織原礼司(2)
ザナドゥの化身とも言うべき黒い怪物は再び異世界への道を開こうと、天の扉に両手を伸ばしている。
イオの援護で遠藤を振りきったレイジは空中に舞い上がった岩場から岩場へと飛び移りながら両手に精霊器を取り出し、立ち塞がる魔物を切り開いていく。
「こんなもんじゃ俺の足止めにもならない……わかってるんだろ、世界!」
右手に握る鎌を空中で回転しながら振るい、斬撃の輪を空中に描く。接触する魔物は次々に消失し、袖の内側から放出された無数の影の茨が世界の分身を貫く。
『だがそれは連中にとっても同じ事だ。いくら雑魚を振り払ってもあいつを止めるには至らない』
ミミスケの言う通り。世界という膨大すぎる存在を前に、物理的な攻撃は大して意味を持たない。文字通りの時間稼ぎがいいところだ。
鎌を白い剣に変えて、レイジは跳んだ。浮遊石の頂上、ザナドゥの頭部付近に降り立つと、巨人はゆっくりとレイジへ首をひねる。
ここは天空よりも高く、世界の最果てに最も近い場所。冷たい風に髪を靡かせながら少年は剣を軽く振るい、構える。
「勿論、わかってるさ。こいつをいくら攻撃した所で無駄だって事もね」
握り締めた剣は、かつて大切な人が自分に託してくれた力。少年はその美しい刃を見つめ、ふと笑みを浮かべる。
「ずっと願って来たんだ。たった一つ、救いだけを求めて……。自分を変えたかった。自分以外の誰かになりたかった。運命を否定したかった。だからなんとなくわかる。お前もそうなんだろう?」
少年は足元にその剣を突き立て、怪物を見やる。異世界へ腕を伸ばすことをやめた怪物は、その巨大で赤い二つの眼で少年と見つめ合う。
「俺に出来る事なんて大した事じゃない。それは最初からわかってる。俺はきっと救世主なんかじゃない。俺に出来る事は最初からずっと変わらない」
差し伸べる両腕。まるでその巨大な闇を受け入れるように、少年は笑みを浮かべる。
「俺に出来る事。それは……皆の願いの、“器”になる事だけだ」
その選択をミミスケは否定しない。どちらにせよ二人の願いは同じこと。
何かを願うのならば、必ず犠牲が必要になる。求めるから人は失い、願い祈り続けるから人は狂っていく。
果てなく折り重ねられた祈りの果てがこれだというのなら、是非もない。少年は運命に逆らう為にこそ、運命に従う事を決めた。
『付き合ってやるよ。最後の最後までな』
怪物は巨大な口を開き、すさまじい速度で接近する。
全てが一瞬の出来事だった。レイジは自らを飲み込もうとする暗闇から目を逸らさず、あらゆる物が視界から、そして五感から消え去るその瞬間まで真っ直ぐにその前を見つめていた。
人間、高校生にもなると大概の奴が弁えるようになる。
それは例えばそう。自分は正義のヒーローにはなれないって事や、サンタクロースは空飛ぶソリでやってくる白髭の外人ではなくコスプレしたパパだって事や……。
この世の中が実はきらきらしたものではなくて、それなりに薄汚れていて、でも別に生きていけないほどじゃなくて。そういう現実の……当たり前というか。常識みたいな物。
そう、弁える。自分の人生が決して特別な物ではなく、この世界に有り触れている石ころの一つに過ぎないということ。思い描いていた夢も理想も実はとても遠い所にあって、天才でもなんでもない凡人に過ぎない自分は、よっぽど努力しない限り決して届かないんだって事。
生きていく為に必要な、でも当たり前の“分”。それを俺も例外なく弁えていた。
中学生くらいまではまだよかった。接する世界は限られていたし、大人達の庇護だって半端じゃなかった。まるで自分の力で生きてますって、自分だけでやっていけますって、そんな馬鹿げた驕りみたいな物さえあった。
