偽りの翼(3)
ケータイを取り出し“りんくる!”を起動する。
退屈な授業の合間に訪れた昼休み。俺は暇さえあればこのアプリを起動するのが日課となっていた。
双頭の竜とかいうボスとの戦闘から三日が過ぎた。結局俺は竜と相打ちになりダウンしてしまったわけでその後の事には詳しくないのだが、村人と一緒に随分と大騒ぎをしたらしい。具体的に何をしたのかはJJが語りたがらないので聞かなかったが、まあ多分、村人みんなで勇者を祝福しながらはしゃいだのだろう。
あの日は作戦終了後すぐにログアウト時間になってしまったので、結局の所俺達はろくな祝勝会も開いていない。だがそれが今の俺には少しだけありがたかった。
アプリのリストには確かに美咲の名前がある。だけど美咲はあれから一度もこのアプリを起動してはいなかった。
ザナドゥでゲームオーバーになったとしても、“りんくる!”がある。だから二度と連絡を取れなくなるなんて事はないと高を括っていたのだが……現実はそう甘くはなかった。
どうして美咲が連絡をとってこないのか。そしてこちらからのショートメッセージに応じないのか、それはわからない。まあ正直な話、俺に愛想を尽かしたというのがしっくりくる理由なのだが……多分、それはないと思うんだよなあ。
ミサキはあの日、俺の目の前で消えていった。この掌の中で美咲がどんどん軽くなっていく、その感触を今でもはっきり覚えている。
その段階になるまで、もうどうしようもなくなるまで俺は彼女に何の手助けも出来なかった。そりゃ愛想を尽かされて当然だし、嫌われて当然だと思う。だけど彼女は恨み言の一つも言わず、ただいつも通りに穏やかな目で俺に笑いかけるだけだった。
どちらかといえば、そこで罵ってくれた方が幾らかましだった。もっとずたぼろに打ちのめしてくれた方が楽だった。ログアウトしてすぐに俺はミサキに連絡しようとしたけれど、その時から一度も彼女は“りんくる!”に繋いでいない。
「織原、メシ食おうぜ!」
「お前最近ケータイばっか見てんな。何? 彼女でも出来た?」
クラスメイトが弁当を手に話しかけてくるのを切欠に俺はケータイをポケットに納めた。
「だったらよかったんだけどね……」
母さんがやたらと気合を入れて作る弁当は、正直言ってうまい。あんまりきっちり作ってあるどころか、たまにキャラ弁みたいになっているので、友達と食べるのは少し恥ずかしいのだが……。
そんな弁当を広げながらも頭の片隅で美咲の事を考えるのはやめられなかった。それは後悔からなのか。それとも……。
「まだ後悔しているんですね。ミサキさんの死を」
ダリア村の水車の前に来ると、美咲と話した事を思い出す。今でも俺はログインするとここに足を運ぶのが日課となっていた。
「いくら悔やんでも足りないさ。俺にもっと力があれば……美咲を救えたんだ」
いつまでも腐っていた所で何もならないという事はわかっている。でも頭で理解できても心はそう簡単に納得してくれそうにもなかった。
無理に身体を奮い立たせて、心を誤魔化して竜を倒した。でもあれは俺の力じゃない。皆が協力してくれたから……なによりミサキの力を継承したからだ。
あの勝利は皮肉にもミサキの死がなければ成立しなかった。ミサキは自らが巨大な敵に立ち向かい散る事で、俺達の中に一体感と勝つ為の力を残してくれたんだ。
「結局、何から何まで世話になりっぱなしさ。何も恩を返せなかったよ」
水面に映る自分の情けない顔に笑ってしまう。本当、どうしようもないヘタレだ。
「私が何か言った所で、勇者様の心を救うなんておこがましい事は出来ないと思います。だから……私はミサキさんの事は何も言えません。ですが、私達の事はどうでしょうか?」
背後のオリヴィアの声に振り返る。彼女は真っ直ぐに俺の目を見て語った。
「私達は竜の恐怖から開放され、救われました。それは間違いなく勇者様の……レイジさんのお陰です。皆さんがいなければ、今頃ダリア村はなかったでしょう」
「それは、君達が運命に抗おうと努力したからだよ」
