覚悟と資質(3)
鮮明に思い出せるのは黒い光。闇を切り裂き、大地を駆ける雷鳴。
それは確かに漆黒であった。しかし溢れんばかりの光を帯びている。
吼える竜の牙をかわし、炎を潜り、豪雨を劈く雷鳴。笹坂美咲は黒き刃を手に、たった一人で巨竜を蹂躙していた。
握り締めた武器は自らの精霊を武装化した刀。刀身には黒い光を帯び、それは周囲に雷鳴を轟かせる。黒き雷――それこそ怪鳥の精霊が持つ力であった。
竜は咆哮を上げ、振り上げた尾を叩き付ける。しかしミサキの機動力はその挙動を遥かに上回っている。一息で滑るように移動し、すかさず身体を捻り刃を繰り出す。
漆黒の雷を乗せた斬撃は空振りに終わった竜の尾を引き裂いた。シロウの拳が傷をつける事が出来なかった頑強な鱗の鎧を断ち、確かな傷を負わせている。
血を噴出す尾を引っ込めながら左右の口を開く竜。そこから放たれる炎の砲撃は大地を砕く威力を持つ。直撃すれば誰だろうが致死は避けられない。
ミサキはこれに対し刀を両手で構え刀身に力を込めた。光を増した刃が雷鳴を轟かせ、振り下ろした斬撃は光の刃となって火球を両断した。
次々に発射される火球に対し雷の刃を放出し相殺し続けるミサキ。全てを捌ききった後、改めて刀を構え直しながら背後に目を向ける。
まだ自分の後ろには呆然としているレイジがいる。竜の後方には負傷したシロウとそれを救助しているアンヘル。ブレスも火弾も、このどちらかに直撃する事は避けなければならない。
逃げ道を限定されたミサキの立場は劣勢であると言えた。今は竜の猛攻を凌ぎ対等な戦いを演じてはいるものの、まともに攻撃を受ければひとたまりもない綱渡りの勝負。こちらはあと何回奴を斬りつければ勝利できるのか、検討もつかないというのに。
「お願いヤタロー……私に力を貸して。皆を守る力を……!」
出口の見えない闇の中、頼れる物は自らの精霊のみ。どこまでやれるのかはわからない。どうなってしまうのかもわからない。未来の事は何もわからない。それでも今は出来る事をする。力を出し切る。
やれる。やれない筈がない。仲間を思う気持ちは誰にも負けない。その想いが本当に誰よりも強いというのなら――どんな奇跡だって起こせる筈だから。
竜の次の一手は回避を許さぬブレス攻撃。超広範囲を一瞬で焼き尽くす炎から身を守る手段をミサキは持ち合わせていない。即ち命中すれば死――故にとれる手段は一つだけ。
炎の嵐が吹き荒れる。視界全てを覆いつくすような赤の中、ミサキのとった行動は前進であった。炎の中に飛び込んでいくその姿は、確かに一度完全に消え去り……そして、竜の背後に現れた。
その挙動に遅れ、雷鳴が鳴り響く。ミサキはたった今炎に呑まれた筈であった。実際双頭の竜もそう思い込み、まだミサキがいた地点に炎を吐き出し続けている。まさか自分の背後に一瞬で移動し、既に反撃の構えを取っているだなんて、想定している筈もない。
強烈な一撃が竜の尾を両断した。二股に分かれていた尾の片方が切り落とされ大地に転がる。竜はそこで漸く自分が攻撃された事実を知り、首だけで振り返り再び口を開いた。
再び放出される炎。ミサキは息を止め、全身に力を行き渡らせる。身体全てが雷になるイメージ。そして彼女は本当に、雷そのものに変化した。
後に“迅雷”と名付けられるミサキの移動スキル。その概要は即ち雷に変化する事。
発動の瞬間ミサキの身体は光そのものに変化し、指定した地点まで迸って移動する。この移動速度は雷のそれとなんら変わる事はない。目の端で捉える事すら不可能な超超高速移動。移動中はミサキの意識も途切れるという欠点もあるが、雷に変化している間はあらゆる攻撃を受け付ける事はない。
大地を奔る黒い閃光。この一瞬に浴びた炎でミサキの体が焼かれる事はない。また竜の背後、指定した座標で肉体を取り戻し、まんまとブレスの回避に成功した。だが……。
「……っつう!」
たった二回使用しただけで全身にはガタが来ていた。
元々迅雷の扱いは非常に難しい。もし彼女に迅雷を使いこなせるだけの訓練期間を与えていたのなら結果は違ったかもしれない。だがその時間は永遠に訪れなかった。
