚われてはおりません。わたくしは既に天使としての任を解かれ、廃棄処分されました。故に既にわたくしはわたくしでしかなく、わたくしの意志に則り行動する事が出来るのです。その上でレイジさん、貴方様があの世界には必要だと、そう判断しお迎えに上がったので御座います」
「ちょっと……ちょっと待ってよ! 全然わけわかんないって……! なんなんだよ、今更出てきて……悪いけどさ、俺に何か期待しても無駄だから。それは俺が誰より一番良くわかってんだよ。無駄なんだよ……俺には何も出来ない。何も……出来なかったんだ」
俯きながら目を瞑る。そうだ、俺は何も出来なかった。一体何を思い上がっていたのか、愚かな自分に言ってやりたい。お前には無理だった。お前では無駄だったのだと。やっとそうやって諦めようって時に、どうして今更やってきて気持ちを揺さぶるような事を言うんだ。そんな事誰も頼んじゃいない。俺が行った所でなにが出来る? ハイネにすら勝てないのに、何が魔王だって倒せるだ。バッカじゃねえの。
「……レイジさん。レイジさんは、“精霊”の本当の名前をご存知ですか?」
「精霊の……名前? なんだよ、藪から棒に……」
「皆さんが精霊と呼ぶ物は、正確には精霊という類の存在ではありません。あれは本来世界の神が持つ“権能”の一部……即ち世界へアクセスする端末そのものなのです。皆さんはあの異世界においても尋常の人間に過ぎません。それが精霊を通じ、世界にアクセスする事で、神の権能を操り人間離れした戦いを可能としてきたのです。その中でも特に優秀な権能を持つ勇者を、我々は“カテゴリーS”と呼称していました。レイジさんはそのカテゴリーSの、現存する最後の一人なのです」
元々あの世界の勇者には、三人のカテゴリーSが存在していた。
一人は美咲。もう一人が俺。そしてもう一人は……セカンドテスターの中に居たらしいが、既にテストの最中に死んでいるらしい。俺は元々はカテゴリーSではなかったが、美咲の能力を奪った事で精霊の能力をカテゴリーSにまで進化させた後天性のSランクらしい。
「レイジさんは元々は特に重視されない、多くの勇者の一人に過ぎないとされていました。しかしレイジさんは明らかにカテゴリーSという言葉を超越した力の使い手になりつつあるのです。クロスは言っていました。貴方様の力は、ロギアの“全能”の劣化版であると」
「それ……褒めてるの? けなしてるの?」
「“全能”とは、世界から力を汲み上げ、天地を創造しあらゆる生命を育み世界を終らせる能力です。一つの物語の始まりからピリオドを打つその瞬間まで、たった一人の人間だけで完結させる能力……それが全能。劣化版とは言え、貴方様にはそれと同等のスペックがあるのです。これ以上の褒め言葉が存在するでしょうか?」
「ちょっとまってよ……全然意味わかんないんだって。さっきからアンヘルが何を言ってるのか、俺には一つも理解出来ないんだって。そんな事言ったってもう何も取り返しはつかないんだって……! 今更そんな事言われても、困るんだって!」
「それは……ミサキさんが、もう戻ってこないから……ですか?」
思わずカチンと来てアンヘルに跳びかかってしまった。胸倉を掴み上げると顔を近づけその透き通った瞳を睨み付ける。
「お前は最初からそう知っていて……美咲を見殺しにしたのか……?」
「……はい。わたくしはそう知っていて……彼女を……見殺しにしました」
ぐっと拳に力を込め、それでもアンヘルを殴る気にはならなかった。ただやりきれない気持ちは行き場を失って身体中で暴れまわる。
「美咲は……死んだの?」
「……はい」
「それは……異世界……だから?」
「……はい。あれは世界は異なれど、現実で起きた出来事です。故に……笹坂美咲は既に亡く、その魂も肉体も……とうに消滅しています」
「なんだよ……それ。なんなんだよ……なんっなんっだよっ!」
何が異世界だ。バカじゃねえの。頭おかしいんじゃねえの。
じゃあなんだ? これまで俺達がVRMMOだと思ってたこれは、本当は異世界ファンタジーでしたって事か? そんなのありかよ。ふざけてんじゃねえよ。
誰がどう考えたってそんなの納得出来るわけないのに、じゃあどうして俺はすんなりそれをどっかで受け入れて、死ぬ程悲しくなったりしてるんだ? 俺はどうしたいんだよ。認めたいのか……認めたくないのか。もう自分でも何もかもわからなかった。
「帰ってくれよ、もう。俺は……もう、関わらないって決めたんだ」
そっと手を放し、床の上に仰向けに倒れこむ。もう何も考えたくなかった。美咲が死んだのなら。とっくに死んでいたのなら。もう何一つ、希望も救いもないじゃないか。
「確かに笹坂美咲の肉体は消滅しました。しかしまだそれで全てが終ったとは限らないのです」
俺はもう話を聞く気なんかゼロなのに、それでもアンヘルは言葉を続けている。
「貴方様もご覧になった筈です。笹坂美咲に酷似した、あの魔王の姿を。あれはただ外見を似せただけのものではありません。必ず意味があるはずです。なぜならば、そう。笹坂美咲の持つ“権能”は間違いなくカテゴリーS。彼女の肉体は即ち、世界から莫大なエネルギーを引き出す為の鍵だったのですから」
