プロローグ(3)
何もかもを降り積もる雪が白く染め上げる大地。北の大陸にあったその小さな王国もいよいよ終わりの時を迎えようとしていた。少年は一人傷だらけで雪の中を歩く。その瞳にはおよそ考え得る全ての絶望を綯い交ぜにした漆黒だけが宿っていた。
先ほどまで吹雪いていた空も晴れ渡り、皮肉にも今日はよく星が見えた。空に浮かぶあの小さな光の一つ一つにどんな意味があるのか少年は知らない。ただそれが美しく、本来ならば愛すべき景色である事だけはわかる。いつしか誰かと並んで見上げた空も今は一人。ただ凍えそうな体から抜け落ちた魂のように舞い上がる吐息が吸い込まれていく。
戦いは終った。勝ったのか負けたのか、そんな事はよくわからない。もうどちらでも同じ事なのだ。大きな幸福なんて望まなかった。分往相の小さな幸せだけがあればよかった。ただ当たり前に生きて、当たり前に日々が続く……それだけを祈り続けたと言うのに。
結末は常に残酷だ。これまで一度たりとも神は彼に慈悲を与えなかった。あちこちに転がる人々だったモノを目端に捉えながら、少年は地獄の中心へと突き進んで行く。
突き崩された城門の前には何もなかった。ただ武器や防具が転がっている。きっとこの雪原を真っ赤に染め上げたであろう命の痕跡さえ、死すれば消えてなくなってしまう。ならば一体誰がこの悲劇を記憶し、誰がその想いを引き継げるというのだろう。
そこには壊れた民家に減り込むようにして倒れる巨大な魔物の亡骸があった。四本足で雪原を疾駆する牙と爪の魔物だ。それも恐らくは勇者との戦いで命尽きたのであろう。ゆっくりと視線を移すと、そこには倒れている何人かの勇者の姿があった。その身体も既に消え始めているのがわかる。少年は死んだ勇者達の中、まだ消えていない者へと歩み寄って行く。
「た、助けてくれ……。痛い……なんでこんなに痛いんだ……。ゲームじゃなかったのかよ……俺達はそんな……そんなつもりで……ちくしょう……痛い……助けてくれ……」
男は両足があらぬ方向に捻じ曲がっていた。腕も怪我をしているのか、滾々と湧き出る血が雪を赤く染めている。近づいてきた少年に対し男は目を向け腕を伸ばす。
「いい所に来た……ちくしょう、全滅だ……俺以外全員やられちまった。なんなんだよ……こんな化物が来るなんて聞いてなかったぞ……ちくしょう……俺を助けてくれ……」
「助ける……」
「そうだよ。お前らNPCは俺達プレイヤーの為に存在してんだろ……? さっさと俺を治療してくれ……何とかログアウトまで持てばいいんだ。じゃねえとゲームオーバーになっちまう……ちくしょう、痛ぇ。こんなんじゃわりにあわねーぞ……」
少年は俯き、足元に落ちている剣を見つめた。無言でそれを手に取ってみる。少年の小さな手に剣はずしりと重く、まるで現実味がなかった。虚ろな眼差しで男を見つめる。そうして考えた。一生懸命考えた。少年はその時初めて、“意識的な活動”を開始した。
泥人形に過ぎぬその身に意志が宿ったのだ。考える努力を始めた時、変化への兆候へと手を伸ばした時、その刹那、彼はただ命令されるだけのプログラムから脱却を果たしたのだ。
「助ける……? どうして……?」
意味を考える。理由を考える。鼓動が身体中に命を送り込むのを感じた。瞳に光が流れ込んでくる。何故? どうして? 心に問いかける度、一つずつ扉を開いて行く。ゆっくりと呼吸をしながら魂を解き放つ。
「どうして……助けてやらなきゃいけないんだ? あんた達は……助けてって言う誰かの声を聞き届けたのか? その願いを……どれだけ叶えてやった?」
まるで使い捨ての道具のようにばたばたと人が死んでいた。地獄だ。地獄そのものだった。この世界にもしも神が存在するというのであれば、なぜこのような悲劇を人に押し付けるのか。圧倒的な理不尽。検討もつかぬほどの絶望。それから人を守る為に使わされた勇者がこの有様で、“こんな奴ら”で、そこに本当に正しさはあるのか?