ミサキの使用する不完全な迅雷は圧倒的な性能を誇るが、それ故に激しい消耗を伴う。ただでさえ移動先の座標設定や着地が難しいのだ。疲労が重なれば足元を滑らせ転倒してしまったとしても何の疑問もない。
濡れた地面というのも悪かったのだろう。転んだミサキは地に刀を刺して高速移動から停止する。雷化状態から生身に戻るのが遅れた場合、高速移動を制御できず自らの勢いの所為で勝手に吹っ飛んでしまう事もある。
「早く……決着をつけないと……!」
泥だらけになりながら立ち上がるミサキ。魔物のセオリーがこの化物にも通じるのならば、倒す方法は一つ。左右の額に存在しているコアを破壊する事。
だが竜の額にまで到達するのは容易ではない。額まで跳躍するにしても八メートル程の高さがある。不用意に跳躍すれば噛み殺されるのは目に見えている。こちらはどんなに素早く跳んだとしても空中では無防備になるが、向こうは首を素早く動かす事が出来るのだ。目の前に跳んでいるミサキを攻撃してこないとは思えない。
となれば首を伸ばして攻撃してきた時にカウンターを狙うか? いや、向こうには首が二つある。交互に攻撃する事で隙を殺しているのは明らかだ。片方のコアを破壊すると同時に自分がやられてしまっては意味がない。
「あと何回使えるかわからないけど……やっぱりこれに頼るしかない、か……」
ブレス攻撃中、その広範囲攻撃故に竜は自らの視界も塞いでしまっている。だから先ほど迅雷で背後に回った時気付くのが遅れたのだ。
ブレスを誘発し、迅雷で回り込み背後から襲い掛かる。しかしコアは額にある。正面に入り直しているほどの時間はない。ならば、結論は一つだけ。
「やるしかないかあ……。無理させてごめんね、ヤタロー。もうすこし……もうすこしだけ、私に付き合って……!」
竜が繰り出す尾による薙ぎ払いを軽く跳躍して回避。すかさず飛んでくる火弾を切り裂きながら着地し、竜の周囲を周るように走り出す。
火弾の砲撃を回避する度に大地に大穴が開き土砂が舞い上がる。目を細めながら、霞む雨の向こうに竜の光を捉えた。
「皆を守る……私が守る! もう、誰も一人になんかさせないッ!」
竜が息を吸い込み口を開く。ブレスの予備動作だ。ミサキは直ぐに全身に雷を纏い迅雷の発動に備える。
放出される炎が大地を焼き尽くす。瞬間、ミサキの身体は光速で大地を疾駆する。竜の炎も竜そのものさえも掻い潜り、その背後に着地した。
心臓が悲鳴を上げている。呼吸が止まっていた。からっぽの胃が軋んで胃液を逆流させようとしてくる。それを飲み込みながら振り返り、目を見開き敵を睨む。
「額まで届かないなら……」
両手で握り締めた刃にありったけの力を込める。勝負は一瞬。何度もちまちまと斬りつけている暇がないのなら、一撃で両断するのみ。
「首から上を……丸ごと縊り取るッ!」
勢いよく前に跳び、竜を背後から斬り付ける。右の首の付け根に刃を食い込ませ、ありったけの力を込めて振り抜いた。
叫び声と共に光を増す刃。雷の剣が鱗を砕いて肉に食い込み、骨を断って切り裂いていく。竜はそうして自分の首を片方切り落されるまで、自分が何をされているのか理解していなかった。
雷鳴と共に落下する首。その額に刃を潜らせながら走り出す。呼吸はまだ止まっている。何秒間息を止めているのかわからない。身体の彼方此方が辛いが……一つ確かに勝機をつかみ取って見せたのだ。
――いける。その場に居た目撃者の誰もがそう直感した。
なぜシロウよりも戦闘力で劣る筈のミサキがここまで尋常ならざる戦いを繰り広げられたのか、その理由はわからない。だが事実勝利が近づいている。あとはもう片方の首を切り落としてしまえば済む話。そう思っていた。勿論、ミサキ本人でさえも。
雄叫びを上げながら振り返った竜が火弾を発射する。無理な攻撃の直後でミサキの態勢は崩れていた。だがこれは計算済みである。
もう一度迅雷を使って突きぬけ更に背後に回り、もう片方の首も落とす。それで勝利は間違いない。身体に雷を纏い、前進しようとした――その時であった。
