エピローグ
季節は巡り、初夏。
俺が全ての救いを願い、全てを裏切り、自分の何もかもを捨てて辿り着いた千年から、この世界はたったの三年しか過ぎてはいなかった。
二つの世界の時間の流れに違いがある事は知っていたが、まさかそこまでになっているとは思わなかったので驚いたものだ。
俺とミミスケの封印によって、二つの世界の距離は大きく離れたのだという。全く別の時の流れを刻む事になったのも、ある意味当然の事だったのかもしれない。
朦朧とした意識の中目覚めた俺の手を誰かが握り締め、「おかえり」と言った。その直後、俺の意識は再び闇に飲まれた。
次に目を覚ました時はまた病院のベッドの上。はっきりしない頭のまま何人もの医者に代わる代わる体中を探られて、両親が駆けつけて。
父さんも母さんも泣いていたけれど、「ずっと信じていた」と言ってくれた。彼らはそれからの話を俺に聞かせてくれた。
学校の友達が、いなくなってしまった俺を待っていた事。実家にやってきて、俺の部屋には見舞いの品々や手紙で溢れかえっている事。
友達だけじゃない。あの事件に携わった沢山の人達が、何度も俺の家族をケアしに足を運んでくれたという。
マメに電話をかけ、たまに母親の茶飲み相手になってくれたジュリア。
こっちのほうが気の毒になるくらいに泣いていた深雪。
俺の活躍がいかに凄まじかったか、繰り返し語ったというシロウ。
そして異世界事件の後の事を説明し、政府からの補償を全部取りまとめてくれたメリーベル。
俺がいなくて寂しくなかった、不安ではなかったと言えば嘘になる。けれど、彼らはみんな信じていた。
織原礼司という人間が、いつかは帰ってくると。仲間達は護ってくれていたんだ。俺の大切な家族を……俺の帰るべき場所を。
この世界に戻ってきてからしばらくの間、俺は面会謝絶状態にあった。というのも、異世界からこちらの世界に戻ってきた俺の体には様々な不具合が生じていたのだ。
ミミスケは頑張って元に戻そうとしてくれたみたいだけど、俺の体はもう人間だった頃とは変わってしまった。
特に二つの世界を潜った際、元々完全に失われていた五感が戻るのに時間が必要だった。リハビリにも一ヶ月かかった。
桜の花が咲いて、それが枯れてしまっても、俺は病室のベッドの上から動けずに居た。
なんとか目がまともに見えるようになって、音も聞こえるようになって、感覚も戻ってきたけれど、まだ一人で出歩く事は難しいらしい。
そもそも、異世界そのものと同化した俺という存在を鳴海機関、ひいてはバテンカイトスは貴重な資料として扱いたがっていたので、もしかしたらこれからも俺に自由はないのかもしれない。
この世界の人間たちの意図がどうあれ、しかし俺はもう特別な力を持たないただの人間だ。元々の織原礼司とは違ったとしても。それでもただ一人の人間だった。
だから皆が俺を護ってくれたと聞いた。色々モメたらしいが、とりあえず実験体にはならずに済みそうだった。これもメリーベルやシロウのおかげらしいけれど。
二ヶ月間の間俺を支えてくれたベッドを一瞥し、着替えを終えて窓の向こうに目を向けた。まだ片目はよく見えない。だから瞑ったまま、立てかけられた杖に手を伸ばした。
ミミスケは俺に生きろと言った。俺の背中を押して、ハッピーエンドを作れと言った。
だから俺は自分の人生がこれからどんな風になっても、絶対に不幸に成ることは許されない。俺の代わりに俺の無茶を引き受けてくれた、もう一人の自分との約束の為に……。
「レイジ~! お迎えにあがりましたよ!」
顔を上げると、そこには元気よく手を振るオリヴィアの姿があった。隣にはアスラも一緒で、スーツ姿でびしりと決めて俺を待っていた。
「久しぶりだね。二人だけでここまで来たの?」
「はい! ご覧くださいレイジ! この魔法のカードがあれば、私は一人でどこまででも行くことが出来るのです!」
オリヴィアが颯爽と取り出したるは、交通系電子マネー。あの果物……じゃないか。野菜みたいな名前のあれだ。
「この世界に魔法はないと聞いていましたが、蓋を開けてみれば無数の魔法が渦巻いているではありませんか! このカードさえあればお金がなくても電車に乗れるしお菓子も買えます!」
「いや、厳密には現金をチャージしているのだから、お金はかかっているのだぞ。君はクレジットカードを持ってはいけないタイプだな」
そう言って笑ったアスラの顔は美咲とは違う。言わば髪を短く切ったアンヘルという感じだ。
一応彼女の個性である赤色は残したが、その結果彼女はちょっと人間離れしたスタイリッシュ美人になってしまったので、もうこの病院の廊下でも異常なまでに浮いている。
