開戦(3)
「ログアウト不能状態か……ううむ、これは厄介な状況だね……」
翌日、遅れてログアウトし状況をJJから聞かされた遠藤は腕を組みながら渋い表情を浮かべた。そして彼の懸念の通り、この世界の状況は決して良くない方向に向かいつつあった。
オルヴェンブルムは勇者達の活動拠点として使われる事になった。事実上、ここが人類最後の砦である。しかしその砦の中に閉じこもったまま、まだ勇者達は戦いについての相談をするに至っていなかった。
「ミユキがログアウトできなくなった事……それからギドの残したセカンドテストの情報。それを連盟のプレイヤーに公開しないわけにもいかないから、ありのまま伝えたんだけど……。お陰でこのゲームはやはり危険な物だったのではという話になったみたいでね。まあ予想通りというか、これから何をどうするべきなのかもめてるみたいよ」
勇者連盟はフェーズ3の戦いを超えた今でも三十名以上の勇者からなる大所帯だ。その中には革命軍に仲間を殺された者もおり、そもそも今の革命軍と協力する事に反対している者も少なくない。更に言えばこのゲームにはGM側が隠している何らかの意図があり、その毒牙に掛かればミユキのような状況に陥る可能性もあるという事。結局ゲームとしてこのザナドゥに滞在している以上、彼らは決して一枚岩では在り得ない。カイゼルを初めとしたマスター格は連盟の意見を纏める事にかかりきりで、暫くはまともに行動できそうにもなかった。
「こればかりは仕方ないだろうねぇ。みんな失う物が何もないからこそゲームとして没頭する事が出来たんだ。それが自分の身に危害が加わるかもしれない可能性を見せられてしまったら、誰でも保身に躍起になるだろうさ。むしろ君たちが落ち着いているのが僕には意外だな」
「正直現実味もないしね。ミユキの場合はセカンドテスター用の装置を使ってしまったのが原因で、ログアウトの方法も一応判明しているわけだし……。今の所私達サードテスターにとってはあまり関係の無い事だと言える。だからといって同じ事が私達の身に降りかからないかどうかなんて誰にも分からないんだけどね」
「そうだね……。それで、ミユキ君とアンヘルはどうしたんだい?」
「ミユキは色々あって自室に閉じこもり中。閉じ込められてるとも言えるけど……。アンヘルは……昨日から姿を見かけなくなったわ。私達と一緒に居る必要性はないと感じたのか、GMに引き返すように言われたのか……ともあれ、もう会う事はないかもね」
疲れた様子で呟くJJ。遠藤は今聞いた話を自分の中で整理した。セカンドテストの事件とアンヘルの存在、そしてバウンサーとGMの隠している世界の真実……。クロスという男との接触に同席出来なかったのは惜しかったが、大まかに彼が次に取るべき行動は定まったと言えた。
「ところで……JJ以外のメンバーはどうしたんだい? マトイ君とかシロウ君とか……」
「ああ……あのバカ連中ね。厄介な事に、連盟の会議が終るまで待てないって言い出して、カルラ要塞っていう……フェーズ3で見たでしょ? カルラ大橋。あそこの手前に作られた要塞を奪還しに行ったわ。私の制止も聞かずにね」
「それはまた随分と無茶をするね? シロウ君の発案かい?」
「だったらまだよかったんだけどね……。今回の暴走者は、シロウじゃなくてレイジなのよ」
それがJJを悩ませている原因であった。ミユキを救う為にはゲームをクリアするしかない……その為にレイジはとにかく展開を急いでいるようだった。まずはこの中央大陸に進攻して来ている魔物の軍勢を打破し、拠点を奪還しなければならない。それにしたって相手の戦力は不明で、バウンサーという強敵が加わっているのだから、出来る限り準備を整えリスクを抑えてから勝負に挑むべきなのだ。だがレイジは連盟の長話が終るのを待っていられないと言い、一人で要塞を奪還すると飛び出してしまった。そんなレイジを心配してシロウとマトイが追いかけたというのが今の状況の真相である。
「ミユキも手を貸すって言ったんだけどね。今ミユキがこのゲーム中に死んだら何がどうなるのかわからないって言ってレイジが止めたの。ミユキとしては、ゲームにログインするなというレイジの忠告を破ってこんな状態になってしまった手前、制止を無視してついていくのは憚られたんでしょうね。結局あいつら三人だけで拠点に突撃ってわけ」
