プロローグ(1)
――最初に感じたのは、風だった。
暗闇の中を吹き抜ける風。指先を、そして顔を撫でていく。
次に感じたのは太陽の光だった。暖かさが顔を照らし、目前にあるのが暗闇ではなく、瞼で閉ざされているだけの青空だったのだと気付く。
身体全体に暖かさを感じ、自分がどこかに寝そべっている事を知る。その時再び風が吹き、耳元で、そして指先で何かが揺れた。
草花のにおい。それでやっと自分が草原に寝そべっているという事実を知る。
まるで止まっていた心臓が動き出したかのように感覚は鼓動を始めた。自らが置かれている状況を頭が理解しただけで、五感の全てが急速に現実味を帯びていく。
「――は、あ」
ゆっくりと息を吐き出してみる。さっきまでも呼吸はしていた筈なのに、まるで今初めて息を吐き出したかのようだった。
瞼を開く。ゆっくりと慎重に、瞳を光に慣らすように。
太陽の眩しさに迎えられ、直ぐに瞼を閉じた。もっとゆっくりでなければ辛そうだ。深呼吸を繰り返しながら、光に許しを請うようにそっと瞼を解き放つ。
眼前に広がる無限の青。そして太陽を申し訳程度に隠すように、空に雲が浮かんでいる。薄く、細長く、時折太陽を遮りこの大地に影を落としているのがわかる。
「身体……動かないな」
五体の全てがまるで自分の物ではないかのようだった。間違いなくここにあるのは俺の身体なのに、どうにもまだ感覚が行き渡っていないような、そんな鈍さがある。
「そういや、マニュアルに……そんな事、書いてあった……かも」
別段焦る理由も無い。俺は“この世界”に馴染むまで自分の身体を休める事にした。
今、どうやら俺は草原の上に手足を投げ出すようにして仰向けに倒れているらしい。多少傾斜のある草原だから、どちらかというと丘……だろうか。
首を動かし周囲に目を向ける。ゆっくりとなら、そう難しくは無い。
自分の周りに茂っているのは、少し足の高い緑色の草だ。ところどころ黄色やら白やらの花が混じっているのがわかる。が、何の草なのか、花なのかはさっぱりわからない。
当然である。俺はこんな場所に来た覚えは無い。正真正銘、ここは未知の世界なのだから……。
指先から順番に身体を動かす。暫く空を眺めていたお陰で身体も慣れて来たと見える。
ゆっくりと上体を起こす。それから肩を、そして腕を回してみる。手を握り締め、開いて、そんな事を何度か繰り返し。俺は意を決し、いよいよ大地を踏みしめた。
「うわっと」
身体がよろける。足にも上手く力が入らないみたいだ。でも、転ぶほどじゃない。
ゆっくり、ゆっくり……そう自分に言い聞かせながら姿勢を正す。太陽の光を片手で遮りながら一望する世界……それは、とても幻想的な風景だった。
この丘には、草原には、人間の建造物なんて一つとして存在していなかった。ビルも家も、この景色を遮るような野暮な物はどこにも見当たらない。
「すごいな……。本当に……“現実”じゃないのか」
それでも、この場所で“俺”が感じている物は幻なんかじゃない。
風も、光も、音もにおいも、全て確かに感じられる。五感の全てがこの世界は真実だと叫んでいる。それこそ、疑う余地なんかないくらいに。
「っと……なんとか歩けるかな? それにしても……ここからどうすりゃいいんだ?」
何度かその場で足踏みし身体の調子を確かめる。目覚めたばかりに比べれば、状況は大分ましになったらしい。少しふらつくものの、移動も問題はなさそうだ。
ところが問題が二つ。一つは俺はこの土地の事を何も知らないって事。もう一つはこの土地に来て何をすればいいのかさえ知らないって事だ。
「マニュアル!」
なんとなく片手を翳して言ってみる。何も起こらない。
「これからどこへ行けばいいんでしょうか?」
誰にとでもなく問いかけてみる。しかしやはり、誰も答えない。
「……えぇー? まさかとは思うけど、初手投げっぱなしですか?」
まあ……確かにそういうのもたまにはあるよ。でもさ、普通はなんかこう、もっと“らしい”インターフェースとかがあって、それを見れば大体わかるようになってるものだと思うんだけど……それらしい物も一切なしとか、本当にどうしたらいいんですか。
「とりあえず……人が居そうな場所を探すか。うん、基本だよな、基本」