「どうやら二人共この世界に馴染んでるみたいだね」
Vサインを浮かべながら白い歯を見せ無邪気に笑うオリヴィア。そう、あの異世界からこちらへ逆召喚されたのは俺だけではなかった。
俺、そしてオリヴィアとアスラ。それからもう一人、こちらの世界へミミスケは送ってくれた。
勿論、それが永遠に続くかどうかはわからない。彼らにとってこちらの世界は異世界であり、いつかは元の世界に帰らねばならないかもしれない。それは多分、向こうで千年が過ぎ去って、こっちで三年が過ぎ去った頃に選択を迫られるだろう。
しかし今は二人共メリーベルの保護下にあり、この異世界観光を全身全霊で楽しんでいるようだった。オリヴィアは無邪気な子供に戻ったように笑うようになり、アスラは彼女のボディガードとして行動している。
「救世主はやはり本調子ではなさそうだな。どれ、肩を貸そう」
「救世主はよしてよ……俺はそんな大それたモンじゃないんだから」
「アスラ、レイジを支えるのは私の役目です。あなたは外でたくしいを捕まえてください。流石にこの調子じゃ、電車に乗るのは難しいですもんね?」
「だからメリーベルは最初から車で迎えに行けと……まあ良いか」
肩を竦めアスラは去っていく。オリヴィアは俺の腕を取り、そっと肩を貸して笑顔を作る。
「こうしてお会いできる日をずっとお待ちしておりました。あなたがこうして再び歩き出す日を共に歩める光栄、この身に余ります」
「仰々しいなあ。俺なんかただの一般人だって」
「この世界にとってはそうでも、私にとっては違います。あなたは自己犠牲を以ってザナドゥを……私を救おうとしてくれた英雄です」
小さく肩を揺らし、俺達はゆっくりと前に歩む。オリヴィアは唇を噛み締め、震える声で呟く。
「あなたを苦しめてしまった私が、こうしてあなたと共に歩む事が……どれだけ罪深いのか、理解しています。それでも私は……あなたがこの世界で生きている姿を、見てみたかった……」
彼女はきっと悩み苦しんだはずだ。自分が作ったあの楽園から、一時でも離れる事を。
だがそれをミミスケは望んだ。もう神様なんかいらねーよと言って、あいつはオリヴィアをこっちの世界に送り込んだ。
これまでの世界は俺に任せて、恩返しの為にレイジを護ってやれ。それがもう一人の生意気な俺、餅巾着が彼女に告げた願いだった。
「私は……私一人では、あなたをこの世界に戻すことも出来なくて……あなたがあなたではなくなってしまうのを、ただ、見ていることしか……」
「……いいんだよ。オリヴィアのせいじゃない。俺が自分で望んだ事じゃないか」
顔を上げた彼女は真剣な眼差しで俺を見つめる。涙で潤んだ瞳に映る俺は、やっぱり情けなく苦笑を浮かべていた。
「……大丈夫、きっと大丈夫だよ。だからそんな顔をしないで、オリヴィア。むしろごめんね。俺は千年もの間、君を傷つけてしまったから」
「私の傷なんて……そんなもの、些細な事です。レイジの傷に比べれば……レイジの絶望に比べれば、私なんか……」
「なんかなんて言うなよ。君は本当によく頑張ったんだから。本当にありがとう、オリヴィア。本当に、お疲れ様」
オリヴィアはもう、多分見た目的には俺より2,3歳は年上だ。けれど彼女の頭を撫でる事にためらいはなかった。
彼女がどんなにこれまで頑張ってきたのか、俺が一番よくわかってる。人が一生の内に味わう悲しみと苦しみの何倍を彼女が抱えてきたのか、俺はわかっている。
だから、もう許してあげよう。自分を裁き続ける彼女の想いを、解き放ってあげるんだ。それがミミスケが俺達をこちらの世界に送り込んだ意味だと思うから。
「簡単じゃないよな。自分を許すのって、難しい事だよな。きっと時間かかるよな。だけど、大丈夫だよ。君を一人になんかしない。俺が絶対、しないから」
「レイジ……うぅっ、レイジ……レイジーっ!」
飛びついてきたオリヴィアをポンコツな体は支えきれず、壁に背中をしたたかに打ち付けた。オリヴィアはわんわん泣きながら俺に縋り付き、これじゃあまるで俺が泣かしたみたい……って、まあ、俺が泣かしたんだよなあ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「謝る事ないんだって。大丈夫だから」
「ありがとうございます……ありがとう……レイジ……」
なんか左腕がいてー。今ので感覚ぶっ飛んだな。我ながらボロボロ過ぎて泣けてくるけど、右手がまだ動く。
俺は壁に背を預けたままオリヴィアを抱き寄せた。これで良かったんだよな、ミミスケ。こうする為に俺は……ここに居るんだよな?