でも義務教育という一つの過程が終わりを迎え、俺達はより広い世界に放り投げだされた。だからといってこの世界は何か特別変化したわけではない。ただ、少しだけ前より大人が自分達を守ってくれなくなった……それだけの事なんだ。
思い通りにならない事が増えて、嫌でも現実を知って。自分の弱さや甘さを理解させられた。なんの才能もない、平々凡々を絵に描いたような人生……それが茫漠と眼前に広がっていて、その広大な時間とどう付き合っていけばいいのか、時々気が遠くなる。
「……なんてね。これが高二病ってやつか」
制服姿で電車に揺られている夜、考えてもどうにもならない事を思い悩んだりする。
それも仕方の無い事だ。何せ俺の通学時間は一時間近くある。電車に揺られている時間だけでもばっちり三十分は取られる。行きも帰りも三十分、しっかり毎日この細長い連結された箱の中に拘束されているというわけだ。
これがどこか名門の私立高校に通うためにわざわざいそいそ電車に乗って遠くまで行っているとかならまだいい。でも生憎ながら俺は違う。
俺が通っている高校は誰がどう考えたって低レベルだ。じゃあなんで通っているのかと言われれば、一応そこが自分の家から計算した場合、最寄の高校だったからだ。
要するに、俺の家の周りには高校らしい高校がない。もっと噛み砕いて言えば、俺の住んでいる町は恐ろしく田舎だ、という事である。
一応自分の名誉の為に言っておくと、別に俺の成績はそんなに悪くはなかった。実際今の高校ではテストの度に友達に頼られるくらいではある。尤も、低ランクの高校で成績上位だからといって、誰にも自慢なんかできやしないのだが……。
肩にかけた鞄が電車の揺れで少しずつズレ落ちていく。夜を映し出す筈の窓は照り返しでまるで鏡のように俺の姿を映している。好きじゃない制服を着て、好きじゃない電車に乗って、吊革にだらしなくぶら下がった冴えない俺の顔を。
いくら髪型を弄ってみても、アクセサリをつけてみても、最新のスマートフォンを携帯してみても、自分の本質が変わらない事は誰より一番理解している。
俺にとってこの電車に揺られる三十分間は、そんな嫌いな自分と嫌でも向き合わされる苦痛の時間だった。直前まで高校の友達を遊んでいたりすると尚更だ。
さっきまであんなに明るく騒いでいたのに、ふと我に返ってみればこれだ。自分の生まれや環境を呪った時期もあったが、文句を言えるほど俺は上出来な人間じゃなかった。
頑張れない理由を周りの所為にして、結局俺は何も頑張ってはこなかった。そんな奴が都会に生まれていようが、金持ちの家に生まれていようが、結果は同じだっただろう。
「…………ま、別にいいんだけどね」
そう、俺は弁えている。
このまま適当な大学に行って、適当に就職して、そんなに金を稼げるわけじゃなくて、でもまあそこそこくらいの嫁を貰って、そんな感じの人生がベターでベストだって。
今は就職難だっていうから、面倒だけど頑張らないと就職は難しいかもしれない。でもまあ、多分なんとかなるだろうと思う。この世の中は特別な事はあまり起こらないのだ。それは幸せな事にも、そして不幸せな事にも当て嵌まる。
これまで俺が経験した不幸なんて、精々可愛がっていたハムスターが死んでしまった事だとか、ゲームのセーブデータが消えてしまったとか、そんな程度だ。
それ以外は今の所ある意味順風満帆な人生を送っていると言えるだろう。
だから、これからもどうせなんだかんだでどうにかなる。そんな無根拠な自信があった。
ごちゃごちゃと纏まらない思考の相手をしていると、アナウンスが降りるべき駅の名前を告げた。軽く頭を振り、機械的に停車する電車から外へと踏み出す。