身体に纏っていた雷が全て消滅してしまった。問題はその事実にミサキが気付き、理解するまでにかなりのタイムラグがあったという事。
一瞬で飛来した火弾を避ける暇がなかった。咄嗟に飛び退いたものの、足元を吹っ飛ばされたミサキの身体はまるで人形にように空を舞い、地面に叩きつけられてしまった。
痛みは思ったほどない。確かに痛くて苦しいがそれだけだ。だが体が大きなダメージを受けている事は明らかであり、実際指一本動かない。
刀は随分遠くに突き刺さっているのが見えた。何とか腕を伸ばしてあれを拾わなければならないと頭では理解しているのだが、身体はまるで言う事を聞かなかった。
それどころか、思考がまともに働いていなかった。剣を拾う。それくらいしか考えられないのだ。剣を拾って……どうするのか。そもそも自分が今、何をしていたのかさえ……。
「――美咲ッ!」
「え?」
誰かの声が聞こえて顔を上げる。そこには目前にまで迫った竜の顔があった。
そこからはもう何の抵抗も許されない。竜は倒れているミサキの身体に噛み付き、首を大きく振って再び大地に投げつけたのである。
レイジはその様子をただ見つめていた。ずたずたに噛み付かれたミサキの体が地面にぐしゃりと音を立てて落ちる一連の流れを、まるでスローモーションのように脳裏で反芻する。何度かそんな事を繰り返して初めて……ミサキが死ぬという思考に至った。
「――みさきぃいいいいいいっ!」
弾かれたように駆け出すレイジ。その視界の端では深手を負った竜がゆっくりと退却を始めていた。だがそんな事は眼中にない。ただミサキの元へと駆けつけた。
横たわっているミサキは無残な状態であった。身体には幾つも風穴が開き、際限なく湧き出す鮮血が大地を赤く染めている。美しかった髪も肌も今は泥に塗れ、一切の生き物らしさを剥奪されたかのように、ただ冷たく……静かに横たわっていた。
それがこの戦いの結果。ミサキが死に、竜は退却を余儀なくされた。
ミサキという一人のプレイヤーのリタイヤによって、この執行猶予が齎されたのである。
「今こうしていられるのもミサキのお陰さ。俺は……何も出来なかった」
竿を片手に呟くレイジ。オリヴィアはその隣で水面を見つめていた。
「こんな時、なんて言えば良いのか……」
「相手が神の使いだから?」
苦笑するレイジ。しかしそれはオリヴィアにとっては笑い事ではない。
「私達にとって……死は一つの救いでもあります。肉体を失った魂がこの世界と一つになれるのであれば……それが救いでなくてなんだというのでしょう」
「俺には君達の考えはよくわからないな。多分、価値観が根本から異なるんだと思う。だけど逆に、違う所と言えばそれくらいなんだよな」
オリヴィアの顔を見るレイジ。二人は暫しの間無言で見つめあった。
「あの化物は俺達が倒すよ。安心して……とは言えないけど。でも、倒す。もう同じ失敗は繰り返さない。俺は……ミサキの代わりに君達を守ってみせる」
「レイジさん……」
胸に手を当て考え込む。思い出すのはミサキの言葉だ。
ミサキはいつでもオリヴィア達に自然体で接していた。笑顔で、そして真摯に。
彼女が力を貸して欲しいと言った時、その言葉の意味を理解する事が出来なかった。なぜならば神は完全無欠の存在であり、その使者もまた同じであると信じていたから。
勇者が現れるまでの間、ダリア村には死の帳が下りていた。いつどのような滅びが訪れ、無慈悲な蹂躙を受けるのかわからない状況。逃げ場らしい逃げ場もなく、ただその時を待ち、死の運命を受け入れて過ごしていた。
彼らにとっての死は救いである。それは敬愛するこの世界そのものと溶け合う事が出来るから。肉体を持つが故の数多の苦しみから解き放たれ、神と近しい存在になれる。
そう信じているからこそ、数多の死を笑顔で送り出す事が出来た。近しいものが次々に倒れても、消える肉体をただ祝福する事で慰めとしてきた。
これまでは、そう。それだけでよかった。それ以上も以下も、考える余地すらなかった。
