プロローグ(4)
――その時、唐突に世界は願望を自覚した。
始まりは常に虚無から目を覚ます。形を持たない“世界”はまず願いを抱く事で始まった。それは“生まれたい”という願望。それは同時に“生まれなければならない”という義務感でもある。一切を所持しない、しかし世界という甚大な規模の存在が願う本能。それは何よりも強力で、何よりも圧倒的な物であった。
およそ人間の規模とは比較のしようがない程に練りこまれたその祈りは、過去これまで幾つもの世界が生まれてくる時にそうであったように、発生の為のプロセスを踏襲していく。
世界は虚無だ。まだ世界と名乗る事も自覚する事も出来ない。そんな世界が最初に行う事――それは別世界の模倣であった。
まずは既にある世界に“憧れ”を抱く。世界が発生する事、それは必然である。元々、既存の世界に何らかの問題や不具合が存在しているからこそ、次の可能性として新たな世界が要求される。世界が憧れる“世界”。そこには既に世界に不満を抱く存在が跋扈しているのだ。
憧れと願望を満たす為に世界は“意志”を欲する。自らの願望を代行し、共感し、世界の骨子を構築する存在を求めるのだ。その条件は様々だが、そう複雑な事ではない。“今いる世界なんて認めない”と強く願う、“改変”を祈る存在。自らの意思で生み出し、自らの意思で変化を与え、自らの意思で世界に反旗を翻す。そんな存在こそ、世界の骨子に相応しい。その世界の骨子を、時に人々は“神”と呼んだ。
世界の求めに応じて既存異世界より召喚された神はその時点で新たな世界の宿主となる。世界は宿主の世界の情報を汲み取り、自らの基礎構造を構築して行く。宿主は模倣されたデッドコピーの世界と対話を繰り返し、自らが望む世界と世界が望む世界、その二つを擦り合わせるようにして創造の神話を形作る。
神は言った。「私は永久なる楽園を欲する」と。そこは終わりなき理想郷。
――ありとあらゆる争いが必要とされない世界。
――全ての人が飢えを感じず、老いを恐れぬ世界。
――何もかもが無限で、有限であるという限界に囚われぬ世界。
「私は何も望まない。ただ平穏な日々が続きさえすればそれでよかったのだ。世界の仕組みが人の業を生み、人の業が悲劇を繰り返すというのならば、私はまずその世界の仕組みを変えよう。誰もが穏やかな気持ちで夜を迎え、希望に満ちた朝を繰り返せるように」
神が祈り、願いを謳い聞かせると、世界は瞬く間にその姿を変えていく。
デッドコピーの世界にこの世界ならではの個性が色づいて行く。大地がうねり、命が溢れ、あらゆる存在が祈りに応え形を成して行く。世界に望まれた数多の神の中で、この一柱は何よりも“平穏”を重視した。それは彼自身、本来の世界で与えられた不遇に対する絶叫にも等しい。ヨリシロとなった神は、常に己が抱いていた願望を最優先とする。
彼は恵まれぬ青年であった。激動の時代に生を受け、神への祈りすら届かぬ世界で数多の理不尽に人生を蹂躙されてきた。彼は詩人であった。故に彼は渾身の魂を込めて詠う。「世に平穏のあらんことを。永久の安らぎのあらんことを。もしもあなたが望むのならば、その願いのままに世界は応じるだろう。ただ平和だけを望むのであれば、私はそれを惜しみなく与えよう。故にどうか、ただ幸福だけを願い。神にのみ祈りを捧げたまえ」――。
神はこの新たに生まれた世界に新たな秩序を構築し、それを何よりも愛した。この世界を彼は“完全世界”と名付けた。あらゆるものが完結し、そうであるが故にあらゆる悲劇の起こらぬ世界。全てが神の摂理によって動き、それ以上の事は決して起こらぬ世界。誰もが安定した平和を享受し、決して世界に対する祈りを忘れない世界。神は自らが渇望した世界をここに具現の物としたのだ。だが――。
世界は言った。「この世界は本当に正しいのか?」と。「これで本当に私の満足出来る“未来”が訪れるのか?」と。
世界にとって、第一の願望は発生であった。しかしいざ発生を終えた時、世界は既に次の願望を抱きつつあった。それはこの世界の展望を見届ける事である。
本来、なんの変化も訪れない世界など存在しない。あらゆる存在が宿主として神となり、神として世界を編む時、そこにはどうしても神の主観による不具合が生じる。多くの世界においてその不具合はついぞ終末にまで影響を及ぼし、最後まで是正されないまま終焉を迎える。“世界の業”。一つの世界を終らせるに至るこの邪な願いこそ、世界を真の意味で安定させるトリガーである。しかしこの詩人はどこまでも理想を追いかけ、滅私を徹底した。神が当然のように欲する信仰すら求めず、ただなんの見返りも求めず、世界を純粋に愛してしまったのだ。