「そうかもしれません。ですが私達の中に、自分達の力で何かを変えようという発想はありませんでした。今でも多分……その意味を理解している者はいないと思います」
NPCに過ぎないオリヴィア達は自発的に行動し何かを変える、その為に考えるという事が出来なかった。いや……出来なかったのではない。そうしようという考えが最初からなく、だからした事もなかったのだろう。
「村は今、これまでにないくらい笑顔で溢れています。絶望でしかやり過ごす事の出来なかったあの竜が倒れた今、私達の中には確かに希望が芽生え始めています」
「希望か……。なんだか大げさな言葉だね」
「はい。でも、私は決して言い過ぎではないと思っていますよ」
笑いながら俺の手を取る姫様。その笑顔はとても優しくて、たまらなく切なくなる。
「私は神に感謝しています。この地に遣わされた勇者が貴方で……本当によかった」
小さな手を握り返してみる。それは人間の手と何も変わらない。
暖かくて少女らしい手だ。けれど所々小さな傷や豆があり、姫の手という感じではない。
「……優しい手だね。誰かの為に頑張ってる……きれいな手だよ」
なんだかそれがとても生きているという感じで。これまで彼女達がどんな苦労や不安に耐えてきたのだろうかと、そんな事を考えてしまう。
それが笑って感謝の言葉をくれる。どんなに嬉しい事だろう。
俺はこれまで誰かに感謝されるような事をしてきただろうか。非常に恥ずかしい話だが、俺はちゃんと誰かの役に立った事も、必要とされた事もなかったように思う。
このゲームを始めてミサキや仲間達に出会った。コンピューター制御のNPCに過ぎないとは理解していても、オリヴィア姫やダリア村の人たちと出会ってしまった。
「ありがとう……オリヴィア」
「わっ、わっ!? 勇者様……ど、どうなされたんですか?」
姫様の手を両手で握り締めながら、止まらない涙の為に目を閉じた。
ミサキはどうしたって戻ってこないけど。でもいつかは彼女と連絡がつく日が来るだろう。その時までに自分がどのようにあるべきなのか……それを考えなきゃいけないんだ。
胸を張って、俺はやれるだけやったって……諦めなかった、逃げなかったって、そう笑顔で言えるように……今の俺に何が出来るのかわからないけど、それでも……。
「君達を守るよ……それが彼女の望みだったから……」
「……はい。どうか我々をお守り下さい、勇者様」
「うん……ありがとう、生きててくれて……守らせてくれて、ありがとう……」
泣き崩れた俺とそれを慰める姫様。これではどっちが神の使いで、どっちが許しを求めているのかわかったものではなかったが……それでも涙は止まらなかった。
ただ、一粒一粒涙が零れ落ちていく度、自分の中で何かが清算されていく気がした。モヤモヤした気持ちや後ろ向きな考え、逃げ腰な自分が消えていくような、そんな気が。
だから涙が止まった時、とても清清しい気分で空を見る事が出来た。少し腫れぼったい目に青空は眩しすぎて、ちょっとだけ染みる気がした。
「勝利の宴、本当にやらなくて良いのですか?」
「うん? どうして?」
「勝ったぞー! っていう感じにならないと、勇者様も盛り上がらないかと思って……」
両腕を広げながらそんな事を言う姫様。思わず笑ってしまう。
「いいよ。この村、本当はみんなの生活だってギリギリだったんでしょ?」
初日の歓迎会で出された料理が微妙な豪華さだったのもその為だ。あの料理はあれでもダリア村で出せる精一杯のもてなしだった。その為に何日も姫様が質素な食事を強いられたという話を聞いたのは、竜を倒した後だったのだが。
「俺達にそんなの食わせるくらいならみんなで食べてよ。その方がいいに決まってる」
「ですが、それでは我々はどのように皆さんにご恩をお返しすればよいのか……」
「ご恩って……ははは。まるで俺達を同じ人間みたいに言うんだね」
目をぱちくりする姫様。多分指摘されるまでその事に気付いていなかったのだろう。
他の村人はみんな俺達に礼を言って拝んだが、それ以上の事をしようとはしなかった。そりゃそうだ。元々俺達は彼らにとって、村を救って当然の存在なのだから。