オリヴィアの長くしかし短い人生の中、死について考える事は一度もなかった。自分達は何者で神とはどんなもので、その使者である勇者とはなんなのか。それは勇者と呼ばれる異質な存在と接触するまで湧き上がる事のない疑問であった。
万能万全たる神の使徒が敗れた時、オリヴィアの中に疑問と共に新たな息吹が流れ出していた。それはきっと、小さな少女の胸の中に元々吹いていた風。ただそれに気づく事を許されていなかった、知る由もなかった光。
「ミサキさんがいなくなって……私は……悲しいのだと思います」
顔をあげ、真っ直ぐに。自らの言葉を噛み締めながら語る。
「後悔と呼ぶべき気持が今、この胸の中にあります。私にも……何か出来る事があったのではないか、と。私は……ただ現実から逃げていたのではないか、と……」
言葉にすればするほど、魂が熱を帯びていく。
それと知らぬまま、少女の瞳は確かに輝き、命と呼べる物を纏い始めていた。
「私に……私達に、何か出来る事はありませんか?」
「姫様……」
「あ、い、今何かを言われると、自分の気持ちがわからなくなってしまいそうなんです! 私は……自分がこれまで信じていた事と……目の前の自分の気持ちと、どちらを優先すべきなのかわかりません。だから何も言わず、ただ答えだけをくれませんか……?」
胸の前で両手を組みながら俯く。その仕草はまるで祈りのようだった。
「私は――良いのでしょうか? 祈り……その願いを叶える為に、努力をしても……」
神に許しを乞う。しかしここに神は居ない。故に答えを出せる者も一人だけしかいない。
レイジはそっとオリヴィアの頭を撫でる。そうして笑顔を作った。
「君のやりたいようにやればいい。それがきっと全てなんだよ、姫様」
顔を挙げレイジを見つめるオリヴィア。眉を潜め、目を閉じ、その場に崩れ落ちる。
「ひ、姫様?」
「私は……ごめんなさい。私は……それでも、私は……」
これまで何度も、目の前で死を見送ってきた。
笑顔で手を振り、良かったねと告げる。それが当たり前で、疑問を浮かべる余地はなく。
「私は……どうすればよかったのでしょうか……?」
全てを諦め。世界の望むままにと。ただ只管に繰り返すだけの日々。
どこで終わってしまっても仕方がないのだと。それが神のさだめなのだと。受け入れる事で目を逸らし、ただ逃げ続けてきたと言うのに。
「ああ、神よ……どうして貴方様は……何も……何もお言葉をくれないのですか?」
溢れる涙は閉じた瞼でも留める事は出来なかった。ぼろぼろと、ぼろぼろと繰り返し流れ落ちる雫。目を開き、少女は自らの頬に手を伸ばす。
「これは……?」
「……涙……だよ」
膝を着き姫の傍に寄り添うレイジ。涙を拭い、再びその頭に手を乗せた。
「泣いた事もなかったのか……君達は」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
レイジには彼女がなぜ涙を流しているのか、その理由すらわからなかった。それは当然の事である。彼はまだ、彼女達が何者なのか、その本質を理解していないのだから。
だが一つだけ今の彼にも分る事があった。それは今、オリヴィアがとても深い悲しみと後悔の中にあるという事。そしてその後悔は、きっと取り返しがつかないだろうという事。
泣きじゃくる少女の頭を撫で続けたのは、まるで自分の姿を見ているような気がしたから。少女に優しく接する事で、自分の罪を幾許かないがしろに出来る気がしたからだ。
そこになんの意味もなく。そこにはなんの理解もない。であれば、全ては無意味だったのかもしれない。それでも少年と少女は確信している。ここからが始まりなのだと。
「やれるだけの事をやろう。もう誰も泣かなくていいようにしよう。その為に俺達は努力を怠っちゃいけないんだ。泣くのはもう、嫌だから」
「はい……そうですね。そう、ですよね……」
顔を挙げ、涙に潤んだ瞳で微笑むオリヴィア。レイジは少し照れくさそうに笑顔を返した……ところまでは美しい絵になっていたのだが。
「そういえばレイジさん、竿はどこに……?」
「あっ」