走り去っていく電車。駅の周りには何も無い。暗闇の中ホームを見渡すと、そこに立っているのは俺一人だけだった。
「これがお前の世界なんだな」
――いや、違う。声に振り返れば、そこには一人の少年が立っていた。
見覚えのある顔で、見覚えのある声で、彼は制服のポケットに両手を突っ込んだまま歩いてくる。
「俺は……さ。きっと、特別な人生に憧れた、ごくごく普通の高校生だったんだ。何にも取り柄なんかない。将来の夢もない。ただ捻くれて嫉妬して、世の中を憎んでたガキだった」
このホームに電車は入ってこない。俺はホームの縁に歩み寄り、腰を降ろす。
通い慣れた通学路、俺の日常を象徴する場所。電車を待って毎朝ここに立っていた。繰り返し繰り返し、何度も何度も……。
それが当たり前だった。分相応な人生だった。特別ではなかったさ。だけど普通なりの幸せがあった。
特別になるって事は、それだけで大変なんだって知った。きつくて、つらくて、しんどくて。普通に生きていれば味わう必要のない悲しみや痛みがずらりと勢揃いだ。
「後悔してるのか? これまでの事」
背後からの自分の声に首を横に振る。確かにきつかった。もう辞めたいって正直何度も思った。
だけど、どうしてもそれだけは嫌だったんだ。逃げちゃいけないと思った。逃げたくないって、そう強く思ったんだ。
「痛みを知らなければ、俺はずっと傲慢なガキだった。不貞腐れて、世の中を恨んで……自分の人生なのに、その責任を誰かのせいにし続けた。そんな人生を生きるよりは、きっと有意義だったんだ」
「だがそのせいでお前はその当たり前に続いたはずの人生を棒に振るんだぜ。それでも構わないってのか?」
俺にだって友達がいる。家族がいる。
みんないい奴らだった。そりゃ、ごくごく普通の奴らさ。特別面白いわけでも、人間ができてるわけでもない。
だけどいい奴らだった。今なら本当にそう思える。人間は小さい生き物だから、ほの暗い感情に支配されて生きる事もある。だけどそれだって悪いものじゃない。
誰かを妬む事も、羨む事も、自分を卑下する事も……別にそれはそれでよかったんだ。目の前の事だけを見て、苦しみも悲しみも少しずつ乗り越えていく事は、きっと素敵なんだ。
心配性が過ぎたけど、きっと世間から見れば良い母親だった。厳格で口下手ではあったけれど、毎日しっかり働いた父はどこに出しても恥ずかしくない。
俺という存在は、俺という生命は、思いあがりも甚だしいけれど、たくさんの人にとって日常の一部だ。それがこんな事になったのだから、本当に申し訳なく思う。
何度謝罪してもきっと許される事ではない。だが俺は知っている。その傷も痛みも、人生の欠落さえも、人は長い時間の中できっと忘れ、補っていくことが出来るのだと。
「でも……レイジ君は忘れる事が出来たの? ミサキさんを失った痛みを……その心の欠落を」
振り返るとそこには何故かマトイが立っていた。俺は腰掛けていた岩場から立ち上がる。さっきまで眺めていたダリア河からは、今も水のせせらぎが聞こえてくる。
「人は痛みを埋めることが出来る。欠落を忘れることが出来る。それはきっとレイジ君の言う通りだよ。でも、だったらどうして……君はその傷を忘れずに保ち続けたの?」
「保ち続けた……?」
「そう。君はまるで痛みを消したくないようだった。自分自身の傷を、治らないようにって必死で抉るみたいに。人はみんな時の流れの中で新しい人生を見出していくのに。君は一人だけ、ずっと過去にとどまろうとし続けたじゃない」
俺の周囲をゆっくりと歩きながら、マトイは優しく語りかける。耳に心地よく響く声にまどろむように、俺の意識は薄れていく。