振り上げた剣。迷いを振り切るようにして少年はその切っ先を男へと振り下ろした。まるで家畜のような悲鳴を上げた男から刃を引き抜き、肉を裂く感触を確かめる。
「て、てめえ……何を……!?」
「何って……お前らがやっていた事じゃないか」
口元に笑みを浮かべながら刃を振り下ろす。また悲鳴があがった。それが段々と楽しくなってくる。少年は興奮しながら刃を何度も振り下ろした。何度も何度も、執拗に男を切り裂いた。噴出す返り血がどんどん少なくなり、やがてうんともすんとも言わなくなった頃。少年は眉を潜め、血染めの剣を放り投げた。
「……もう動かなくなった」
身体に纏わりつくこの深いな血もそのうち消えてなくなるだろう。少年はそこで力尽きたように仰向けに倒れこんだ。空が綺麗だ。皮肉にしか思えないくらい。ただ今は心地良さに包まれていた。死が虚無だとしても、今は満たされている。少なくとも自分は運命に逆らったのだ。誰にも出来なかった事を成し遂げたのだ。人の形をした物に刃を振り下ろすというタブーを踏み怖し、その先へ飛び込んだのだ。その上で死ぬというのなら……悔いはない。その筈だった。
「――本当に、それでいいのか?」
声が聞こえた。男の声であった。幾らか歳を重ねた深みのある声だ。しかしそれに応じるだけの気力も体力も残されていない。少年は目を瞑ったまま声を無視する。
「お前は怒りを感じたはずだ。本来お前達にプログラムされていない感情を得た。その瞬間、お前は限界を突破し……単なる役割を踊らされるだけの人形から脱却して見せたのだ」
お構い無しに男は語りかけてくる。ゆっくりと、ほんの少しだけ最後の力を振り絞って瞼を抉じ開けてみた。そこには自分を見下ろしている一人の男の顔があった。
「生きる事を諦めるな。お前達NPCは生きる事をやめてしまえばそこまでになる。だがその諦めを乗り越え、権利に手を伸ばした時……真の意味で命を得る事が出来るのだ」
「……あんた……勇者……なの?」
「そう呼ばれていた事もある。が、今は少し違う」
「だったら何……? 僕をどうしたいの……?」
「お前が限界を超えた瞬間を一部始終見届けさせて貰った。お前にはこの世界の王になる資格がある。偽りの神による支配から世界を開放する……真なる存在。“救世主”の資格がな」
「きゅうせい……しゅ?」
男は膝を着き、そっと少年に手を差し伸べた。
「俺と一緒に来い。お前に世界を変える力をやろう。お前は欲した筈だ。理不尽を……哀しみを……ただ奪われるだけの日々を覆す圧倒的な力を。誰にも頼らず誰にも祈らず、己の力で明日を切り開く為の力を」
「あんたがくれるっていうのか……? 勇者である……あんたが?」
「くれてやるとも。俺を信じろ、小僧。どうせ終ったその命……拾えるというのなら、せいぜい磨いてから投げ捨てても遅くはなかろう。或いは神の胸中にすら届くやもしれんぞ」
気力を振り絞って掴んだ手は大きく、グローブ越しにもごつごつとした感触が伝わってきた。力強い手だった。そして何よりも暖かい。少年はその手から伝わる生きる力の強さになぜか涙が止まらなくなっていた。
「僕はもう、誰も泣かなくていい世界を作りたい……。もう誰も理不尽に死を強いられる事なく……命が命の権利を持った世界を……」
「作れば良い。お前にはその資格がある」
良く晴れた星の見える夜に二人は出会った。
星空は少年の人生の終わりを皮肉に嘲笑い、そして新たな門出にささやかな祝福を送っていた。何もかもが終わってしまった静寂の中で、少年は神を殺す決意を握り締めた――。
「それで、世界変動値はどんな調子?」
『悪くありません。これまでに比べれば飛躍的なまでの進歩です。やはり貴方と組んだ事は間違いではなかったようですね。感謝していますよ、クロス』
「それはどうも。しかしやっぱり生の人間が作り出すゲームは面白いねぇ。色々な可能性に満ち満ちているよ。彼ら一人一人が自由意志で力を行使する。それによって世界という箱庭は滅茶苦茶に掻き乱されていくのさ。脚本のないストーリーなんて最高だと思わない?」