手にしていたはずの釣竿がどこにも見当たらないのだ。二人で周囲を見渡してみるが、どうにも発見出来ない。要するに、釣竿は川に流されてしまったのである。
「ということは……あいつも流されたか……」
「え……えぇっ!?」
「だ、大丈夫……精霊は、呼べば出るから……」
片手を翳し精霊を呼び出すレイジ。するとその直後、地べたにボテっという奇妙な音と共に水浸しになった白い巾着が落下し、口から水をぴゅーっと吐き出すのであった。
「……それで? どうやってその子を説得したの?」
「はい。私、説得はされていません。私が自分からレイジさんにお願いしたんです!」
神殿に戻ったレイジはJJに話を通そうと足を運んでいた。しかしレイジが説明をするまでもなく、オリヴィアはぐいぐいとJJに詰め寄っていく。
「ははは。やるじゃあないか、レイジ君。君は女の子をたらしこむ才能があるよ」
「いや、俺は何もしてないんで……ていうか人聞きの悪い言い方はやめてください」
「まあいいじゃないか。実際君の力だろう? 色々とまあるく転がりだしたのは、さ」
壁際に立った遠藤がウインクするとレイジはなんとも言えない表情を浮かべた。
元々遠藤とJJが作戦について相談していた所だったのだが、今となってはそれどころではない。興奮している姫を何とか収めなければ話の続きは不可能だろう。
「わかった、わかったわよ。でもねお姫様、あなた一人の力じゃ何も出来ないでしょう?」
「それは承知しています。ですからこうするんです!」
くるりと反転し広間を飛び出すオリヴィア。そうして大声をあげる。
「――ダリア村のみなさん! お話したい事があります!」
目を丸くするJJ。遠藤は口元に手をやりにやにやと笑っている。
「ははあ。すごい行動力だねえ。さすがはお転婆姫って所かな?」
「なんか……あんな類の奴ばっかりね」
ダリア村の住人は神殿の空いている部屋や広い中庭で時間を過ごしていた。姫はそこらじゅうを駆け回り、一人一人に声をかけていく。
たったそれだけの事で住人達は中庭に詰め掛けた。ずらりと整列する村人たちの前、姫は噴水の淵に登って声を上げる。
「皆さんに……お願いしたい事があります!」
レイジ達はその様子をオリヴィアの背後から眺めていた。誰も今は勇者達に視線を向けては居ない。観衆の興味は今、たった一人の幼い少女に集まっていた。
「姫様、これはなんの騒ぎですかな?」
「じいや、私は気付いたのです。このままではいけないと。ダリア村を守る為には、私達も何かをしなければいけないのだと」
「何か、ですかな? しかし姫様……我らには神の使いである勇者様がついていらっしゃるのですぞ? 我々が何もせずとも、全ては解決するのではありませんか?」
「その勇者様の一人が邪竜の牙にかかり、命を落としたとしても……ですか?」
オリヴィアの言葉にどよめきが広がっていく。それは彼らにしてみれば全く想定していなかった事態だ。
神とは絶対の存在である。その神の使いが死ぬとは何事なのか。彼らは何もせずただそこに立っているだけで絶対を代弁し、邪竜を討ち滅ぼして然るべきではないのか。
「私も皆さんと同じでした。神が我々をお守りくださる以上、一切の心配は無用であると。我々が彼らの力を疑う事そのものが、神への侮辱に他ならないと。しかし……」
オリヴィアは知っている。いや、本当は村の者達も知っているはずなのだ。
勇者達が本当はどのような存在なのか。確かに彼らは特別だ。自分達とは違う。だが……ただそれだけだという事を。
「あえてはっきりと言います。勇者様は、絶対の存在ではありません」
「お、おお……! 姫様、なんと恐れ多い……!」
「皆さんは! 神を……この世界を信じている事でしょう。無論私も信じています。これまで一度足りとも疑いを持たず、そして今も同じであると確信しています。ですから私は――今でも勇者様を、彼ら一人一人を信じています」
「で、では……なぜそのような事を?」
「じいや。じいやは、毎日のお祈りを欠かした事はないでしょう?」
「勿論ですとも! 朝昼晩、三度の祈りは決して欠かしたことはございませぬ!」
