第10話.悪意を感じますよ羽川さん
はい、ヒロインが二話連続でスタメン落ちです。
そして羽川さんが目立ってきていますね。
ところでPVがいつの間にか8000に達していました。読者の皆さんには深く感謝しています( ̄▽ ̄)ノ″
自分の鼓動が早い。投げ飛ばされた身体中が痛い。溜まった疲れが半端ない。もう動けそうにない。
これらを総じた表現をすると、もう勘弁してくれということ。いつもより遠い天井を見ながらそう思う。
もう夜は十時を回った頃、俺は胴着を着たまま畳の上に転がっていた。ハードな動きと軋むような痛みで、今や手足を動かそうという気力さえ起きない。
一度呼吸を整えるために深く吸い、そして長く吐く。それを数回繰り返していると、俺と同じように胴着を着ている人当たりの良さそうな初老の男が視界に入ってきた。
「大丈夫ですかな?」
目に入りそうになった汗を胴着の袖で拭ってから頷きを返す。
彼は俺と同様、泉堂家に仕えている矢野さんだ。まあ、彼の場合は俺と違って就職という形で仕えているから、召し使いではなく正真正銘の執事と言った方が正しい。
矢野さんに手を引かれて起き上がる。もう一度息を深く吐くと今度はタオルを誰かが差し出してきた。
顔を上げると肩を上下させつつもにっこりと笑顔を向けてくる羽川さんだった。彼女も胴着を着ており、運動後で顔が上気しているためか、やけに色っぽいような気がする。
いかんな、こういうことを考えちゃ。また心を読まれかねない。
というか、先ほど俺を投げ飛ばしたのは彼女だ。それはもう手加減なんてのは無しで。その瞬間は怖いなんてもんじゃない。死を覚悟したね。
俺は何を言うでもなく、黙ってタオルを受け取り汗を拭いた。
「真貴君だいぶ動けるようになってきましたねぇ」
羽川さんが言った。
「そうですな。まだ粗っぽさがありますが、見事な上達ぶり。それに筋が非常に良いですな」
矢野さんも笑みを浮かべながら称賛してくれる。ありがたいことなのだが、ありがたくない。ついそう思ってしまう。
俺が汗をかきながらいったい何をしているのかというと、簡単に言ってしまえば武術だ。
空手と柔道を混ぜたような武術を週三で羽川さんと矢野さんに習っている。いやいや、強制的に習わされている。正直面倒くさいことこの上ないのだが、嫌だと言った後が、特に羽川さんが怖いのでやるしかないのだ。
召し使いたるもの、どんな危険からもお嬢様を守るために武術を心得ていなければならない、とのこと。
いつの時代だよとツッコミを入れつつ、もうかなりやっている。
やっていくうちに二人の実力が並みじゃないことを知った。そして羽川さんよりも矢野さんの方が強い。何度か組手をして分かったことだ。
さて、俺は少しは前より強くなっているのだろうか?
そんなスポ根染みたことを考えながら汗を拭いている羽川さんを見る。そもそもこの人はアレだ。
「羽川さん」
「はい?」
幼さが異常に残る可愛らしい顔がこちらを向く。こんな顔して家事から武術までなんでも出来るのはなんか怖い。
「羽川さんは力があるってわけでもないのに強いッスよね?」
羽川さんは下唇の下に人差し指を置いてしばし考えてから口を開く。
「そうですねぇ、強いかどうかはわかりませんが、筋力に差がある時の戦い方というのがあるんですぅ」
そう言ってから矢野さんに声を掛けた。
「矢野さん、打ってきてくれますかぁ?」
「もちろんですとも」
矢野さんは羽川さんの前に立つと構えを取って拳を打ち出した。常人よりかなり速い。その動きに合わせて羽川さんは身体を反らし、顔の横をかする腕を両手で掴んでから流れに任せて投げ飛ばした。そして、投げられた矢野さんは手本のような受け身を取った。
「このように相手の力を利用するのも一つの方法なんですぅ。次は真貴君が本気で打ってきてください」
疲れた身体にムチを打って持てる力の拳を打ち出す。するとそれは難なくかわされ、いつの間にか羽川さんの拳が俺の顎の所へ置かれていた。冷や汗が頬を伝っていく。
羽川さんはニコッとして拳を引いた。
「このように相手の目と拳をしっかり見て、攻撃の軌道を読むのも大切なんですよぉ。避ると相手がバランスを崩して急所への反撃がしやすいですからねぇ。覚えておいて損はありませんよぉ」
ふわふわしたしゃべり方だが言ってることはなかなか武闘派だ。だから結婚から遠ざかって…とこれは禁句だったな。
「滅多にあることではないのですがな、時にして身を呈して主を守らなければならないことがあるのですよ木下君。だからこそ、我らは常に鍛練を怠ってはならないのです」
矢野さんが最もらしいことを言い出した。
理解はできるのだがイマイチ実感が沸かないのが正直な感想だ。
実際、お嬢様にどんな敵がいるよ?お嬢様の本当の敵は惰性で生きるお嬢様自身なんだぜ?まさに己自身との戦い。毎回負けてるが。
毎度のお嬢様の負けっぷりを頭に浮かべていると矢野さんが手をひとつ叩いた。