「どういう事……?」
「つまり……あの肉体は、元々は笹坂美咲の肉体であった可能性が高いという事です」
ゆっくりと瞼を開いた。仮に……あれが美咲の肉体であったとして。じゃあ、その中に存在しているはずの美咲はどこにいっちまったんだ? あれはどう見てもどう考えても美咲とは全くの別人だったぞ。
「笹坂美咲の自我は、恐らく双頭の竜との戦いの際に消失しています。そもそも勇者召喚システムとは、“そういう構造”なのです」
そこからアンヘルはまた何かクドクドいい始めたが、俺はそれを聞き流しながらも頭の中で纏めて行く。何故だろう。何故そんな事をしているのかわからないが、そうしていたのだ。
――異世界召喚システム。それはロギアが世界の力を使って行う、“神召喚”の“エミュレートシステム”である。俺にはその意味は良くわからないが、そうらしい。
世界の流れは上から下に向かっている。故に上位世界の存在を下位世界に一時的に召喚する事はさほど難しくはないらしい。だがいちいち肉体と精神を両方召喚していてはコストも手間もかかりすぎる上に、異世界で肉体が損傷した場合、その傷をそのまま持ち帰る事になってしまう。そこでクロスが考案したのが、“精神だけを異世界に召喚する”という、異質なエミュレートシステムであった。
つまり、俺達は肉体を上位世界……現実に残したまま、精神だけを下位世界……即ちザナドゥに召喚されていた。そこで俺達の精神は魔力で作られた肉体に宿る。これは精霊や精霊器を魔力で実体化するのと全く同じ理屈らしい。俺達は自分がそこに存在すると精神が誤認すると同時に無意識に肉体を作り上げ、そこに精神を定着させていたのだとか……。
「つまり、美咲はあの竜に仮初の身体と本物の精神を殺されてしまったのです。残されたのはカラッポになった美咲の肉体……これをロギアは回収し、魔王のヨリシロとして流用したのでしょう。美咲は際限なく世界から力を引き出すある特殊な能力を持っていました。それを上手に使いこなせば、魔王はこれまでの魔王よりも何倍も強化される事になります」
「じゃあ、あれは本物の美咲の肉体だとして……美咲の肉体を取り戻しても精神が死んでるんじゃ、ただの植物人間……人形にすぎねぇじゃねえか」
「確かに美咲の精神は消滅しました。ただし、完全に消えてなくなったわけではありません。彼女の精神の構造と世界へ繋がる権能の全てが、ある場所に補完されているではありませんか」
「ある場所って……?」
「精霊ミミスケの内部――でございます」
その一言で一気に何かが爆ぜ、俺は飛び起きた。そのままテーブル越しにお行儀良く腰掛けていたアンヘルに詰め寄り、生唾を飲み込んだ。
「それって……まさか……そんな事って……!?」
「――はい。可能性は限りなく低いですが……肉体さえ取り戻せば……」
「美咲を……蘇生させる事が可能かもしれない……って事か……!?」
ゆっくりと頷くアンヘル。俺はケーキもカップもふっとばし、アンヘルの肩を思い切り掴んだ、そのまま押し倒すようにして顔を近づけて行く。
「出来るのか……? 本当にそんな事出来るのか!? 嘘じゃないよな? 嘘じゃないんだよな!?」
「はい。しかし現状では可能性はほぼゼロです。よほどの奇跡が連続しない限りは不可能でしょう」
「だったらどうすればいい!? 俺に何が出来る!?」
「まずはレイジ様、貴方様は自らが持つ権能の本質を理解しなければなりません。そこまでして漸く可能性はゼロではなくなる程度です。命や精神を操るという事は本当に容易な事ではないのですから」
「だったら……何をすればいいんだ! 何が足りてないんだ! 教えてくれ! 俺はどうすればいい!? アンヘルッ!!」
「――神になってください」
あっさりと告げられた言葉に俺は自分の胸の内が熱くなって行くのを感じた。
「神を倒し、貴方様が世界の神に成り代わるのです。そして全能を完全に制御出来るようになれば……ロギアが肉体を再構成したように、魂と肉体を操り……本来の美咲様を再現する事が可能になるかもしれません。あくまで可能性の話でございますが……」
「マトイは……? マトイだけじゃない、ギドやクラガノ……これまでミミスケが食ってきた連中は全部あいつの中に保存されてるのか!?」
「完全な状態ではありませんが……恐らく」
「は……はは。なんだよそれ……。なんなんだよ……」
思わず笑いが込み上げてきた。同時に涙も込み上げてくる。アンヘルの胸の上で俺はきつく目を瞑り、何度も何度も心の中で絶望と希望を噛み締めた。
「終わってなかった……。まだ……終わってなかったんだ……。ありがとう、アンヘル……本当にありがとう……」
「どうして……礼を?」
「だって……アンヘルが来てくれなかったら……アンヘルがそれを教えてくれなかったら、俺……もう、本当に今回ばかりはダメだった。もう俺、本当に……何もかも嫌になってたんだ。だけど……可能性が、ゼロじゃなくて……1%でもいい。俺の中にその可能性があるのなら……それだけで……それだけで、いいんだ……」
いいのかな? 本当に俺みたいな奴が……まだ、希望を持っていても、いいのかな?