「ある意味レイジ君らしいのかもしれないね。彼はきっとミサキ君の事も、ミユキ君の事も自分の責任だと感じているのだろう」
「別にあいつ一人の所為じゃないっていうのに……あのバカ……!」
苦笑を浮かべる遠藤。彼にしてみれば責任を感じているのはレイジだけではない。JJとて同じ事のように思えた。結局レイジを制止できなかった事も、こんな時だというのに一緒についていって彼らを助けるだけの戦闘力がない事も、JJの気分を落ち込ませている原因なのだ。
「仕方ない。がむしゃらに走るのは若者に任せるとして、僕はもう少しリアルのほうから事に当たってみようかと思う。ミユキ君は部屋にいるんだったね? 案内してもらってもいいかな?」
「……言っておくけど、弱ってるミユキに変な事したらマジで警察に通報するわよ」
「しないよぉ……本当に信用ないなぁ。なんなら君も同席すればいいじゃないか」
苦笑を浮かべる遠藤をジト目で睨み、無言でJJは案内を開始する。遠藤はその後に続きながら、一度だけ仲間達が戦っているであろう西の要塞へと想いを馳せた。
「これがカルラ要塞か。フェーズ3の時はこんな邪魔なもんなかったんだがな」
「西大陸からの魔物の進攻を防ぐ為に作ったんだろう。お陰で防壁は“こちら側”を向いていない……これなら駐留している魔物を殲滅するだけで直ぐに奪還可能だ」
急制動をかけて要塞を裏側から眺めるシロウとレイジ。そこにやや遅れてマトイが駆けつけるが、二人とは異なり汗だくで肩を上下させていた。単純な体力値ではマトイは三人の中で随分と遅れてしまっている。というよりシロウについていけるレイジが異常なのだが。
「二人とも、すごい足の速さ……! レイジ君、フェーズ3と4の間に何があったの? なんだか急にその、精霊の力が増しているような気がするんだけど……」
「え……? 言われて見ると確かにそうかも……。全然疲れなくなったし、戦おうと思えば思う程力がわいてくるんだ。まあでも、なんだっていいよ。戦えないよりはずっとましだ」
ミミスケの中からワタヌキに作ってもらった肉まんを取り出し二人に投げ渡すレイジ。そうして自らも肉まんを食べ、パナケアに持ち替えると全員の身体に刃を突き立てる。二重のブースト効果を得た三人の力は飛躍的に上昇している。長くはもたないが、それでも使わないのとは雲泥の差だろう。
「す、すごい……パナケアの効果もなんかパワーアップしてる……!?」
「カルラ要塞は元々橋を封鎖する為に作られたものだから、中央大陸側の守りは皆無だ! 速攻で乗り込んで魔物を片っ端から倒してしまえばそれで済む! 二人とも、やれるな!?」
「おう、いつでもいけるぜ!」
「う、うん……! 足を引っ張らないように頑張るから……!」
二人に交互に視線を向け、太刀を手に前を向く。一呼吸置き、レイジは一気に要塞へと駆け出した。
「……行くぞ!」
要塞に接近する三人に怪鳥型の魔物が気付き奇声を上げると内部から次々に魔物が出現してくる。黒騎士と呼ばれるタイプを簡略化したような、人型の魔物だ。人型の魔物が矢を構築している間に先んじて足の速い獣型の魔物が無数に飛び出してくるが、レイジは走る足を全く緩めず、跳びかかってくる獣を剣の一振りで両断する。
「なんだ雑魚ばっかりじゃねえか! こんなんじゃ足止めにもならねぇぞ!」
炎を纏った左右の拳を次々に叩き込み獣を粉砕するシロウ。最早弱点だろうがなんだろうが、どこかに拳が炸裂すれば木っ端微塵に吹き飛ぶ威力である。あっという間にシロウが獣を全滅させるとそこへ高所から矢が飛んでくるが、マントを脱いだマトイはそれを片手で振るう様にして形状を変化。影のように蠢くマントは巨大化し、三人の前に障壁となって立ち塞がる。
矢は壁に命中すると同時にくるくると回転し、そのまま影を帯びて主の元へ飛んで行く。反射された矢の速度は元々の速度の三倍。弓手は一瞬で全員が射抜かれ、次々に霧へと還る。シロウとマトイが戦っている間に要塞へ接近していたレイジは階段を駆け上がりながら次々に雑兵を切り払い、上空から襲いかかってくる怪鳥を蹴り飛ばし、雷撃を飛ばして障壁を吹き飛ばし、要塞内への侵入に成功した。