とはいえこの草原はずーっと先まで誰もいそうにない。仕方が無いので振り返ってみると、そこには鬱蒼と生い茂る森が。そしてその中に、やけに巨大な建造物があるのが見えた。
「建造物なんて無いと言ったな……あれは正面のみだった」
誰に言っているのかわからない独り言を零しつつ、重たい身体を反転させる。
多分、独り言が多くなってるのは……なんだかんだで不安だからなんだろうなーと、そんな事を考えつつ俺は森の中にある謎の建造物を目指し歩き始めるのであった。
――なぜ、俺がこんな場所を行くあてもなく彷徨う事になったのか。
その顛末を語る為には、四時間ほど時間を遡る必要がある――。
プロローグ
人間、高校生にもなると大概の奴が弁えるようになる。
それは例えばそう。自分は正義のヒーローにはなれないって事や、サンタクロースは空飛ぶソリでやってくる白髭の外人ではなくコスプレしたパパだって事や……。
この世の中が実はきらきらしたものではなくて、それなりに薄汚れていて、でも別に生きていけないほどじゃなくて。そういう現実の……当たり前というか。常識みたいな物。
そう、弁える。自分の人生が決して特別な物ではなく、この世界に有り触れている石ころの一つに過ぎないということ。思い描いていた夢も理想も実はとても遠い所にあって、天才でもなんでもない凡人に過ぎない自分は、よっぽど努力しない限り決して届かないんだって事。
生きていく為に必要な、でも当たり前の“分”。それを俺も例外なく弁えていた。
中学生くらいまではまだよかった。接する世界は限られていたし、大人達の庇護だって半端じゃなかった。まるで自分の力で生きてますって、自分だけでやっていけますって、そんな馬鹿げた驕りみたいな物さえあった。
でも義務教育という一つの過程が終わりを迎え、俺達はより広い世界に放り投げだされた。だからといってこの世界は何か特別変化したわけではない。ただ、少しだけ前より大人が自分達を守ってくれなくなった……それだけの事なんだ。
思い通りにならない事が増えて、嫌でも現実を知って。自分の弱さや甘さを理解させられた。なんの才能もない、平々凡々を絵に描いたような人生……それが茫漠と眼前に広がっていて、その広大な時間とどう付き合っていけばいいのか、時々気が遠くなる。
「……なんてね。これが高二病ってやつか」
制服姿で電車に揺られている夜、考えてもどうにもならない事を思い悩んだりする。
それも仕方の無い事だ。何せ俺の通学時間は一時間近くある。電車に揺られている時間だけでもばっちり三十分は取られる。行きも帰りも三十分、しっかり毎日この細長い連結された箱の中に拘束されているというわけだ。
これがどこか名門の私立高校に通うためにわざわざいそいそ電車に乗って遠くまで行っているとかならまだいい。でも生憎ながら俺は違う。
俺が通っている高校は誰がどう考えたって低レベルだ。じゃあなんで通っているのかと言われれば、一応そこが自分の家から計算した場合、最寄の高校だったからだ。
要するに、俺の家の周りには高校らしい高校がない。もっと噛み砕いて言えば、俺の住んでいる町は恐ろしく田舎だ、という事である。
一応自分の名誉の為に言っておくと、別に俺の成績はそんなに悪くはなかった。実際今の高校ではテストの度に友達に頼られるくらいではある。尤も、低ランクの高校で成績上位だからといって、誰にも自慢なんかできやしないのだが……。
肩にかけた鞄が電車の揺れで少しずつズレ落ちていく。夜を映し出す筈の窓は照り返しでまるで鏡のように俺の姿を映している。好きじゃない制服を着て、好きじゃない電車に乗って、吊革にだらしなくぶら下がった冴えない俺の顔を。
いくら髪型を弄ってみても、アクセサリをつけてみても、最新のスマートフォンを携帯してみても、自分の本質が変わらない事は誰より一番理解している。
俺にとってこの電車に揺られる三十分間は、そんな嫌いな自分と嫌でも向き合わされる苦痛の時間だった。直前まで高校の友達を遊んでいたりすると尚更だ。
さっきまであんなに明るく騒いでいたのに、ふと我に返ってみればこれだ。自分の生まれや環境を呪った時期もあったが、文句を言えるほど俺は上出来な人間じゃなかった。