「あ~、おほんおほん。お楽しみの所申し訳ないけれど、そろそろいいかしら?」
声に振り返ると、何故かそこにはアスラと一緒に仁王立ちするジュリアの姿があった。
「いいご身分ねぇ~、レイジ?」
「JJ……じゃなくて、ジュリア。うん、大きくなったね」
「大きくなるわよ、こちとら成長期だっつの。あんたよりもう年上よ? まったく、モタモタしてるから追い抜いちゃったわよ」
やれやれと言わんばかりに肩を竦め、ジュリアは腕を差し伸べる。その手を取れずに戸惑っていると、彼女は何も言わず動かない俺の左手を取った。
「ほらオリヴィア。気持ちはわかるけど、また今度にしなさい。病院の方に迷惑でしょ」
「ジュリア……はい、また今度改めて泣きつきます……」
「いや、そんな予約されても困るんだけど……」
二人に支えられ外に出た俺は待っていた黒塗りの高級外車に乗り込んだ。どうやらジュリアの私物らしい。
「あんたらがまさかの電車で楽しくお出かけしたと聞いて手配しといたのよ」
「すみません……私、電車大好きなんです……」
「そんな事は聞いとらんわ!」
相変わらずな調子の二人に思わず笑みが溢れる。ジュリアは足を組み、懐かしむように俺を見た。
「ほんと、三年ってあっという間ね。あんた高校中退して、これからどうするつもり?」
「そういうジュリアはどうしてるの? 今は高校生?」
「ええ。だけど、お父様やお母様の仕事を手伝いながら色々学んでるわ。高校を出たら同時に起業するつもり」
「……相変わらずスケールがどっかおかしい家だな」
「貿易商のジョイス家だけど、私は私の好きな仕事をするつもりよ。海外向けにオタクメディアを発信して、ジャパニメーションとマンガコミックで大儲けするわ!」
握り拳で瞳を輝かせるジュリアに遠い目になってしまう。なんかもう、こいつはこれからどうやっても力強く生きていきそうだ。
「なーにしょぼくれた顔してんのよ? もし就職先が見つからなかったら、あたしが雇ってあげてもいいわよ? あんただったら馬車馬のように働いてくれるだろうしね!」
「まあ、俺元々オタク見たいなもんだから向いてるかもしれないね。それにジュリアの下だったらきっと楽しそうだ」
自分から話を振っておいて、ジュリアの方が何故か顔を真っ赤にしていた。わけがわからず混乱していると、オリヴィアがくすくす笑い。
「レイジって、本当に裏表がないというか……正直ですよね。そんなに楽しそうに自分との未来を語られたら、女性はみんな照れちゃいますよ」
「え? だって、ジュリアと一緒なら楽しくないわけないし。それにジュリアは人に誤解されやすいからなあ。俺みたいな奴が一緒にいた方が商売はし易いと思うよ」
「そ、それもそうね。だったらあんたを秘書にでもしようかしら。その代わり、最低でも五ヶ国語は操ってもらうわよ?」
「あー。ごめん、俺英語の成績でさえ微妙だから」
「そんなの教えるわよ。つきっきりで……ね」
唇を尖らせながらそんな事を呟くジュリア。実はさり気なく安心した。これでとりあえず、就職先の心配はしなくても良さそうだ。
「だけどね礼司。あんたの人生なんだから、あんたの自由に生きなさい。これからはもう、誰の言う事を聞く必要もないんだから」
そう言った彼女の声はとても優しかった。けれどすぐにため息に変わり。
「あんたには言いたいことが山ほどあったけど……なんだかその間抜け面を見たら全部吹っ飛んじゃったわ。思い出した端からネチネチ後で突っ込んでやるから、覚悟してなさい。全部言い切るまで、逃したりしないんだからね」
そんな話をしながら車は二十分程走り、辿り着いたのはトリニティ・テックユニオンのビルだった。
トリティ社は相変わらず企業として活動しつつ、その裏でバテンカイトスと協力関係になったらしい。
あのザナドゥ事件で、黒須惣助という犯罪者の片棒を、そうとは知らなかったとは言え、一次的に担いでしまったのだ。その事が公表されれば、お取り潰しは免れられなかっただろう。