「私じゃ……ダメだったの? 私をミサキさんの代わりにしてもよかったんだよ?」
「誰かを……誰かの代わりにするなんて……そんな事……」
「それはそんなにいけないこと? 罪深い事かな? 痛い事を、苦しい事を……切ない事を忘れたいと願うのは、人の本能じゃない」
背後から腕を回され、柔らかく温かい感触が背中を包む。耳元で囁かれるマトイの声はどこまでも甘く、全てを投げ出し身を任せたいという衝動に駆られた。
「君はあまりにも優しすぎたんだよ。逃げても良かった。目をそらしても良かった。なのに何度も何度も繰り返し、痛みを重ね続けた……それは本当にミサキさんの為?」
「お、俺は……」
「違ったのではありませんか? 貴方様は、自らの胸に繰り返し刻まれる痛みを楽しんでいた……まるで他人事のように」
咄嗟に体を離したのは、それがマトイの声ではなくなっていたからだ。背後に立つのはアンヘルで、俺は結晶に覆われた大地を踏みしめ後ずさる。
まどろみの塔は太陽の光を遮り、アンヘルはその影の向こう側に揺らめく幻影のように立っていた。少し距離を挟み、じっと俺を見つめている。
「マスターは痛みを欲していた。自らを成長させる為に。自らを奮い立たせ、進化する為に。可能性を打ち破り、限界を超える為に」
「俺が……?」
「貴方はあらゆる痛みを起爆剤として自らを変化させ、それを愉しんでいた。気づいていたのでしょう? 貴方にとってこの世界も、世界で起こる全ての悲劇も、自らを進化させるために必要なものだったのだと」
「違う! 俺はこんな世界望んじゃいなかった!」
「貴方は成長の為に欲していたのです。“私”が自らを変える為に痛みの記憶を求めていたように。貴方は自らに降り注ぐ艱難辛苦を、何よりも愛していた。そう、ミサキ様よりも……」
「苦しみなんか望んじゃいなかった! 俺は仕方がなく……!」
「ならどうして……私を助けてくれなかったの?」
振り返るとそこにはマトイの姿があった。上半身と下半身を両断され、ダリア平原を這って俺に近づいてくる。
「私を守ってくれればよかったのに。レイジ君になら出来たはずなのに。君は私を見殺しにした」
「違う!」
「貴方は自ら悲劇を望んでいた。だからこそ、いつもその力をセーブしていた。自らの声に……精霊の声に耳を傾けないように」
アンヘルの姿はゆっくりと消え始めていた。俺は慌てて駆け寄ってつかもうとするけれど、その姿は幻のように消えてしまう。
「レイジ様は……この世界をどうしたかったのですか?」
体を無数の槍で貫かれたオリヴィアが、大地に突き刺さった槍達に磔にされるみたいに、でたらめになった首を持ち上げて俺に問う。
「救おうとした! 救おうとしたんだ! なのにどいつもこいつも思い通りに動かないから! 俺は……俺は一生懸命やったのにっ!!」
「それも、あなたが望んだ事じゃない」
ミユキが遠巻きに俺を見ている。それだけがわかった。声だけでわかる。彼女が今どんな顔をしているのか。
だけど俺には確かめる勇気がない。彼女が俺に向ける、冷たくて優しくて、憐れむような目を見てしまったら……ここに立っていられない気がした。
「あなたは自分以外のものを遠ざけた。まるで痛みを独り占めするみたいに」
「なんでそんな事する必要あるんだよ……! なんでそんな事望むわけあるんだよッ!」
「それ以外に方法を知らなかった。あなたは……幼くて不器用だったから」
――この世界が、あまねく膨大な生命を犠牲にして、その上で進化を望んだのは、きっと“それ”の純粋な願いではなかった。