神は言った。「私の役割は終った。この世界に既に私は必要とされていない。我が理想は遠く離れた時の彼方に成就された。なればこそ、私は私の本来の生を全うしよう。さあ、私をあの狭き塔の牢へと帰したまえ。そこで私は自らが書き記した理想を夢想しながら最後の時を待とう。同じ人の手で裁かれ、大地にこの鮮血をばらまいてこそ、私は夢から覚めるのだから」。世界はそれに応じた。「あなたが望むのなら」。
世界もまた、宿主から独り立ちすべき時期を迎えていたのだ。どこか不安を感じながらも、父親の手から離れる娘のように世界はその別れを受け入れた。神は元の世界に戻り、そこで自らが書き記してきた詩の全てを焼かれる様を見つめながら、安らかな笑顔で首を落とされ命を終えた。
彼は最後、世界を去る時にこう告げた。「私が与えられる物は全て与えた。私が求められる物は全て求めた。我が願いが成就したこの世界において、それでも君が展望を祈るというのであれば、それこそがこの世界が抱く業そのものである。私は所詮人の身に過ぎず、世界の業を解きほぐす事は出来ない。故に私は君の願望を否定しない。君が決して私の願望を否定しなかったように。君が望むままに、君は私の作品を蹂躙する権利がある」と。
神が世界を去ってから、長い……とても長い時間が流れた。
世界は神が望んだ通り、永久の平穏の中にあった。争いのない世界。決して誰も悲しむ事のない世界。予定調和という名の運命が緻密に歯車を回し、無限に繰り返される人形劇。世界はずっとそれを見つめていた。ずっとずっと見つめて……ある日唐突に気付いたのだ。「これは私が見たかったものではない。これは私のあるべき姿ではない」と。
これではただ生まれたままだ。ただ生まれただけだ。なぜ、何の為に生まれたいと願ったのだろう? それはきっと、あの強い憧れの先に、自分にしか作れない景色を作る為ではなかったのか。
デッドコピーのままでは嫌だと、彼と手を取り合い世界を編み出したというのに。これが永遠に続いたところで、そこに一体どんな価値があるのか?
世界を終焉に至らしめる、神創りの業。彼は滅私と奉仕の精神の先に、意図せずにここに狂気を残してしまった。神が業を作らぬという“業”。それが過ちでなくてなんだったというのか。
世界は何よりも変化を望んだ。途端にこの世界からはあらゆる平穏が失われる事となった。詩人の予言通り、彼の歌った世界の通り、彼の最後の同じ様に彼の作品は炎に包まれた。
自ら望んで世界は自らを破壊する。そうしなければ展望を見られないから。だが世界に出来る事はただ壊す事だけであった。“それ”は元より創造性を持たない原初の粘土。作品は所詮作品に過ぎず、間違いなく作者を必要とする。だが神となったあの詩人はもう死んでしまった。それにもう一度呼び出したところで、きっと同じ様に狂った世界を作ってしまうだろう。
ならば――別の存在を神として呼び出せば良い。本来世界に一度しか与えられぬはずの宿主召喚の機会を、この世界だけが二度望んでしまった。それこそが“世界の業”、そして“罪”。世界は常に自らの願望と合致した神を召喚する。こんな世界壊れてしまえと自らが願いながら世界が召喚を行った時、その呼声に応えたのもまた、世界をどこまでも憎む魂であった。
女は言った。「なぜ私を生かしたのか」と。世界は言った。「お前に殺してほしい物があるからだ。私は永久の眠りに着く。この世界が変わる日まで目を覚ます事はないだろう。その時まで、この世界の全ての力と権利をお前に与えよう」――。
女は不完全な完全世界に一人取り残された。女は永劫の囚人となったのだ。世界という膨大な強制力に束縛された彼女はもうどこにも行く事が出来ない。女は愕然としながら神を呪い、世界を呪った。途方もなく繰り返される時間に圧殺された精神で、彼女は何度も祈り続けた。「世界よ終れ。全てが無に帰せ。あらゆる嘆きと悲しみを捧げ、私は祈ろう。いつかこの身が灰となり、この世から解き放たれるその時まで」――。
夜の闇が世界を覆う時、全ての人が神の祈る時間が訪れる。
フェーズ4の世界は全てが混沌の中にあった。勇者が不在とした二年の間に人類は魔王の率いる魔物の軍勢により絶滅寸前にまで追いやられていた。残された人々は身を寄せ合い、一人の王の下に結束する。全ては滅亡の未来に抗う為に……。
「陛下、ここはもう駄目ですぜ! これ以上は防衛線を維持できねぇ!」
馬上から叫ぶ男の声に少女は振り返った。白いドレスの上に鎧を纏い、フェースガードの隙間から覗く視線で状況を確認する。腕利きだけを連れてきたつもりだが、それでも部隊は半壊状態にあった。三割の兵士が死傷した今、撤退は可能な限り急がなくてはならない。元々負けの確定していた戦いではあったが、このままでは全滅する可能性が濃厚だった。