カルラ要塞はレイジの説明通り、西大陸からの進攻を防ぐ為に作られた要塞だ。その構造の要は三つ存在する橋の出口を塞いだ門にある。基地としての機能は門の上、高所に全てが集約されており、門を下ろして高所から一方的に魔物を遠距離武器で攻撃する事で守備を固める手筈になっている。城壁に設置された対魔物用の大型弩弓も西大陸側を向いている為今回は考慮する必要もない。要塞内に留まっている魔物を全て殲滅し、開かれている城門を閉じさえすればこの要塞を奪還したと言っても過言ではないだろう。
「移動に大分時間をとられてログアウトまであんまり余裕がないんでね……モタモタしている暇はないんだ。全員ぶっ潰してやるから、纏めてかかってこいよ――!」
要塞内へ侵入したレイジへ一斉に襲い掛かる魔物達。しかしレイジは刀を本へと持ち替えると大量の蔓を放ち魔物達を捕らえた。荊の触手は魔物に巻きつき、その肉体を次々に粉砕していく。更に強力そうな大型の黒騎士を荊で操作すると、魔物同士を争わせその頭数を減らして行く。騒乱を乗り越えてレイジに迫る敵も居たが、壁をぶち破り飛び込んで来たシロウが拳で粉砕してしまう。
「ギドの荊か……なんかそれすげぇ便利そうだな?」
「対集団戦闘では便利だね。これなら一人でも要塞の一つくらいはやれるかもしれない」
目を細め、手を動かして束ねた蔓を操る。光を帯び、巨大化した棘は剣のように鋭利に魔物を引き裂いて行く。無数の蔦が要塞内を乱舞すると魔物はずたずたに引き裂かれ、その亡骸が次々に蒸発していく。レイジの攻撃が終った時には既にその場に魔物は残滓だけを残すのみで、要塞内の壁や床、天井にも攻撃の苛烈さを示すように傷が残されていた。
「とりあえず第三ゲートは制圧……あとは第二、第一だけだ」
「すっ、すごい……レイジ君……シロウさんに全然負けてないよ……」
ごくりと生唾を飲み込んだのは、レイジの強さに感激したから……だけではない。遮二無二魔物を蹴散らすその姿が凛々しく、しかしどこかマトイの背筋を寒くさせたからだ。
さっさと第二ゲートへ移動しようと連絡通路に向かったレイジ、その前方に突然巨大な顔が出現した。この要塞を攻略した際に使用された巨人型の魔物である。第三と第二ゲートの間に出現した魔物は、連絡通路を移動しようとしていたレイジに拳を叩き付けた。粉砕され派手に吹き飛ぶ壁の向こう、しかしレイジはマトイに守られて無事であった。
「無駄だよ……! どんなに強力な物理攻撃も、私には通用しない!」
「うおーっ、ちくしょうでけぇな! 門と門の間であんなデカブツに暴れられたら要塞自体が壊れちまう! おいレイジ、できるだけ要塞は壊さないほうがいいんだろ!?」
「当たり前でしょ、この後はオリヴィア達が使うんだから! さっさとコアを破壊してしまいたいところだけど……こいつ、コアが身体の表面に露出してない……!」
相談している間に巨人は次の拳を叩き込もうと構える。マトイを下がらせ前に出たシロウは右の拳を強く握り締め、手の甲にあしらわれた精霊の核を燃え上がらせる。巨人が繰り出した拳に自らの拳を合わせると、その攻撃を完全に相殺――否、衝撃で腕を破壊されたのは巨人の方であった。節々から黒い血を撒き散らしながら左の拳を繰り出す巨人にシロウは同じく左の拳を叩き込む。激しい衝撃で施設が壊れて行くが、しかしやはりシロウは無事であった。両腕を破壊された魔物がよろめいていると大地を蹴って飛び出し、空中を回転しながら巨人の眉間に踵を捻じ込む。衝撃波が空中に広がり、巨人は耐え切れずに背後にあった第二ゲートへともたれかかった。
「レイジ、第二ゲートは諦めてくれ! 第一と第三が生きてりゃとりあえずいいだろ!」
「ああ。前回の襲撃でこの要塞は半分くらい壊されてる。どっちみち修理する事になるんだ」
「えっ、そ、そういう問題なのかな……?」
颯爽と着地したシロウはレイジの声を聞き目を見開く。そうして両の拳を胸の前で何度も叩き合わせ火花を散らした。その度にシロウの両腕が纏った炎の勢いは増して行き、まるでエンジン音にも似た重低音伴い炎が渦巻いて行く。その拳に魔方陣を浮かび上がらせ、シロウは一気に倒れている巨人へと接近した。