政府はその事実を隠匿する代わりに、異世界関係の事件の対策を行うバテンカイトス、ひいては鳴海機関の隠れ蓑としての役割を要求したらしい。
まあ、あんまりきれいな話じゃないけれど、そういう取引も必要なのだと思う。なにせ異世界だ。真っ当なやり方で対処できるようなレベルの話ではないのだから。
三年前、皆で集まって最後の戦いの相談をした会議室。俺が案内されたその部屋で皆は待っていた。
沢山のクラッカーの音が鳴り響いて、頭に紙くずが降り注ぐ。一番に近づいてきたシロウが肩を叩いた。
「よう、親友! 待ちかねたぜ!」
「シロウ……! 俺、体がまだ上手く動かないんだけど……」
「ははっ、わりわり! だけどよ、本当に皆お待ちかねだったんだぜ?」
そう言って道を譲ったシロウの向こう、誰が立っているのか最初はよくわからなかった。
だってその人はここにいるはずがない人だったから。呆然とする俺に歩み寄り、彼女は言った。
「久しぶりだね、礼司君」
「……マトイ」
記憶を奪われ、ザナドゥの思い出を失ったはずの彼女が、何故かとても懐かしそうに言うものだから、俺はどんな反応を返していいのかわからなくなる。
そんな俺の手を取ってマトイは微笑んだ。俺の行いを責めるでもなく、涙を流すでもなく、彼女は本当にほっとしたように、穏やかに笑ったのだ。
「黙っていてごめんなさい、レイジ。しかし、ミミスケは私達をこちらに逆召喚した時、あなたが奪った記憶も取り戻していたんですよ」
「あの野郎、余計な事を……」
「もちろん、全員ではありません。思い出す事が苦しみにつながる人も多いでしょう。ですが、彼女はそうではないはずです」
マトイは一見、別人じゃないかってくらいに綺麗になっていた。眼鏡外してお洒落にするとこんなに違うのか、という感じだ。女とは恐ろしい……。
「おかえりなさい、礼司君。……なんだか、沢山お話したいことがあったはずなのに……不思議だね。何も言葉が出てこないや」
「……俺も。マトイには……謝らなきゃ行けないことばかりなのに……」
彼女は首を横に振り、それからおもむろに俺の体を抱き寄せる。
「私がハイネに殺されてからずっと、私は礼司君の中からあなたを見ていたんだから。あなたの苦しみも選択も、全部ずっと傍で感じてた。だから、もういいんだよ」
「マトイ……」
「責められるわけがないよ。皆の為にがんばったあなたの事を……。だから――ね? これでもう、お互い悲しい顔をするのはおしまい」
相変わらずマトイは優しい。俺に対して甘すぎるくらいだ。感謝の言葉もなくて俯くと、背後から誰かに背中を叩かれた。
「れ~い~じ~く~ん……? 私にも色々と言うべきことがあるんじゃないかな~……?」
「美咲!? まさか君まで記憶を……!?」
「あったりまえですよ。ミミスケと私はマブダチだからね! それより礼司君、ひどいんじゃない? ずっと一緒にやってきた私から記憶を奪うなんて……」
「あら。ずっと礼司君を苦しめてきた……の間違いじゃないんですか?」
頬に手をあてにっこりと微笑むマトイ。美咲はびくりと背筋を震わせ。
「うぐぅ……それを言われると言い返す言葉がありません……」
「礼司君なりに、私達の事を思っての行動だったんですから。彼の間違いを追求するのは野暮ですよ。……それにしたって、私はちゃんと先に注意しておいた筈ですけど?」
「ハイ、スイマセン……」
美咲と並んでマトイの前でしょぼくれる。なんだろう。マトイ、本当に強くなったね……。
「姉さんも礼司さんも相変わらずですね……。千年が過ぎ去ったと聞いて驚いていましたが、どうやら余計な心配だったようです」
遅れて部屋に入ってきた深雪がそんな事を言って笑う。それから真っ直ぐに俺を見つめ。
「やっとこうしてゆっくりお話が出来ますね。礼司さん」
「深雪……は、もう年上か。今は大学生なんだっけ?」
「年上と言われても実感が湧きませんが。礼司さんはそんな事を言えば1017歳でしょう?」