頑張れない理由を周りの所為にして、結局俺は何も頑張ってはこなかった。そんな奴が都会に生まれていようが、金持ちの家に生まれていようが、結果は同じだっただろう。
「…………ま、別にいいんだけどね」
そう、俺は弁えている。
このまま適当な大学に行って、適当に就職して、そんなに金を稼げるわけじゃなくて、でもまあそこそこくらいの嫁を貰って、そんな感じの人生がベターでベストだって。
今は就職難だっていうから、面倒だけど頑張らないと就職は難しいかもしれない。でもまあ、多分なんとかなるだろうと思う。この世の中は特別な事はあまり起こらないのだ。それは幸せな事にも、そして不幸せな事にも当て嵌まる。
これまで俺が経験した不幸なんて、精々可愛がっていたハムスターが死んでしまった事だとか、ゲームのセーブデータが消えてしまったとか、そんな程度だ。
それ以外は今の所ある意味順風満帆な人生を送っていると言えるだろう。
だから、これからもどうせなんだかんだでどうにかなる。そんな無根拠な自信があった。
ごちゃごちゃと纏まらない思考の相手をしていると、アナウンスが降りるべき駅の名前を告げた。軽く頭を振り、機械的に停車する電車から外へと踏み出す。
走り去っていく電車。駅の周りには何も無い。暗闇の中ホームを見渡すと、そこに立っているのは俺一人だけだった。
「……ただいま」
駅から自宅までは自転車で約十分の道程である。完膚なきまでにシャッター街という言葉が似合う道を駆け抜け、無事自宅への帰還を果たした。
「おかえりなさい礼司。遅かったわね」
「……別に遅くないよ。まだ八時前じゃないか」
帰宅を察知した母がリビングから顔を出した。何かビスケットでも食べているのか、薄暗い廊下にパリパリと軽快な音が響いている。
「十分遅いわよー。あなたはまだ高校生なんだから、早く帰ってこなきゃだめでしょ?」
「“もう”高校生だよ……しかも男なんだから、そんな心配要らないって」
「そんなのわからないわよ、男の子だって最近は物騒なんだから」
もう何年も前からそれを言っているけど、あんたの言う最近っていつの事なんだ……。
溜息混じりに肩を落とす。なんというか、こういう親なのだ。過保護というか能天気というか……俺が一人っ子だという事もあるのかもしれないが。
「わかったわかった、今度から気をつけるよ。それじゃあ……」
「あら、お夕飯要らないの?」
「食べてきたから大丈夫。作っちゃった?」
「まだだけど……あ、礼司! ちょっと待って!」
二階にある自室へ向かおうと登っていた階段を後退する。見れば母は一度リビングに引っ込み、ビスケットの代わりに黒っぽい色のダンボール箱を持っていた。
「これあなたにって。ちょっと前に届いたのよ」
首を傾げつつ受け取った箱は覚えの無い外見をしていた。
ここは田舎なものだから、自慢じゃないが通販は嫌ってほど使い込んでいる。ぶっちゃけた話、いちいち電車に乗って買い物に行くより通販を利用する方が多い。
しかしこの箱はこれまで見たどの会社の外装とも違っている。おまけに宛名は愚か、差出人を示すような伝票もついていない。
「母さん、これどこから?」
「さあー? 知らない業者さんだったわねえ」
「……なんで受け取っちゃうんだ。母さんの方がよほど無用心じゃないか」
「だって、まさか爆弾が送られてくる事もないでしょう?」
それは仰る通りで。悪いけどそんなドラマチックな展開にはとんと縁が無い。
「……ま、いいや。部屋に戻って開けてみるよ」
「でも万が一って事もあるものね。もし爆弾だったら直ぐに通報するのよ!」
その前に爆弾だったら俺は死んでるって……。
心の中でツッコミを入れつつ二階へ上がり自室へ。電灯のスイッチを入れつつ、ベッドに鞄を放り投げる。
改めて検分してみても、やはり得体の知れない箱である。しかし俺の警戒心は緩かった。爆弾だなんて絶対に有り得ないし、危険物を送られるほど人の恨みを買った覚えもない。
なにせよ俺は地味なのだ。何をつけても普通。そういう風に生きてきたわけで。
「……なんだこりゃ?」
ダンボール箱の中には更に丁寧に梱包された箱が入っていた、緩衝材を取っ払いその箱を空けると、更に小さな箱が入っていた。
「マトリョシカかお前は……」