進化したい。前に進みたい。変わりたい。そうした願いの為には、どうしても痛みが必要だった。数えきれないその痛みは、未来へ投げかけた祈りの形だったのだ。
「あなたは“私”とそっくり。あなたは自分以外の物を犠牲にしなければ、自分を実感できない」
歯ぎしりし、目を向けた事を後悔した。滝のように降り注ぐ雨の中、彼女がそこに立っていたから。
体に大きな穴をいくつも空けて、そこからたくさんの血を流しながら彼女は立っていた。うつむき加減の顔に前髪が張り付き、目元を確認できない。
でも俺にはわかる。彼女だ。胃の中の物を全てぶちまけたくなった。膝ががくがく笑っている。立っていられなくなり膝をつくと、下げた視界の端に彼女の爪先が見えた。
「君は自分以外の物を傷つけて、犠牲にして、そうやって自分自身の生を実感したかったんだよね。自分の手はきれいなままで、特別な罪だけを背負いたかったんだよね」
死ぬ程焦がれた彼女の声なのに、今は遮りたかった。だけど体が言うことを聞かなくて、耳をふさぐ事すらままならない。
「君は恋なんてしていなかった。私を愛してなんかいなかった。なぜなら君は、自分にとって都合のいいヒロインを私に重ねていただけだから。君は私という存在を失う事で、正義のヒーローになりたかっただけだから」
「違う……」
「違うのなら、どうしてかな? どうして……私を助けてくれなかったのかな?」
顔を上げると、目の前に血まみれの彼女の顔があった。その体を俺から遠ざけるみたいに、竜の牙が彼女を横から挟み込む。
大量の血が顔にかかっては雨で流れていく。救いを求める彼女の手を取ろうと腕を伸ばしても、それは何故か届かずに空を掴む。
違う。空を掴んだのは俺のせいだ。だって俺はこの場所から一歩たりとも前には進みたくないって、両足を必死に地べたにくっつけ続けていたのだから――。
「遠藤――――ッ!!」
空中から降り注ぐミサイルで姿を隠した遠藤をあぶり出す。精霊器の調子はこれまでで最高だ。
偽りの神、ヨトなんかじゃない。今自分に力を貸してくれているのは、心から信頼できる仲間である救世主。
手をつなぎ、力を託された事の意味を思えば胸が震える。そう、ここに今いるのは、席を譲ってくれた仲間達の存在があってこそだ。
「遠藤! あんたは瑞樹に頼まれてあたしを助けに来たんだろ!? 仲間を裏切って……裏切ったと思わせてまで、願いを叶えようとしたんだろ!?」
レイジは言っていた。遠藤は裏切ってなんかいなかったと。彼は最初から最後まで一貫して、ただ救いを求めていただけだと。
「あんたをそんなにしちまったのはあたしだ。だから……あんたはあたりがこの手で、瑞樹のところに帰す!」
イオの精霊器はその全身をすっぽり包み込む機械の鎧だ。それは少女が黒須と共に遊んだロボットゲームを原型としている。
その体を包み込んでいたのは、ゲームという虚構が自分を現実から切り離し、守ってくれると思っていたから。黒須が自分を守ってくれる。どこかそう信じていたからだ。
全ての大人を、世の中を信じないイオにとって、黒須だけが信じられる大人だった。だからこそ彼の作る理想郷であるこの世界に来たし、バウンサーの役割を背負ったのだ。
「黒須には感謝してる。あたしにはどうしても黒須が邪悪な存在には思えない。あいつは純粋だったし……子供のあたしにも嘘をつかなかったから」
それはいい。黒須が例え悪と呼ばれても。それとは別に、今の自分には大切なモノがある。
黒須は嘗て言った。お前は自分の行く先を自分で決められないのか? と。その時のイオは、結局黒須についていく以外の人生を選択することが出来なかった。
黒須はこの世界でイオに見せ、伝えたのだ。人の心の闇と、それに立ち向かおうとする力。そして嘘や偽りを超えた、誰かを信じる事を。