「私もです。そして皆さんもそうですね? 我々は神に……そして我々を生かしてくれているこの世界に常に感謝し、祈りを捧げています。そして我々は世界が与える恵みに感謝しながら毎日額に汗して働いているのです」
顔を見合わせる村人達。姫の言葉はまさにその通りで、ただ頷くしかない。
「皆さん。これは、つまりそういうことなのです」
「ほ? 姫様、それはいったい……」
「私達は神を信じ、世界の恵みに祈りを捧げます。しかしだからといって勝手に稲が育つわけではないし、勝手に食事が提供されるわけではないし、お洗濯もお掃除も、神様がやってくれるというわけではないのですよ」
優しく、雁字搦めになった糸をほぐすように。オリヴィアは人々に語りかける。
「祈り信じ、愛すれば全ては成される……それは間違いのない事実です。しかしそれを賜る為に、我々はこれまでも必要な努力を行なってきたはずです。何もせずとも我々が生活できるわけではないのですから、なにもせずとも魔物が消えるという道理はないでしょう」
ざわめく村人達。彼らの頭の中では今、姫の言葉と勇者と言う存在、そして神に対する信仰とがせめぎあっていた。
完全に停止していた思考を動かすという事は並大抵の事ではない。頭の中に固まっていた先入観を解すためには時間がかかる。だから直ぐに理解を得られるとは思わない。
「勇者様が万能であるかどうかはこの際問題ではないのです。神に祈り、その愛を賜る為に我々が何をすべきなのか。ただ座して全ての責任を神に放るというのであれば、それこそ神への礼節に欠いていると言わざるを得ないでしょう」
姫とて困惑は同じである。彼女と彼らの間には本当に些細な違いしか存在していない。
己への疑問を受け入れた姫と、それを受け入れられない民衆。違いは0と1の狭間にしかない。だがそれが、大きく彼女を彼女至らしめる力をなる。
「畑に種を蒔くように。白いシーツをお洗濯するように。同じ気持ちで私達は魔物に立ち向かわなくてはなりません。勇者様が敗北したというのであれば、それは我らの祈りが足りなかったという事に他なりません」
それは本音。しかし同時に彼らを騙すための言葉でもある。
それは後悔。あの日彼女に応えられなかった自分への決別でもある。
どうすればいいのか、何が正解なのか、今のオリヴィアにはわからない。それを判断するための材料が圧倒的に不足しているのだから。
故に――都合よく思考停止する。それはそれ、これはこれと切り分けて考えた。勇者がどうだの自分達がどうだの神がどうだの魔物がどうだの、そんな事はどうでもいい。ただ、自分達が何をすべきなのか。自分達に足りなかったものはなんなのか。それだけハッキリ見えているのなら……今は上出来ではないか。
「祈りましょう! 自分達の為に! 神の為に! 世界の為に!」
正直な話、村人達はオリヴィアの話を頭できちんと理解したわけではなかった。
ただ――姫の言葉には確かな熱があった。彼女が本来持ち得た王族としての力がそうさせたのか。演説の才があったのか、それはともかく。彼女の言葉は村人達に届くだけの勢いを持っていた。
ぶっちゃけ、姫が何を言っているのかはわからない。でも今は拍手しよう。言ってしまえばそんな空気である。だがそれが出来るのは彼女しかいない。彼らの信頼を受け、彼らを率いる資質と役割を与えられた彼女だけが、よくわからないままの思考停止した民衆を引っ張っていく事が出来る。
「ある意味、危ないカルト宗教ね」
肩を竦めながら苦笑するJJ。遠藤とレイジも感想は似たり寄ったりであったが……。
「でもよかった。姫様、いい顔してるよ」
「だねえ。うんうん、やっぱり青春はいいものだよ」
「暢気ね。村人が手を貸してくれるなら計画に大幅な修正が必要になってくるわ。これから忙しくなるわよ」
「忙しくなるのは大体JJだからねえ。僕らはほら、ねえ?」
溜息混じりに遠藤を蹴飛ばすJJ。レイジは苦笑いしつつ、遠巻きに姫を見つめる。
「……ありがとう、オリヴィア」
言葉はきっと届いていなかった。それでもオリヴィアは振り返り、柔らかな笑みを浮かべるのであった。