結局三重構造になっていた箱を開放したところ、出てきたのは黒い紙のケースに収められたDVDが一枚。それから薄いマニュアルのような冊子が一つ、そしてゲーム機のようにも見える、わけのわからない機械の合計三点であった。
ブレザーをハンガーにかけ、まず冊子を開く。その最初の見開きを確認した後、俺は直ぐにディスクに手を伸ばした。
「……まさか」
まだ緩衝材に包まれている機械に手を伸ばす。大きさは……思っていた程ではない。少し大きめのサングラスに機械的なパーツがついているような感じだ。
「まさか……まさか?」
もう一度冊子を手に取る。真っ黒なページには白い文字でこう記されていた。
――おめでとうございます。織原礼司様、あなたは“XANADU”のサードテスターに当選致しました。
「サードテスター……まじ……か……!」
高鳴る動悸を抑え天井を見る。少し気持ちを落ち着けてから、もう一度文面を確認した。
夢ではない。幻でもない。間違いなくそれは、“当選通知”であった――。
――トリニティ・テックユニオン。その企業について、俺はあまり詳しくない。
元々は米国の家電メーカーだったらしい事。中小企業をどんどん取り込んで大きくなり、現在では様々な分野で活躍する大企業に成長した、という事くらいは常識に分類されるだろうか。
日本でも近年シェアを伸ばしているらしい事は実際に電気屋に行かずともテレビコマーシャルやネットの通販サイトを眺めていればなんとなくわかる。
しかし、俺にとってトリニティ社の存在はただの家電メーカーに納まらない。
トリニティが二年前大々的に発表した、ゲーム業界参入のニュースは俺もネットの動画サイトで視聴していた。しかし、ただゲーム業界への参入を伝える会見にしては規模が大きすぎた。そのカラクリという物が、トリニティが発表した新型ゲーム機にあった。
それまでも、その存在は構想や妄想、SF小説やそれこそゲームの中には存在していた。しかし二年前、西暦二千十八年時点の技術では不可能であろうとされ、発表当時はそれこそ拍手や喝采はなく、失笑とどよめきだけが評価を物語っていた。
――フルダイブ型、ヴァーチャルリアリティーシステム。
当時、VRシステムと言えば、所謂立体視やARを使ったものが基本であった。それでも過去の技術水準から比べれば飛躍的な進歩を遂げたと言えるが、一般的な物ではなく、活躍出来るシチュエーションは非常に限定されたものであった。
世の中がようやく高性能な立体視に手が伸び始めたような時期に、トリニティが発表したその夢のようなシステムに対し、世の中の反応は冷淡であった。
フルダイブ型VRシステムというのは、要するに人間の五感の全てをVRに落とし込み、仮想の“完全な体感”を実現する、という物である。
わかりやすく例えるのであればそう、まるで好きな夢を自由自在、望むままの形で見る事が出来るという事。管理された幻想の体験。時にそれはSF映画等に登場する事がある。
もしも実現出来るのであれば、人類の可能性は爆発的に広まるだろう。ただの家電という言葉で包み込んでしまうには勿体無い、それだけのポテンシャルを秘めていると言える。
それを、トリニティ・テックユニオンは、ゲーム機として発表したのだ。
二年前は俺も呆れを通り越して笑いが込み上げてきたものだ。何でゲーム機? もっと他の分野で使った方が世の為人の為ではないか? そんな俺の疑問は会見会場の記者が代弁してくれた。壇上でフラッシュライトを浴びる男に向けられたマイク。そこで彼はこう言った。
「僕が作りたいのはあくまでもゲームなんだよねぇ。世の中がどうとか、利益がどうとか、そういうのは二の次なのさぁ!」
まるでその質問の方がナンセンスだと言わんばかりに、両腕を広げ、笑顔で。
「だって――みんなやってみたいでしょ? 現実みたいなリアルなゲームをさぁ!」
そんな会見があったのが二年前。当時は随分騒がれたのだが、結局そのフルダイブ型のVRゲームというのがどのようなものなのか、どれくらい実現出来ているのか、詳しい事は伝えられなかった。そんなものだから、結局あれは客引きのパフォーマンスだったのだとか、あの開発担当者の頭がどうかしてしまったのだとか、ネットでは醒めた噂が僅かに囁かれ、そのまま目にも留まらず流れていった。