「――あんたの人生はあんたにしか選べない。あんたの失敗はあんたにしか取り返せない。誰のせいにも出来ない。だから心残りのないようにしなさい」
少しだけ年上のJJが出発前に教えてくれた事。“心願”という、本当の精霊器の作り方を。
「自分の弱さも、自分の迷いも、全部受け入れなさい。願いを作るのはいつでも不完全な自分。だから、弱さも醜さも、あんたの翼にしてしまえばいい」
少女は優しく笑って、イオの手を握り締めてくれた。
この小さな手を握ってくれた人達がいた。瑞樹が、JJが、そしてレイジが。
誰かから願いや祈りを託される事は軽くない。確かに面倒だし厄介だ。けれど信頼は心地よい。期待に応える事は――何よりも胸を昂ぶらせる。
「あたしの力は、作り出す力……! 自分を拒絶した世界を拒絶する為の力! だけどあたしはもう、否定するだけじゃない!!」
弱い心を守っていた鎧をパージして、少女はその体に必要最低限の装甲を纏い、背中に機械の翼を広げる。
放出された光が白く降り注ぐ。幼い少女が抱く心は無限大。どんな可能性だって手繰り寄せられる。それを教えてくれた人達がいたから。
光の粒は降り注ぎ、姿を隠した無数の蜘蛛の虚像を実体に引き寄せる。歪んだ光から弾き出されたのはクリア・フォーカス本体も同じことだ。
「例え現実がクソッタレでも! もう、どうしようもなかったとしても! あたしはもう逃げない! その全部ひっくるめて、この手でぶっ潰してやる!」
左右の腕を振るい、少女は自らの翼を分解。翼の破片はそれぞれが光を纏って浮遊し、空中で整列すると纏った光を一斉に降り注がせた。
光の雨が小型の蜘蛛を破壊する。少女は空中で再び翼を足元に集めると、大きなボードにして空中を滑空する。
「苦しい時も、辛い時も、レイジは逃げずに立ち向かった! あいつに出来たなら……あたしにだってぇええええ――ッ!!」
迎撃するクリア・フォーカスの結晶の弾丸を空中で光の波に乗りかわしていく。無数の波紋と軌跡を残しながら少女は空中で剣のボードを蹴り飛ばし、クリア・フォーカスの体に突き刺す。
そのまま僅かに遅れて蹴りを繰り出したのは、クリア・フォーカスに突き刺さったボードの先端。結晶の体には縦に亀裂が走り、少女はくるりと空中で回転しながら大地に足を着く。
「幾らバウンサーだと言ったってぇ! コアさえぶっ壊せば!!」
両腕に機械の装甲を作り出す。それはあのシロウを模した力。光を帯びた拳をクリア・フォーカスの亀裂へ突き入れる。
闇を纏った冷たい体が頬に触れても構わない。自分を犠牲にして誰かを幸せにしようとしたこの馬鹿野郎に、一言言ってやらねば気が済まない。
「うおおおおおお……りゃあああっ!!」
赤い結晶を掴み、力任せに引き抜く。この腕の装甲は本来イオの全身を覆うはずの力を一点に特化させたもの。
もう片方の拳をつき入れ、二つ目のコアを引き抜く。少女は背後に跳ぶと、その両手に握り締めた赤い結晶を握り潰した。
魔物の中核足るコアを失い、結晶蜘蛛はうめき声を上げながら悶え、その体を崩していく。やがて残されたのは気を失った遠藤の姿だった。
「遠藤!」
慌てて駆け寄りその体を抱き起こす。男はゆっくりと瞼を開き、驚いた様子でイオを見つめ、笑う。
「……やあ。君か」
「君かじゃねぇだろバカ! 何やってんだよ、ホントにバカだな!! 瑞樹が……皆がどれだけ心配したと……!!」
その時だ。遠藤の左腕が結晶化し、徐々に黒い影となって崩れ始めた。
想像していなかったわけではない。完全に魔物と化していしまった勇者がコアを砕かれた時どうなってしまうのか。