だからこんな事を言ってくるのも、落ち込んだ俺を慰めようってのもこの村の中では姫様だけだ。それを思うと、彼女は少しNPCとしては風変わりな存在になってしまったのかもしれない。
「け、決して皆さんを貶めるようなつもりはなかったのです! お許し下さい!」
「あー、怒ってないよ。ていうかそれでいいよ。人間扱いしてくれた方が楽」
慌てふためく姫様をちょっと面白半分に眺めながら笑う。するとそこにシロウとJJが近づいてくるのが見えた。
「よおー、レイジ! 修行しようぜ、修行!」
「そうじゃないでしょ……何しにきたのよあんた」
握り拳を掲げていい笑顔のシロウ。その横でJJが呆れている。いつもの光景だ。
「レイジ、今後の方針について相談したいんだけど……いい? ついでにそっちの姫様も一緒に、神殿で」
「わ、私もですか?」
「当たり前でしょ? 今となってはあんたが村人達を制御する唯一の方法なんだから。村人の持つ知識や技術は私達にとっても有益よ」
「そ、そうでしたか……ではお力になれるよう、精一杯頑張らせていただきます!」
なんだかたどたどしいガッツポーズを取る姫様。その様子を眺めていると、JJが振り返って言った。
「ほら、さっさと行くわよ……リーダー」
正直そう呼ばれると照れるというか、申し訳ない気分になる。
俺にはそんな資格も力もない。そんな事はわかりきっているからだ。
けれども俺は知っている。そうあって欲しいと望み、信じてくれた人がいた事を。
「――今行く!」
だから笑顔で応じよう。堂々と胸を張って、いつか彼女に出会える日まで。
誰かがそう望んでくれる限り、俺は勇者であり続ける。
それは誰かに言われたから仕方なくやるんじゃない。俺がそうありたいと望んで決めた、たった一つのプライドだから――。
「――それで? 第一の試練を前に勇者達はどんな様子かな?」
『三十六チーム中、二十一チームが壊滅しました。まあ、妥当な数値ですが』
空に浮かぶ雲よりも遥かなる高み、或いは大地の奥底に沈む伽藍の堂。暗がりの中に広がる広大な部屋の中、白いドレスの女が盤上に手を翳している。
「そんなに死んじゃったの? 情けないなあ……だから試練に打ち勝てるように五人のチームを作らせてるのにね。あーあー、こりゃ酷い」
そんな女に歩み寄る白いスーツ姿の男が一人。盤上に浮かび上がった幾つかの映像に顔を顰める。そこには魔物の手で無残な死を遂げたプレイヤー達の亡骸が映し出されていた。
『最初からより試練について詳しく説明しておけば彼らの意識も違ったでしょうに』
「いいよそんなの。僕が求めているのは真の勇者……“救世主”なんだからね。本物の勇者は誰かに言われなくなってチームをまとめるし、誰に言われなくても修行して強くなるし、意味とか理由とか関係なく強敵を倒すものだろう?」
『しかし、それで最も素質を持っていた勇者を犠牲にしてしまいました』
女が片手を軽く振るう。すると虚空に一枚の画像が出現した。雨の中、平原にて巨大な双頭の竜と退治する一人の少女。長大な刀を手に単身で互角の戦いを繰り広げていた。
『彼女こそ真の勇者、英雄の素質を持つ者だと私は考えていたのですが』
「でもそうじゃなかったって事でしょ? 勇者は死なないんだ。こんなところで死んでしまうなんて、“情けない”ってもんだろう?」
楽しげに笑う男。仮面の女は小さく息を吐き、浮かび上がった無数の映像を消す。
『次はどのように動かしましょうか?』
「ん。第一の試練は終った……って事は、現時点で残ってる連中はそれなりの連中って事だ。だから僕らは――あえてなにもしない」
振り返る女。その視線の先、男は口元に手をやり微笑んでいる。その表情は飄々としているのだが、瞳に宿った光はぎらりと鋭く、まるで得物を狙う獣のようであった。
「この世界を作るのは僕らじゃない。彼らプレイヤー自身なんだから……ね」
薄暗い部屋から光が消える。世界の時間は今、ゆっくりと前進を始めようとしていた。