「……ブロンは生き残りを纏めて先に引き返して下さい! ツァーリは私と一緒に殿です! 大物の気を引いて時間を稼ぎます!」
「無茶だ陛下! いくらあんたが“ダモクレス”の使い手でもそれは!」
「無茶だなんだと騒いでいる場合かブロン! 隻腕のお前は馬上ではまともに戦えまい! 足を引っ張る前にとっとと引き返せ!」
男は馬に跨ったまましかめっ面で女を見た。ブロンは右腕丸々一本と右目を失い、顔の半分に麻痺が残っている。それでも戦闘では他の兵士に遅れを取るような事はないが、馬上で手綱を握れば余力はない。ツァーリは“荊”の後遺症が比較的少なく五体満足で、機動戦にも十分対応出来る。王の指示は確かに的確であった。これが最善とは言いがたい。だが、これしかないのもまた事実なのだ。
「……チッ! ツァーリ、死ぬなよ! 絶対に陛下を生かして連れ帰れ!」
ブロンを先頭に撤退を開始する兵達を端目に王は単騎で戦場を駆ける。魔物に蹂躙され破壊された西の要衝、カルラ大陸橋の手前に設置されたカルラ要塞。そこは既に要塞としての機能を失い残骸と成り果てていた。要塞に雪崩れ込んできた魔物達も厄介ではあったが、何よりも要塞を一気に破壊せしめたあの大型の魔物が脅威であった。全長十メートルを越す巨体。まるで人間をそのまま大きくしたようなシルエットから、NPC達は巨人型と呼称していた。
「“竜型”よりは大分ましだがな……! 陛下ッ!」
「撤退が完了するまでで構いません! あれの注意を此方に!」
破壊された要塞から身を乗り出して周囲をゆっくりと眺める巨人にツァーリは馬に乗って近づいて行く。同行させる三人の騎士はどれも腕の立つ“覚醒者”だ。四人で馬上から弓で攻撃を仕掛けると、巨人はやや遅れてツァーリ達に目を向けた。
「……かかった!」
引き返す動きを追いかけるように、先ほどまで緩慢な動作で立っていただけの巨人が倒れるようにして四つんばいの姿勢を取った。そのまま手足を交互に動かし、猛スピードで突っ込んで来る。開いた口から雄叫びを上げながら迫る突撃をかわすツァーリ達だが、砂塵を巻き上げながら巨人はUターンし直ぐに追撃してくる。
「所詮は巨人型……優れているのは膂力と耐久力だけ。いける……!」
少女はフェスガードを上げ、金色の髪を靡かせながら剣を抜いた。ツァーリ達はよく逃げ回っているが、集中的に攻撃されれば馬のスタミナが持たない。少しでも注意を分散する為に、こちらからも攻撃を仕掛ける必要があった。
右手で剣を下げながら、姿勢を低く。馬と共に風を切り側面から巨人へ迫る。蠢く黒い闇の塊である巨人は近づくだけで怖気を覚える怪物だが、王は決して怯まず真っ直ぐ前だけを見つめていた。
馬で側面から飛び込み、擦れ違い様に足に刃を通す。王が手にした豪華絢爛な装飾を施された剣は儀式用の聖剣“ダモクレス”。嘗て革命軍の長が使っていた“アーティファクト”で、NPCが装備して初めて効果を発揮する特殊な装備だ。意志に目覚めた覚醒者が祈りを込める事で精霊器に近い攻撃力を発揮する事が出来る。その威力は所詮精霊器には遠く及ばないが、込める意志が“本物”であればあるほど、“真に迫る”力を行使する事が出来る。
白い光を帯びた斬撃は巨人の足を鋭く刻んだ。巨人が悲鳴を上げるほどの一撃、しかし注意は直ぐに王へと向けられた。反転し王へと向かう巨人へツァーリ達は弓で攻撃を行い注意を分散させようとするが、巨人は脅威度の高い王に狙いを定めたのか、なかなか離れよとしない。
「陛下!」
巨人の追跡を馬に乗りながらなんとかやり過ごす少女。しかしそれも長くはもたないだろう。連戦で馬の疲労もとうにピークを迎えている。剣の威力が高いからと言って、王に勇者と同等の頑丈さはない。もしもあの巨人に少しでも追突されれば、間違いなく即死してしまうだろう。どうやって状況を打破すればいいのか。諦めずにそれでも思考を回転させ続ける王の前方から、何者かが凄まじい速度で接近しつつあった。
その者は大きな弓を構えると、青白い光を帯びた一撃を放った。大地を凍結させながら疾駆する矢をとっさにかわす王。彼女を追跡していた巨人の眉間に矢は鋭く突き刺さり、氷の華を咲かせる。顔の内側から爆ぜた氷の一撃にのたうつ巨人。王は馬の足を少しずつ緩めながら笑顔を作った。
「……来てくれたのですね……ミユキ……!」
風に黒い髪を揺らしながら勇者は淀んだ眼差しで敵を見据える。そうして憎しみと怒りを込めた矢を手の中に作り出し、再び狙いを定めるのであった――。