信じてもいいのかな。誰かの為に……この命を投げ打って戦えるのだと。
戦ってもいいのだと……そう、理想を描いても……いいのだろうか?
アンヘルはゆっくりと身体を起こすと、細くしなやかな指で俺の涙を拭った。なぜかその表情はどこか悲しげで、しかしいつもと変わらぬ穏やかさで微笑んでいる。
「わたくしは……見ているだけでした。誰かの命令に、従っているだけでした。わたくしは生きながらに死んでいたのです。そんなわたくしにも……この空虚な胸の内に、確かに感じるものがあります。この後悔を取り払う為ならば……大切な仲間と共にある為ならば、わたくしは己の存在意義すら否定できる。愚かしく無様なこの身に許しは請いません。どうか……どうか、お傍に置いてくれないでしょうか。わたくしも……大切なあの笑顔を、もう一度見たいのです。そしてあの笑顔がこの胸の内にどのような温かさを広げてくれるのか……それをもう一度、少しだけ深くなったこの空虚さの中で味わいたいのです」
知っていた。マトイの言う通りだった。アンヘルは悪意があってあんな事をしたんじゃない。確かに彼女は俺達の仲間で、そうありたいと願ってくれていたのに。俺はやり場のない感情をぶつける為だけに彼女を悪に仕立て上げてしまった。それがどんなに無意味な事か、自分でも分かっていたはずなのに……。
「……疑ったりしてごめん。俺がバカだった。最初からマトイの言う通り素直になってりゃよかったのに……。一緒に戦おう、アンヘル。ここからもう一度やり直そう。俺と君とで始めるんだ。失った物を取り戻す為の戦いを」
改めて手を差し伸べると、アンヘルはその手で両手で包み込むようにして受け入れてくれた。そうして彼女は穏やかに笑みを作り――真っ直ぐに言い放った。
「……はい。宜しくお願い致します、マスター」
「マス……はい?」
「貴方様が新たな神になるというのであれば、わたくしは貴方様に尽くすまでの事です。それよりもマスター、今の話はすべて希望的観測に過ぎません。何より、勇者達は殆どが“異世界”についての情報を知らないのです。それを知った時、どのような事が起こるか……」
「パニックに……なるだろうね。そして多分、殆どのプレイヤーがもう二度とログインしようとは思わないだろう」
ゲームだと思っていたことがゲームではなかったのだとしたら、それはもう何もかも根本的に話が違う。FPSで銃撃戦をするゲームで遊んでいる人間だって、実際に数秒で頭を撃ち抜かれる危険性に満ち満ちている戦場に放り投げだされたいかと言えば話は別だろう。同じ事だ。あの世界に命を賭けるだけの価値があるか……それは人それぞれなのだから。
「孤独な戦いになるでしょう。それでもやるのですね?」
「当たり前だよ。だって……俺にしか出来ない事、なんだろ?」
別に、特別な人間じゃなくてもよかった。今でも昔憧れたヒーローになれるだなんて思っていない。自分は凡庸な人間で、結局は代わりの効く量産品に過ぎないけれど。
「それでも必要だと言ってくれるなら……」
握り締めた拳を見つめ、俺はマトイの事を思い出していた。
“自分の人生を、人任せにしないで”――。彼女が残してくれた言葉が、今すぐにでも崩れてしまいそうな背中を、そっと……力強く押してくれた気がした――。