事態が進展したのは今から半年程前の事だ。その頃俺はすっかりこのアホな会見の事など忘れていたのだが、ネット上である噂を目にし、この会社の存在を思い出す事になる。
――ついにトリニティがフルダイブVRゲームの試作型を完成させた。
その噂はそれなりに広まり、盛り上がりを見せた。どうせガセだと思いきや、どうやらそのゲームのディザーサイトらしいものが発見され、徐々に噂は真実味を帯びていく。
サイトは真っ黒な画面にゲームのタイトルらしい文字がでかでかと記されており、その下にテスターを応募する旨の文章が並ぶだけのシンプル過ぎるデザインであった。
そう、テスター募集。自称フルダイブ型VRゲームの試作型らしいそいつは、テストプレイヤーを募集していたのだ。
当然、面白がって応募する奴がわんさか出た。俺もその中の一人だ。しかしそのディザーサイトがトリニティの公式サイトからリンクされていない事、トリニティ・テックユニオンそのものは完全な沈黙を守っていた事からやはりガセではないかと危険視し、警戒を促す声も大きくなっていった。
しかし結局それが本物なのかどうかという検証はされなかった。なぜならば、テスターに当選したと言う人物が現れなかったからである。
いや、厳密には何人か現れたのだが……これも殆どガセであるというのがネット上では当たり前の見解であった。結局ゲームを遊んだと言える人間が現れなかった為、あのサイトは誰かの捏造だったのだろうというのが話の落ち所になった。
しかしだからといってテスターに応募した人間にもウイルスが感染するだとかスパムが届きまくるとかではなく、一切何もなし。時間が経過してもトリニティの発表もなし。そのままなあなあになって、俺はもうすっかりその事も忘れてしまっていたのだが……。
「XANADU……ザナドゥ? って読むのか。本物なのか、これ……?」
俺にとっては家電会社というより、すっかりネタ企業というイメージが定着しているトリニティ。その名前を冊子から発見する事は出来なかったが、間違いない、このザナドゥという名前は、半年前に応募したゲームと同じ名前だ。
改めて冊子に目を通す。そこにはテスターに当選したという旨の文章、それからゲームをプレイする為に必要な環境、そして同梱されていた装置の使い方が記されていた。
どうやらこのゲームはPCゲームにカテゴリーされるらしい。ゲームディスクをPCにインストールし、USBで例の装置を繋ぐだけでプレイ可能……と書いてある。
「そんな簡単なのか? フルダイブ型のVRゲームが……?」
あからさまに胡散臭い。結局どこを調べてみても差出人がトリニティ・テックユニオンであるという確認はとれなかった。つまりここまで来てもやはり差出人不明の怪しいアイテムであるという事に何の変動もないわけだ。
「どうする……?」
様々な疑念と不安が脳裏を過ぎる。黒いインストールディスクはいかにも怪しさたっぷりと言わんばかりで、思わず生唾を飲み込んでしまう。
先ほどまで心を支配していたわくわくした気持ちはすっかり鳴りを潜めていた。冷静になればなるほど怪しいのだ。まさかディスクが爆発するとは言わないが、何か危険なウイルスに感染するだとか、その程度なら十分有り得るだろう。
暫し悩んだ結果俺が選んだ答え、それは――結論を先延ばしにする事であった。
まずは付属の冊子を熟読する。それからもう一度このゲームについてネットで調べてみよう。ハードディスクに突っ込むかどうかは、それから判断しても遅くない筈だから……。
結論を先延ばしにした俺は、結局四時間後パソコンの前に座っていた。
まだ夏には早いというのに、シャツはぐっしょりと変な汗で濡れている。例のダイブ用の装置をUSBポートに接続し、いつでも装着できるように首からかけて待機する。
ザナドゥのクライアントデータは既にインストール済みだ。何が起こるかと緊張して身構えていたのだが、結局の所何が起こるでもなし。デスクトップにゲームのアイコンが出現した以外、これといって変化は見られなかった。
色々調べてみたのだが、新情報は見当たらなかった。このゲームは本物かもしれないし、偽者かもしれない。一つ確かな事は、やってみなければ何もわからないという事だけだ。
アイコンをクリックしゲームを起動する。後はこのログインボタンをクリックし、楽な姿勢になれるようにベッドの上にでも寝転がり、装置を正常な位置にずらせば良い。