自らの拳を叩き合わせる事で、自らに“誘爆”の効果を付与。それを叩き付ける瞬間に全解放するという荒業は、シロウが自らの熱ではダメージを受けないという特性を持つからこそ可能な技であった。巨人の胸に拳が減り込むと同時、爆炎が衝撃を伴って槍のように背中から突き抜ける。その一撃は巨人の胸の奥深くに隠されていたコアを蒸発させ、巨体を崩壊させるに至った。
「おっ? 人型してるから心臓の位置にあったらいいなーと思ってぶっ放してみたが、どうやらアタリだったみてぇだな」
「えー……!? シロウさんのパンチで第二ゲートがふっとんじゃいましたけど……」
「さっきシロウが言ってた“諦めてくれ”っていうのはこういう意味だよ」
あまりにも圧倒的なシロウの力に呆然とするマトイ。二人を助けるつもりでついてきたはいいが、これでは自分が居なくても良かったのではないかと考えてしまう。
一方シロウは粉砕された第二ゲートの向こうで呆気に取られている魔物達を眺め、自らの拳に視線を移した。力は益々強くなっており、今やシロウの戦闘力は間違いなくこの世界で最強クラスだろう。だというのに先日はあの東雲というバウンサーにあっけなくカウンターを見舞われてしまった。その理屈がどうにもよくわからない。
「っかしいな。あいつは別に格闘術の達人って感じでもなかったんだがなぁ……。素人相手に、しかも女相手に負けたっていうのは、いまいち納得がいかねーよな……」
考え込んでいるシロウに黒騎士達が襲い掛かるが、シロウが軽いかけ声と共に大地を右足で踏みつけると、炎を伴った衝撃波が広がり魔物を空に打ち上げた。どれもが空中で分解され息絶えて行く様を眺め、腕を組んで首を傾げる。
「俺強ぇよな? ったく……まあいい。歯ごたえのある相手と戦えなくてフラストレーションがたまってたんだ。強敵の出現は、喜ばしい事だよな……!」
魔物の集団に飛び込み蹴散らし始めたシロウを遠巻きに眺めるマトイとレイジ。冷や汗を浮かべるマトイを残し、レイジもそこへ駆け寄って行く。
「なんか……私、強くなったと思ったけど……全然そんな事なかったね……」
あの二人に任せておけばもう終わってしまいそうだった。マトイは慌てて高所から飛び降りると、壊れた門を乗り越えて二人の加勢に向かうのであった。
「え!? それじゃあ、三人だけでカルラ要塞を奪還してしまったんですか!?」
「うん……厳密には二人かもしれないけど……」
翌日、再ログインしたレイジ達は要塞攻略の結果をオリヴィアへと報告しに来ていた。三人で要塞にいた巨人型を撃破し、うろついていた小物も片付けたという報告を聞いてオリヴィアは随分驚いたが、二年間苦戦を強いられたとは言え元々これが勇者の力。この世界に希望が蘇ったのだと安堵した様子であった。
「取り返したとは言え、要塞を維持する為には修理が必要だし兵力を置く必要もある。さっそく隊を組織します。陛下はこのまま王都にてお待ちください」
「そういえばあんた達、確かダンテの側近だった……」
「……ツァーリだ。ブロン共々貴様には世話になったな。貴様が居なければ私達の肉体はとうに崩壊していただろう。命を救われた恩義には礼を言わせて貰う」
頭を下げる女騎士にレイジは何とも言えない表情を浮かべる。元々あれだけ敵対していた相手だ。それがこうもあっさり頭を下げてくる事に嬉しさよりも疑心が勝っていた。
「俺が助けたって、どういう事?」
「単純な理屈だ。私とブロンは肉体をギドの荊に支配されていた。支配の割合が大きければ大きいだけ力を発揮出来るが、能力が解除された時、その反動で肉体が崩壊する……。貴様はギドの能力を一度解除した後、我々に回復術を施した上で能力を再発動させた。奇しくもその手順が最も荊に侵食された者の肉体をつなぎとめる手段であったというわけだ。しかし……だからと言って私は、私達は、勇者という存在を受け入れたわけではない」
正面に立ち、真っ直ぐにレイジを睨み付けるツァーリ。しかしそれ以上の事は決してしようとはせず、大人しく引き下がって見せた。
「我々とて今この世界が困窮しているという事実から目を逸らしているわけではない。貴様ら勇者の力がどれだけ有効なのか、つい今しがた報告を受けたばかりだからな。それに……私はダンテ様の意志を継いで戦う陛下に忠誠を誓った身。下の者にもむやみやたらに勇者を襲うような蛮行は控えさせている。陛下がダモクレスを手にしている限りこの命令は絶対だ。安心するが良い」