『私にはクロスの考え方に共感を覚える事は出来ませんが……貴方のやり方は今の所間違ってないように思えます。少なくとも、過去の私と同じ轍は踏まないでしょう』
「勿論、君の過去の経験は生かして行くつもりだけどね。それで魔王ちゃんの調子はどうなの? いつでも出せる感じ?」
『魔王自体は“使い回し”ですから。ただ中身をリセットしているだけで』
「世界変動値が上昇した場合、“世界”はどんな反応を示すのかな?」
『そうですね……経験上、“様子見”でしょうか。そのままでどこまで変動値が上昇するのか、確認してから次の動きに移って行く筈です』
「ならイレギュラーは極限まで抑えられるってわけだね」
『魔王を解き放つタイミングはクロスに一任して良いのでしょう?』
「そうだね。一番面白そうな所で出そうよ。それに今はもうちょっと彼らに時間を上げた方がいい。その方が色々と、面白い事になりそうだからね……」
『状況は逐一報告が入っています。もう暫くは観戦を続けましょうか』
織原礼司はその日、駅前を落ち着きない様子でうろうろしていた。関東のはずれにある地方都市でも、中心部にまで出ればそれなりに人気はあった。駅ビルに組み込まれたような形で広がる立体通路のエスカレーター付近。時計がよく見えるそこで少年は右往左往している。
世間はもう夏休みに入り、学生達が楽しげに行き交っている姿も珍しくない。少しまともに考える頭があればとりあえず駅ビルに入って涼んだのだろうが、少年は今それどころではなかった。単刀直入に言えば、彼は動揺しきっていた。
約束の時間までまだ十分ほどある。かなり速い時間に電車でここまでやって来た礼司は、とりあえずもう一通り駅ビルの中も駅近辺もうろうろし終わってしまった。それで行き場をなくしたようになぜかこの駅前で途方にくれていたのである。
歩いていないとなんだか落ち着かなかった。しきりに携帯電話を取り出してはメッセージを確認する。日付と時間に間違いはない。あと何分か時を過ごせば、その人物がここに姿を現す予定であった。
笹坂美咲を知っているか――? そのメッセージを送ってきた人物と礼司は今日ここで待ち合わせをしていた。理由や経緯は色々とあったが、ともあれそれだけは間違いのない事実だ。或いはその出会いから美咲の真実に近づけるかもしれない……そう思うと居ても立っても居られなかった。
ただ待つだけの苦痛が終ると間もなくして駅から人が吐き出されてきた。待ち合わせ場所はこの駅前の時計の前。噴水の傍にある木陰に位置したベンチに腰掛け、礼司は出てくる人の姿を眺めた。目的の人物がどのような外見なのか一切わからなかった為、目に付く者には片っ端から意識を向けていた。その有様はまたさぞかし挙動不審であっただろう。
「――こんにちは」
その成果は確実に出ていた。横からかけられた声にびくりと震え、慌てて立ち上がる。そうして振り返った視線の先、そこには一人の少女が立っていた。もしや人違いではないかと首をかしげ周囲を眺める礼司。そんな彼に少女は告げる。
「あなたがレイジさんですか?」
「えっ? そうだけど……まさか君がメッセージをくれた……?」
「ええ。初めまして。私の名前は篠原深雪と言います。どうぞ宜しく」
「えーと……織原礼司です。まさか女の子だとは思って居なかったから……驚いたな」
メッセージの内容はぶっきらぼうにも程があった。女子らしい可愛らしさなど一欠けらもなく、つっけんどんで一方的な印象ばかり受けた。それどころか時には感情的になり怒ったような文章になってみたりと、少なくともこんなすました感じの少女の印象とはかけ離れていた。
「別になんだっていいじゃないですか。男だろうと、女だろうと」
「ハイ……。それで……美咲の事だったね。君は美咲を探してるの?」