それもそうだけど、それこそ実感がないんだよなあ。
千年向こうで過ごした記憶ってほどんとないし。途中から俺意識なかったし。ミミスケもそのへんの記憶は俺に残してくれなかったようだし。
「私を置き去りにした恨みは死ぬまで忘れませんが、それはそれとして、あなたが無事で良かった」
「深雪が元気そうで俺も安心したよ」
「……何が安心したですか。私からは記憶も奪ってくれなかったくせに……」
腕を組み、拗ねたように呟く深雪。あの時は……多分大丈夫だろうと思ったけれど。そりゃ、つらい思いもさせてるよな。
「まあそんな事はもうどうでも良いんです。それよりも礼司さん、今はどうなんですか?」
「どうっていうと?」
「あの時は色々な人の記憶と感情がごちゃまぜになっていたから答えられなかったようですが……今はどうですか?」
胸に手を当て、深雪は熱っぽい眼差しで訊ねる。それが何を意味しているのかは幾ら俺でもわかった。
そう、あれは千年前……。決戦の前に深雪にファミレスで告白を受けたのだ。あの時は全くそんな事考えている余裕はなかったけれど……。
正直に言うと今もまだなんだかよくわからない。自分の感情はとっくに希薄になってしまったから。
「深雪の事は大事だよ。家族みたいに思ってるし……」
「私はあなたの事を家族としてではなく、一人の男性として好きなのですが」
「そんなド直球!?」
「一応恥じらいはありますが……そんなものがどうでもよくなるくらいの憎しみと悲しみが私を変えたんですよ、礼司さん……」
なんだろう。深雪さんの背後にドス黒いものが見えるような。俺普通の人間に戻ったのになあ。
「深雪ちゃん、やっぱり礼司君の事が好きだったのか~。いや~、モテモテだね、礼司君っ!」
「そういう姉さんはどうなんですか? 礼司さんの事は好きではないと?」
「へえっ!? いや、好きと言えば好きなような、そうでないような……」
「じゃあ貰っても構いませんね?」
ジロリと目線を向ける深雪にたじろいだように美咲は視線を泳がせ、俺に助けを求めるように近づいくとさり気なく背後に隠れた。
「おい……あんた何やってんだ……」
「礼司君はその……どうなのかな? まだ私の事が好きだったら、それはなんていうか、いやー、私は関係ないんだけどね? でもほら、責任とかもあるし……」
「何の責任!?」
「君の人生めちゃくちゃにしちゃったわけですから、そういうほら、お嫁に貰う的な」
「なんで俺が嫁にもらわれんの!?」
「ふざけないでくださいね美咲さん。そんな消極的な好意の人に礼司君を渡すつもりはありませんよ?」
なんだろう。マトイさんの背後にもドス黒いものが見えるような。ていうか美咲へのヘイトがなんかすごいんだけど。
「姉さんはそうやっていつもいつも、自分には関係ありませんって顔で男を翻弄して……!」
「そ、そんなに悪女じゃありませんよ! だけどね深雪ちゃん、私はほら、その、ある意味諸悪の根源で間違いないわけで……!」
「そうですよ。この悲劇の根幹にはあなたの間違いがあったわけですからね。あ、礼司君、ついでみたいで申し訳ないんだけど、私礼司君の事大好きだし、この人達に任せるのは心配だから、私と付き合って下さい」
「マトイさん、なにその流れるような台詞」
「うん。だって礼司君は一人にしておけないし」
「あなたも消極的な好意じゃないですか! 私はこの人に散々振り回された挙句、最後までほったらかし食らってようやくの再会なんです! 最低でも告白の返事をきちんと貰うまでは微動だにさせませんよ!!」
三人の騒ぎからそれとなく距離を置くと、シロウが笑いながら肩を叩いてくる。
「さすがはヒーロー、モテモテだな。ちなみに男にもモテてるぞお前」
シロウの指差す先には遠藤さんと……何故かハイネの姿があった。ハイネは腕を組み壁に背を預け離れた場所に居たが、目が合うと同時にズカズカ近づいてくる。
「ハイネ……なんでここに?」