「では、今回はこれまでにしておきましょう。木下君、しっかり自主練をしてくださいよ」
んなもんやんねえよ。そう思いつつ形だけの頷きで首肯する。
それに満足したのか矢野さんは礼をして道場から足早に出ていった。これからまだ仕事があるんだろう。
本物の執事は大変だね、ホントに。
「さて、私達も行きましょうか」
羽川さんの言葉に頷いて慣例となっている礼をする。これも武道の心と言うものらしい。俺は別にそんな崇高な心を持ってないんスけどね。
羽川さんも姿勢正しく道場内へ礼をして歩き出す。入口で電気を消す。そして更衣室の前まで来たところで羽川さんが不意に顔を覗き込んできた。
一瞬ドキッとしたが、平静を保って文句の一つでも言ってやる。
「何ですか羽川さん?危ないですよ」
「ふふっ、真貴君はとてもお疲れのようですぅ」
いちいち言わなくても分かりますよ。
羽川さんは何事も無かったかのように女子用更衣室へと消えていった。いったい何なんだよ。
心の内で愚痴りながら俺も男子用更衣室へ入る。
さて、さっさと着替えて寝る支度でもするかな。
まずは帯を解いて胴着の上を脱ぐ。Tシャツは風呂に入る時に変えればいいな。とりあえず、下を履き替えんと。胴着の下を脱ぎ、それを棚に置いた──といったところで、ガララッと更衣室の戸が開いた。
「真貴く〜ん、良いものあげますぅ」
驚きによる俺の硬直を無視して、ラフな私服に着替えた羽川さんが無遠慮に近づいて来た。当然、俺は人に見せられるような格好ではない。
ホント、羽川さん、なにしてんスか?
「あの…俺、着替え中なんですけど」
「私は気にしませんよぉ」
あんたの思考と一緒だと思わんでください。いくらなんでも恥ずいんです。
「お疲れ様にはこれをプレゼントですよぉ」
そう言って差し出してきたのは一粒のカプセル。ささっと短パンを履いてそれを受け取った。
緑と茶色のカプセル形の、たぶん薬だ。すでに色からして犯罪の匂いがする。
「それはですねぇ、えー…栄養剤ですぅ」
嘘にも程がある。間があった時点で栄養剤だって言おうと今思いついたよこの人は。
「いや、全然疲れてないですから大丈夫ですよ」
「なら、これから試合をしましょう」
「飲ませていただきます」
脅迫に屈して飲まざるを得なくなった。ん?いや、待てよ。
「今は水がないんで部屋で飲みます」
「はい、お水ですぅ」
ペットボトルを差し出されてしまった。この用意の良さに悪意を感じる。
少し自分の中で飲んではいけないと囁く良心と話し合った結果、諦めて飲むことに決まりペットボトルを受け取る。
ちょいと、羽川さん、なんて期待に満ちた目で見るんですか?絶対に何かあるじゃねえかこれ。
意を決してカプセルを口に放り込み、舌が味を感じる前に水で流し込む。ついに飲んじまった。
「…………どうですかぁ?何かお変わりが?」
「いや、特に何も無いですね。幸運なことに」
羽川さんは残念そうな顔をして可愛らしく小首を傾げた。
「あれぇ、おかしいですねぇ。……失敗ですかぁ」
「今、なんか失敗とか言いませんでした?」
「そ、そんなことありませんわぁ。オホホホホ…」
動揺しすぎだ。何かの薬であることが確定した。
まあ、何も無いならそれに越したことはない。以前は声が半日ほどボイスチェンジ状態だったからな。もうあんなのは勘弁だ。
安堵から溜め息を吐き荷物を手に取る。速やかに撤退するのが賢明なのだ。
「では」っと言って入口へ向かう。その途中であることを思い出した。
「羽川さん」
「ぶつぶつ…。え?あっ、はい」
「明日、学校終わってから友人が一人俺の部屋に遊びに来ると言うんですけど、いいっスかね?」
その友人というのは、不本意ながら高瀬だ。それも本物のメイドが見たいという下心丸出しで来る。さすがにこれは言えない。
「ええ、構いませんよぉ。お嬢様のお世話は私に任せてくださいなぁ」
羽川さんはニコニコして快諾してくれた。
こういう所は本当に話の分かるいい人だと思う。人を実験体に使わなければいい人だと思う。
「ところでそのご友人は男の子ですかぁ?それとも女の子ですかぁ?場合によっては対応を考えなければならないのでぇ」
どんな対応が?
「男子ですよ」
「なら、お嬢様には手を出さないよう十分に注意してくださいねぇ。人様の子を棺桶に入れたくはありませんのでぇ」
羽川さんがふんわりと重いことを言う。
それはもちろん注意するが、メイドへの粗相があった場合は知らない。高瀬の葬式の支度をしなければならないかもしれないな。泉堂家のメイドは羽川さんほどじゃないが、みんな強すぎるから。
「ありがとうございます。もちろん注意しますよ。あとお疲れ様でした」
「はい、真貴君もお疲れ様でしたぁ」
ひとつ深々と礼をして、更衣室を出る。
その後は、カラスの行水並に風呂に入ってすぐに身体を休めた。明日は筋肉痛にならないことを願って。