あのハイネがそうであったように、この世界に肉体ごと転移されバウンサーとして魔物……即ち世界の意思に染まった遠藤の体はもう長くはなかった。
「なんでだよ……。どうして……助けようとしたのに……っ」
「君は確かに僕を救ってくれた。礼を言うよ、イオ」
「救えてねぇだろ! 死にかけてんじゃねえかっ!!」
「そうだとしても……君がもう一度こうして僕の前に現れてくれた事を嬉しく思う。瑞樹には……会えたのだろう?」
ぐっと唇を噛み締め頷く。その両目からは止めようとしても止められない涙が溢れ零れ落ちた。
仮に、万が一。これまでの魂を失ってしまった勇者達を復活させたとしても、肉体を持たない者はどうにもならない。
この世界で肉体を作り上げてもそれはこの世界の物。あの世界には戻れなくなる。だから、ここで体を失う事には死に等しい意味があった。
「連れて帰るって約束したんだ……必ず、必ず瑞樹のところにあんたを……なのに……」
「これでいいんだ。君がそうやって涙を流してくれるのなら、僕がここで死ぬだけの価値はあった」
「大人の勝手な都合をあたしに押し付けるな!」
絞りだすような声で叫んだその直後。巨大なザナドゥの化身が雄叫びを上げた。
先ほどまでレイジが対峙していた筈。それが今はふわりとその巨大な体を舞い上がらせ、無数の腕を翼のように広げ、異世界へ続く境界線へ向かいつつあった。
「レイジ……!? レイジはどうしたんだ!?」
「どうやら少し遅かったようだね」
声の方に目を向けると、そこにはミユキやオリヴィア、そして黒須とケイオスの姿があった。
四人は倒れている遠藤を一瞥し、巨大な世界の意思の象徴へ目を向けた。眩く輝く黒い光が怨嗟の渦を巻き、遠く離れたこの場所まで肌を刺すような悪寒を与えてくる。
「イオ、レイジさんは…………遠藤?」
「やあ、ミユキ君。どうやらレイジ君は……あれに飲まれてしまったようだね」
半身が既に崩れ落ちた遠藤に駆け寄り顔を覗きこむミユキ。遠藤は力なく笑みを作り、それから怪物を見やる。
「体が魔物になったせいか、なんとなく感じる。今彼は、“僕達”の中にいる」
「まともに攻撃してもあれを消し去ることはまず不可能だからね。レイジ君は賭けに出たんじゃないかな?」
「賭け……?」
首をかしげるオリヴィアに黒須は頷く。
「彼は今や最も世界に近い存在だ。彼は最早世界の意思と、この世界そのもののリソースを奪い合う立場にある。彼は世界の中心に自ら取り込まれる事で、あれを制御しようとしたんじゃないかな?」
「そんな……無茶です! あれは何億と繰り返されてきたこの世界の嘆きそのもの! まともな人間が飲み込まれれば、正気を保つことなんて……!」
この世界に残され、世界と対話したオリヴィアだからこそわかる。あれは巨大な絶望そのものだ。
人が生まれ落ちてから死ぬまでに感じる痛みの何億何兆倍もの闇が果てしなく渦巻く無限地獄。それに僅かに触れただけのオリヴィアの心を折って余りあるほどに、あの絶望は濃い。
ミユキは迷う事なく立ち上がり、そして駆け出した。その背中をオリヴィアは呼び止める。
「待って! あなたが行ってどうなるの、ミユキ!」
「ここでじっとしているよりは何倍もマシです。私には……私には、彼を見殺しにすることなんて出来ない!!」
「待つんだ……ミユキ。僕に、考えがある……」
それは遠藤の声だった。振り返った二人に遠藤はイオの力を借りながら体を起こすと、その右手に光を集める。
「もしかしたら、この力なら……あるいは闇を貫いて、彼に届くかもしれない……」
男が取り出したもの、それは結晶で出来た拳銃の精霊器。
純粋な形を取り戻した、クリア・フォーカスであった。