「俺の記憶もミミスケに戻されたんだよ。不本意だけどな……。ま、テメエがあのあとどうなったのかは興味もあった。どんな腑抜けヅラで今を過ごしているのか確かめたかっただけだ」
舌打ちしながらハイネは言う。俺も正直お前のお出迎えなんて望んじゃいないんだが……。
「せいぜい女共侍らせてニヤニヤしてろ。世界を救ったつもりで結局は救われやがったハンパな救世主にはお似合いだぜ」
「なんだ、もう帰るのか? 飯くらい一緒に食ってけばいいだろ」
「慣れ合うつもりはねーよ。テメエとはもうこれっきりだ。せいぜい現実に苦悩しやがれ」
本当に言いたいことだけ言ってハイネは去っていった。入れ替わり、遠藤さんが葵を連れて声をかけてくる。
「おかえり、礼司君。君には大きな借りを作ったままだ。お陰で見ての通り、葵とも仲良くやっているよ」
葵の頭を撫でる遠藤さん。葵も嫌がるどころか嬉しそうだ。二人は親子になったと聞いたけれど、どうやら上手くやっているようだ。
「本当は瑞樹も連れて来たかったんだけどね」
「瑞樹今妊娠してるからさ。お姉ちゃんになるんだ、あたし」
「……えっ!? 遠藤さんの子供ってこと!?」
「いやあ、お恥ずかしながら。そんな甲斐性僕にはないんだけどね……」
「子供が出来たら少しは責任感も芽生えるだろ……ったく」
溜息混じりに語る葵。多分遠藤さんは女性陣の尻に敷かれた生活を送っているに違いない。
「僕を信じてくれたのも、僕を救ってくれたのも君だった。色々と迷惑をかけ、大人の事情に巻き込んでしまった君には謝罪の言葉もない」
「何言ってるんですか。助けてもらったのは俺の方ですよ。葵もありがとな」
「……へへ。あのさ、あんたがこれからどうするのかあたしにはわかんないけどさ。人生、もうダメだって思っても、いつだってそこからやり直せるんだよ。それを教えてくれたのはあんただ。だから、あたしはあんたの門出を応援するよ」
葵は中学1年生になったんだったか。まったく、ませた子だ。礼を言うと彼女は無邪気に笑う。全てを憎んでいたあの頃の少女の面影はもうそこにはなかった。
「マスター」
その呼び声に驚いて振り返ると、そこにはトレイに飲み物を乗せたアンヘルの姿があった。
いや、別に驚くことではないのだが。アンヘル……天使型のボディは元々量産型だ。しかしマスターと、そう俺を呼ぶ天使は一人しかいない。しかしその天使はもう消えてしまったはず。
「いえ、亡霊ではありませんよ。わたくしは本物の、貴方様の記憶の中のわたくしと同一人物です」
「アンヘルなのか!? ど、どうやって!?」
「私の中に同化したアンヘルの魂をサルベージしたんです。それもミミスケがやったんですよ。ザナドゥの中からレイジの魂をサルベージしたように。ミミスケはずっと、魂を隔離する方法を研究していたんです」
テーブルに並べられていたドーナツを齧りながらオリヴィアが笑う。再びアンヘルに目を向けると、彼女はトレイを置きながら穏やかに微笑む。
「事の顛末はオリヴィアに聞きました。とても長い間、お疲れ様でした……マスター」
「アンヘル……。俺、結局君の忠告を守らず、皆に心配をかけちゃったよ」
「そうでしょうね。いえ、そうであるからこそ……というべきでしょうか。ともあれ、貴方様の過去を咎めるつもりはございません。わたくしもまた、己を犠牲にするという最悪の行動で幕を下ろした存在ですから」
自虐的な発言は以前と変わらぬアンヘルだ。けれど彼女は片目を瞑り、悪戯っぽく笑う。
「そうやって自分を蔑ろにしたものがどのような末路を辿るのか……最後まで見届けさせていただきますよ、マスター」
それはあんまりにも人間らしい表情で、俺は思わず笑ってしまう。
そうしている間に深雪、美咲、マトイ三人の議論の矛先が俺に向いたらしい。三人は慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
「そもそも、こういう事は礼司君の自由意志を尊重すべきですよね!」
「礼司さん、どうなんですか!?」