振り返りオリヴィアに恭しく一礼するとツァーリはもう勇者達には目もくれずに謁見の間を立ち去った。扉が閉まる音を耳にしながらレイジが小さく息を吐くと、オリヴィアは玉座を下りてゆっくりと近づいてくる。
「ツァーリもブロンも、他の者たちもレイジ様には感謝しています。ですが、ギドが死んだ事で多くの命が失われた事もまた事実……。兵達の中にはまだ、勇者に対する不信感や憎しみを抱いている者が少なくありません。私はそんな彼らの不平不満を、ダモクレスと王権の力を使って無理矢理に押さえ込んでいます……」
腰から提げたダモクレスの剣を見つめ、オリヴィアは寂しげに呟く。レイジはそんな少女の真摯な瞳から目を逸らさずに話を聞いた。
「レイジ様……人の意志とは、心とは……なんとも罪深い物なのですね。皆さんがフェーズ4と呼ぶこの時代になり、“覚醒者”は激増しました。フェーズ3から覚醒者の存在が争いを生んで来たと言えます。それは人の心があるが故の深き業なのでしょうね。私がダモクレスを使わなければ、今もどうなっているのかわかりませんから……」
正にそれは古より伝わるが如き、か細い糸に吊るされた諸刃の刃。世界の均衡は本当に危うい小さな光で繋がれたもので、オリヴィアがその光を失ってしまえば、あっという間に滅びの道を辿ってしまうだろう。それも魔物という災厄を原因としたものではなく、人の心を由来とする血みどろの争いを以ってして。
「勇者様が再びこの世界に現れてくださったお陰で、状況は少し盛り返しそうです。我々にも小さな、しかし確かな希望が見えました。しかし……時折思うのです。この世界は……魔物との戦いが終ったあとのこの世界は、一体どうなってしまうのだろうか、と……」
「オリヴィア……」
「私は目先の戦いに囚われ、世界にとって本当に大切な事はなんなのかを見落としているような……そんな予感がするのです。なんて……こんな事をレイジ様に言った所で、ご迷惑でしょうけれど……」
レイジは首を横に振り、優しい笑顔でオリヴィアの頭を撫でた。オリヴィアはもう成長し、随分と大人びてしまった。それはレイジの時間感覚からすれば異常な速度で。だから彼の中にはまだ幼い少女が、あの日ダリア村で無邪気に笑っていたオリヴィアの姿が居座っている。しかし確実にこの世界では年月が経過し、それに伴い、オリヴィアは変わろうとしている。それでも今は変わらぬ笑顔で変わらぬ優しさを以って彼女を受け入れる事、それが自分に出来る小さな“援護射撃”だと感じたのだ。
「大丈夫だよ。この世界は必ず俺が守ってみせる。どんな時も諦めないで。何度希望が消えそうになったとしても……俺が紡ぎなおしてみせる。必ず……必ずだ」
「レイジ様……」
「約束、覚えてる?」
レイジがそっと小指を差し出すと、オリヴィアは頷いて自らの小指を絡めた。
「……ゆーびきった……ですね?」
昔と変わらぬ無邪気な笑顔を浮かべ、オリヴィアはレイジの胸に飛び込んだ。存在を確かめるように頬を擦りつけ、ぎゅっとしがみつきながら呟く。
「おかえりなさい、レイジ様。また会えて……嬉しいです」
笑顔でオリヴィアを抱き締めるレイジの姿は以前と変わらぬものだ。それがむしろ逆にマトイの胸をざわつかせていた。
戦闘中に見せたあの鬼気迫る表情と、今オリヴィアに向けている穏やかで優しげな笑顔。そのどちらも恐らく本物で、嘘偽りの無い彼の本音だからこそ、不安にもなってしまう。
「レイジ君……大丈夫かな……」
「あ? 殆どノーダメージだったろ?」
「いえ、外見的なものじゃなくて……その……」
「ああ……。まあ、少し気負いすぎてるな、あいつは。ただあいつが物を抱え込みすぎるのは今に始まった事じゃねぇ。それを是正してやれなかった俺達にも責任はあるんだろうがな」
頭の後ろで手を組みながら呟くシロウにマトイは俯く。と、そこへ謁見の前に新たな登場人物が現れた。肩を並べて入って来たのはミユキと遠藤の二人である。
「お話中失礼。レイジ君、ちょっと君に相談したい事があるんだが……いいかな?」
「俺にですか? ミユキ……がらみで?」
「ああ。彼女のご指名でね」
頷き返すミユキにレイジはオリヴィアの頭を軽く撫でてから歩き出す。遠藤とミユキに続いて立ち去るその背中を見送り、マトイは小さく溜息を零すのであった。