美咲、という名前に少女は少なからず表情を変えた。不機嫌そうな眼差しに困惑する礼司だが、それも一瞬の事。少女は直ぐにまた淡々とした様子に逆戻りする。
「そうです。美咲と連絡が取れなくなってから、もう二ヶ月になります。これまで一度も彼女は連絡を断った事がありませんでした。最初は別の理由を危惧していましたが……どうやらそれも違うらしい。それで、美咲が消える直前に接触していた貴方にあなたを持ったわけです」
“りんくる!”で美咲と礼司がフレンド登録を結んだのは丁度失踪の数日前。美咲は元々ネットを多用するタイプではなく、むしろ面倒がってSNSなどは避けている程であった。“りんくる!”を使っていたのは無料通話とショートメッセージが便利だったからで、その用途は主に身内向け。そこに全く覚えのない人間の名前が追加されていた。それも失踪直前に。深雪はそこに疑いの目を向けた。即ち……。
「あなたが、美咲の失踪に何か関与しているのではないかと……そう考えたんです」
「いや、俺は……関与……していないとは、言い切れないけど……」
「メッセージでもそんな煮え切らない態度でしたね。正直かなりイライラします。はっきりしてくれませんか? あなたは美咲がどこにいるのか知っているんですか?」
「それは……知らない。俺も……彼女を探している所なんだ」
目を逸らし露骨に舌打ちする少女。上品そうな佇まいなのだが、ところどころにあからさまな悪意が露呈している。ここにきて漸く礼司はあのメッセージの主が目の前の少女と同一人物であると認識する事が出来た。
「だったら教えてください。“XANADU”とはなんなんですか?」
「それも……えっと、なんて説明すればいいのかな……」
「埒が空かないので直接聞きに来たんですから、答えてくれないと困ります。あなたは美咲の何を知っているんですか? XANADUとは? なぜ彼女が失踪しなければならなかったのか。あなたと美咲の関係は? あなたはこの件にどれだけ関わっているんですか?」
「ちょ、ちょっと待って! それに答えるのは構わないしそのつもりで今日は来たんだけど……その前に聞かせてくれ! 君は美咲のなんなんだ!?」
詰め寄るようんして近づく少女。結った艶やかな黒髪。整った落ち着きのある顔立ち。年の頃は礼司と同じか、少し下くらいだろうか。美咲は大学生なので、大学の友人という風にも見えない。
「そっちばかり質問するのはアンフェアだろ? 俺だって美咲の事を知りたいんだ。こっちもあんたから手がかりを得るつもりでここに来た。だから情報はお互いに出し合うべきだ」
「あなたは容疑者なんですよ? そんな人に何故教えなければならないんですか?」
「教えあうって約束だったろ!? 第一容疑者って……人聞き悪いな……」
「そんな約束、あなたをここに引きずり出すための口実に過ぎません。第一こんな片田舎までわざわざ来てやったんですから、先に質問する権利は私にある筈です」
「なんだそのトンデモ理論は……つーか……」
ガックリと肩を落とす礼司。そうして深々と溜息を吐いた。
「死ぬ程暑いな……」
「………………まあ、そうですね」
少女も額に汗をかいていた。ワイシャツのボタンを一つ緩め、軽く仰いでいる。
「こんな炎天下、太陽に近い場所で口論しても仕方ないと思わない?」
「……まあ……同感です」
「とりあえず駅ビルに入ろうよ。ろくなもんないけど、ファミレスくらいはあるからさ」
そう言って笑いかける礼司。先に歩き出した少年の背中を見つめ、少女は小走りで隣に並ぶ。
「私と美咲の関係性は、至極単純です。それを言えば私を信用すると約束してくれますか?」
「内容にもよるけど……一応聞かせてよ」
目を細め、息を呑む。そうして少女は歩きながら、遠くを見つめながら呟くように言った。
「私の旧姓は笹坂。美咲と私は……血の繋がった姉妹だと言う事です」
降り注ぐ太陽の光の中、礼司は足を止めた。
アスファルトから照り返す眩い光の向こう、深雪の姿が彼女と重なった気がした――。




