悪の勇者と親愛の魔王 8
俺の朝は早い。
まず、魔王一家と俺の分の朝食を作らなければならない。
広さの合った食堂に、少しばかり広めのキッチン。魔王の奥さんが料理好きだったためらしく、かなり丁寧に使われている。
その後、魔王を除くアリスとエリスを起こしに行くのだが(魔王は娘に起こされたい)、実は最近、だんだんとアリスの起きる時間が早くなっているのに、俺は危険を感じていた。
これ以上! これ以上何か刺激を与えられると、俺はもう戻って来れない気がするのだ。最終防衛ラインがこの朝だと俺は踏んでいる。事実、起きてからはずっとアリスはべったりなのだから。
朝起きたらベッドに潜り込んでいた——なんて展開、正直俺は耐えられそうにないのだ。
多分アリスの事だから、実に魅力的な言葉で俺を誘惑してくるだろう。
正直、この朝に起こしに行くのだって勘弁願いたいのだ。
前にも言った通り、俺は一緒に居るだけで幸せなのだから。
小さめにノックして、アリスの部屋に入った。塔の簡素な部屋から移動して、お姫様に相応しい豪勢な部屋となっている。
枕に顔を埋めて、寒さに縮こまっているアリス。
どうしてだろう、寒いから一緒に寝ましょう、とアリスが言い出す日が近い気がする。
寒いなら仕方ない、という答えを用意しておこう。
「アリス、朝だぞ」
「ふぁ……ユート……おはようの——んっ」
キスされた。
自分からするのか、という疑問は捨て置き、俺は部屋のカーテンを開ける。
「ユート、温かいです」
そんな俺の背中に抱きつくアリス。
十分、お前も温かい。ああ、離れてほしくないな。
そうやって、一日が始まって行くのだった。
アリスが目覚めて、よりいっそう魔王との争いが激しくなると思われたが、実際は真逆、魔王は嬉しそうにアリスと俺が戯れるのを見ていた。そこにエリスが混じって、最終的に俺が押し倒されるのも、黙ってみていた。
それに気付いたのは、魔王と別れる最後の日の前日だったが。
アリスとエリスが寝静まった夜中、俺は魔王と晩酌をしていた。
二人とも、寝るのはかなり早い。
「もしも貴様が勇者でなかったら、儂は——」
「……なんだ?」
「世界征服ならぬ、世界滅亡を企んだかもしれん」
呪い。
魔王の身体を蝕むのは、百年程前に戦った人間が残した呪い。
魔王の妻はその呪いで殺された。
本当、よくアンタは復讐しなかったものだ。
大半の魔法はその呪いによって奪われ、俺と戦ってから二年の間に魔王は、『超回復』の魔法すらも使えなくなった。魔力も全盛期の百分の一、それでも俺と同じくらいだが、アリスやエリスには負けているそうだ。
その呪いは死後、血縁者に飛び火する。
アリスとエリスに。
それを避ける方法は、一つだけあった。
それは、誰かに殺されたときだけ、その呪いは解呪されるというのだ。
「まるで儂に、娘の健康が欲しくば殺されろ、とでも言いたげだ」
「……アンタには最悪な条件だな」
「……うむ。だが、家族を人質に取ったことで、儂の逆鱗に触れるとは思わぬのだろうか? たかだか魔力と魔法を奪われた程度で、この儂を止められるとでも思ったのだろうか」
「全くだ」
事実、人類最強の俺でさえも、弱っていた魔王を倒す事は出来なかったと言うのに。
「……貴様といた時間、楽しかったぞ勇者」
「アンタとは、もっと長い付き合いになると思っていた」
「孫の顔、見てみたかった」
「……アンタらしい」
だから保護者面して見てたのか。
俺と魔王は、静かに杯を交わした。
「娘達には、話すなよ?」
「アンタがもう寿命だって事をか?」
それは真実であったはずなのに、魔王は首を振った。
「妻に会いに行く事だ」
翌日の朝食後、俺は謁見の間(誰も謁見になど来ないが、間取りが似ているためそう呼んでいる部屋)へ魔王に呼び出された。
ついに来たか、と到着早々、
「なっ!?」
「ユート!?」「父様!?」
魔王に吹っ飛ばされた。アリスとエリスが、俺と魔王を交互に見る。
「立て勇者よ。儂を殺すのではなかったか?」
「約束……忘れてなかったんだな」
壁に強く叩き付けられ、体が軋む。だが、『超回復』の魔法が俺の傷を治す。
少し唐突過ぎやしないか?
その俺の足元に、魔王が剣を投げて寄越した。
起き上がった俺は剣を構え、躊躇することなく魔王に向かう。
「ユート!?」
「それで良い! 勇者よ!」
魔王に向かう俺に、エリスが驚きの声を上げるが、俺の動きは止まらない。
空中で交錯し、着地と同時に俺は膝を付き、魔王は吐血した。
「……魔王」
「ふっ」
言うなよ、と言わんばかりに唇に指を当てる魔王。
口からは少なくない量の血が零れていた。
俺の剣は、まだアンタに届いちゃいないのに。
限界、なのか。
「やるではないか、勇者よ。久々の戦い、血が滾るわ!」
いつぞや見た、巨大な剣を出現させ、それを構える魔王。
命を燃やし尽くさんばかりに、オーラを出す。
それは、蝋燭の火が消える前の最後の炎のようで。
とても、悲しくなった。
「魔王!!」
「勇者!!」
俺達は激しくぶつかり合い、最後の戦いを演じた。
魔王は言った。
俺も男だから、見栄を晴らせてくれ、と。
馬鹿だな、と俺は思ったが、その気持ちはよく分かった。
何時間戦ったのだろう。
もう何日も戦ったような気になるほど体力を消耗した。
だが、『超回復』の掛かっている俺には、傷一つなかった。
魔王は、地に膝をつき、全身で呼吸を整えていた。もう、腕も上がりそうになかった。
もう、最後にしよう。
奥さんに、よろしく伝えてくれ。
あなたの娘と出会えて、俺は幸せになれた。ありがとう、と。
俺は剣を振り上げ、魔王に言った。
「じゃあな、魔王」
アンタの下手な芝居、娘達にはバレバレだったぞ。
魔王はふっと笑みをこぼし、俺にだけ聞こえるように言った。
「頼んだぞ、勇者」
初めて。
俺は魔王が笑ったのを見た。
剣を振り下ろすと同時に、俺の身体を縛っていた何かが砕けるような音がした。
『勇者システム』が、終わりを告げたのだ。
間違いなく、魔王は死んだのだ。
「ユート……」
アリスとエリスが俺に駆け寄って来た。おいおい、そこは魔王に抱きつくだろ?
そう言おうとして、喉の辺りが苦しい事に気がつく。
頬を流れるのは、血でも汗でもなく、涙だった。
魔王。
この世の全ての魔物の頂点に君臨し、それを統べる者。
そして——娘達に取っては、最高の父親だった。
その日、俺達はずっと三人で泣いていた。