「そう言われても俺、正直女の子と付き合ったことないし……みんな三年経ってきれいになってるし……つーか俺1017年間童貞だし、そんな直ぐ選べないよ……」
「えっ? レイジは童貞じゃないですよ?」
口の周りをショートケーキの生クリームで汚しながらあっけらかんとオリヴィアが言うと、全員の視線がそこに集中する。
「え? いや、俺は誰とも関係を持ったことは……」
「レイジが向こうの世界で千年計画を始める時に最初に私に教えてくれたじゃないですか。人間を自然繁殖させる方法って」
思わず絶句する。そう、だったのだろうか。いやそうでなければ辻褄は合わないが。
なるほど。ザナドゥの世界で人間を繁殖させるには当然そういう事になる。それを向こうの世界の人間は知らないわけだから、誰かが教えたことになるが、教えられたのは俺だけしかいない。
あの長い闇の中で俺が失ってしまった記憶の中にそういう事もあったのかなかったのかと言われると正直自身がない。汗だくで思い悩んでいると、オリヴィアは俺の腕を取り。
「皆さんには残念なお知らせですが、レイジと私は千年間一つ屋根の下で生活しましたから、もはや夫婦同然の間柄なんですよ!」
その物言いはふざけて状況を楽しんでいるようにも思えた。だが俺はそんな彼女を責めようとも、振り払おうとも思わなかった。
こうやって冗談を言える今がどれだけ尊く、そして彼女が待ち望んだものだったのか。その想いを俺は知っているから。
「礼司君、オリヴィアちゃんとそういう関係だったの!?」
「礼司君、詳しく聞かせてくれる?」
「礼司さん……………………」
あ、深雪が一番やばい。
「ハイハイ、あんたらじゃれてないでそろそろちゃんと始めましょう! 礼司の退院祝いなんだから!」
手を叩きながらのJJの大きな声に騒動がにわかに収まり始める。的確な助け舟にほっと胸を撫で下ろすと、ちらりと舌を見せオリヴィアが笑った。
「それではそれでは! 我らが救世主、大英雄の織原礼司の帰還と退院を祝いまして……!」
「「「 乾杯! 」」」
シロウの合図で皆がグラスを掲げた。
なんだか全てが夢のようで、どんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
この幸せが続くのも、あと三年だけかもしれない。今の俺にはこれからの人生をどう生きればいいのかさえわからない。
それでも俺は生かされた。救おうとした者達に救われて。
救世主になる事も、英雄になる事も出来なかった中途半端な俺は。もう一人の自分というかけがえのない存在の巣立ちと犠牲により、この場所に帰ってきた。
今ならわかる。こうして皆と当たり前に過ごせる未来がどれだけ尊いものなのか。どれだけ得難いものなのか。
それをオリヴィアがどれだけ渇望したのか。この変化していく世界に、ザナドゥがどれだけ憧れたのか。
皆は当たり前みたいに俺を迎え入れて、あっちこっちから集まってきてもみくちゃにされて。数えきれないくらいの「おかえり」に囲まれて。
思わず泣けてくる。ああ、幸せだ。この人生がどんなに平凡であったとしても、どんな絶望に阻まれても構わない。
今生きているこの場所が例え平等ではなくても。例え誰かの思惑通りでも。作られた平和でも、偽りの幸福でも、そんなものはどうでもいいんだ。
自分が生きていて。そして皆が待ってくれている場所こそ、俺にとっての楽園なのだから――。
――とても遠いどこかの世界で、それは自らを愛する術を見出した。
沢山の夢見る人々を支え続ける為、その者は遠い遠い場所へ、希望を送り届け続ける。
「またいつかな、レイジ」
果てしなく広がる未来を象徴するような青空の下、少年は草原に寝そべり風を感じる。
今は言葉も思いも届かない、とても遠くに居る仲間達。
異世界の勇者達が胸に刻んだ、新たな神話を思い返しながら。
無限に巡る星の揺り籠を揺らし、世界はまた、新たな可能性の航路へと漕ぎ出した。