フルダイブ中は基本的に現実の身体が意識の外に置き去りになる為、念入りに状態は確認しておく。勿論トイレも済ませておいた。ゲーム中に漏らしたりするんじゃないかというまったくファンタジックでもなんでもない不安があるが、それも今は忘れよう。
「後は野となれ山となれ……だ」
仮に釣りだったとしても、まあそれなりに笑い話にはなるさ――。
ゲームを起動し装置を頭に装着する。付け心地は大型のヘッドフォンとサングラスが一体化したような感じか。
耳の周りで何かモーターのようなものが作動している音が聞こえる。そのまま俺はベッドまで移動し、身体を横にするとゆっくりと瞼を閉じた。
実際にフルダイブシステムが起動するまでには若干の待機時間がある。その間、脳裏を何度か中止の二文字が過ぎった。
トイレは……さっき行ったって確かめたな。部屋のドアは閉めたから……まあ、寝ていると思われるだろう。何せ時間も時間なのだ。
なんとも煮え切らない気持ちのまま、妙に引き伸ばされたように感じられる待ち時間の中、纏まらない考えを暗闇の中に並べ続ける。そんな時、それは唐突に訪れた。
圧倒的な静寂――そして浮遊感。
身体の自由が利かなくなり……否、身体全体にかかる力が抜け、まるで巨大な穴の中に放り投げられたような、なんとも言えない感覚が全身を支配する。
落ちていく……どこまでも、どこまでも。しかし恐怖はない。何も感じる事の出来ない鈍った脳でただ状況だけを感じつつ、俺はその闇の中へと意識を沈めて行った。
そして……。
「なんだこの建物……? 教会……いや、神殿か?」
俺は賭けに勝利した。胡散臭いゲームに身体を投げ出しただけの価値はあった。
草原で目を覚まし、森の中へと足を踏み入れたのが数分前。そう奥深くもない場所にその神殿は鎮座していた。
白い不思議な鉱石で築かれた巨大な神殿。建造物というよりは最初からそういう形の岩だったとでも言わんばかりで、その構造は異質だ。“造った”らしい形跡はなく、石と石の間に継ぎ目も無い。つるりとした外壁で、光を浴びて所々光っているのがわかる。
「入っても大丈夫……だよな?」
ぽつりと呟きながら歩みを進める。
何せなんの説明もなく、いきなり放り投げだされた世界だ。現時点ではどうやってこのゲームを中断すればいいのかさえわからない。正直、危険な状況におかれているのかもしれない。
だが……そんな事はどうでもよかった。どうでもよくなるほど、俺は興奮していた。
どこの誰が作ったのかは相変わらず検討もつかない。だがこれが何なのかはわかる。
こいつは、世界初のフルダイブ型のゲームだ。俺は今未知の技術で作られた、未知の世界を歩いている。
ここには当たり前なんてない。何が起こるのかなんて全く推測も出来ない。
だから、面白い。だから、わくわくする。言ってしまえばそう。俺はこの状況に魅了されていた。
扉の無い入り口の向こうには長い回廊が続いていた。まるで洞窟だ。光と音をやけに弾いて木霊させる通路を歩き、俺は神殿の奥底へと突き進んでいく。そして……。
「――こんにちは!」
唐突に、声が投げかけられた。
通路の向こうには開けた部屋が広がっていた。洞窟をくりぬいたような空間。しかし天井からは光が降り注いでいる。その光を囲うように石のテーブルが円を作り、そこに……何人かの男女が座っていた。
「え?」
思わず口から出たのはそんな言葉であった。いや、少し考えてみればわかる事だが。
「もしもーし? あ、もしかしてまだぼんやりしてる? 無理もないよね、凄かったから」
「え、あ……はい?」
横に誰かが立っている。女の子だ。なにやら笑顔で話しかけている。
「改めまして、こんにちは。はじめましての方が的確かな? とにかく、よろしくね!」
ぼんやりしている俺の手を取り強引に握手を結ぶ。勝手に上下する手を見つめながら、俺は俯きがちに応える事しか出来なかった。
「よ……よろしく?」
満面の笑みを浮かべる彼女。その背後で俺に視線を向ける人々。
年齢も性別もばらばらの五人。彼らと俺は、これから奇妙な縁で結ばれる事になる。
そう、これが――このゲームの始まり。
かけがえの無い“仲間”との、初めての顔合わせであった。




