彼女を殺した人を知っている
【彼女を殺した人を知っている】
香代が殺されてから二日後、警察は花城柚希の逮捕状をとった。だが、花城は見つからなかった。というより、花城という人物なんてこの世にはいなかったのだ。いや、それも違う。いるだろうが、彼女は花城柚希ではなく、他の誰かなのだ。マスコミに彼女の似顔絵が公開された。長い黒髪の可愛らしい女性だった。芸能界にいてもおかしくはない。だが、彼女の写真はどこからも出てこなかった。高校の頃のアルバムもなく、自動車の運転免許証さえ偽造だった。いったい彼女は誰なのか。僕も警察も、世間もそれを気にしていた。だが、そんなことより僕は、なぜ、彼女が香代を殺したのか、それが一番気になっていた。
そして、あの事件から五日経った今でも、彼女は見つかっていない。
僕は仕事にも身が入らなかった。何度かつまらないミスをした。僕はずっと彼女のことを考えていた。
家には七時に着いた。マンションの七階に僕の部屋はあった。そこまで大きくない部屋だが、独り身の男にとっては十分だった。ドアの前に立つと、僕は鍵を取り出してドアを開けた。ドアを開けて中に入ろうとすると、後ろから何かに押され、倒れるように部屋の中に入った。すると玄関の電気が点いた。僕は転がりながら部屋へと逃げた。後ろを見ると、そこに見覚えのある人物が立っていた。花城柚希だった。髪を短く切っていたが、童顔の可愛げのある顔は変わっていなかった。いや、髪を切ったせいか、さらに幼く見えた。
「お前」
「こんばんは、真田さん」
「お前」と僕は言いながら僕は電話機のあるベッドの近くに寄っていった。
花城は履いていたスニーカーを脱がずに部屋に上がってきた。彼女はジーンズに緑色のパーカーを羽織っていた。首には白いマフラーをしていた。
「電話はやめてください」
「なんだと?」
「警察に電話をするならやめてください。あと数時間なんです」
「何がだ?」
「こっちの話です。気にしないでください。とにかく電話は」と言って、花城は手で電話機を抑えるような仕草をした。右手はパーカーのポケットに入っていた。
「僕のことも殺すつもりか?」と僕は彼女の右手を見て言った。
「いいえ。そんな余計なことはしません」と彼女は言って右手をポケットから出した。
「今から警察に電話する」
「あなたはそんなことがしたいのですか?」と彼女は首を傾げた。「そんなことより、私が磯台さんを殺した動機が知りたいんじゃないんですか? もし、警察に電話をしないのなら教えましょう」
僕は一瞬考えた。警察に電話するべきか、否かを。だが、判断は早かった。僕は奴が香代を殺した動機が知りたかった。警察にはその後でも遅くはない。僕は机のそばにあった椅子に座った。
「助かります」と彼女は言った。
「なぜ殺した」と僕は花城を睨んだ。
「まず、ある人のことを話しましょう」
「ある人?」
「そう、ある人。その人の名は『石白美沙希』。あなたの元彼女です」
「それが何だ。何の関係がある?」
彼女は白くて柔らかそうなマフラーを少し緩めて言った。
「私は、彼女を殺した人を知っている」
僕は黙っていた。香代を殺したのか知りたかったのに、美沙希の名前が出てくるのは意外だった。そして、美沙希が殺されたということは予想外すぎた。
「何を言っているんだ? 彼女は自殺だ。確かに僕が殺したようなものだが」
「いいえ。彼女は自殺に見せかけられて殺されました」
「そんなわけはない」
「一昨年の十月九日、夜、十一時に彼女は磯台香代さんの住むマンションに呼び出されました。美沙希さんは車で訪れました。そして、もしかしたら、真田さんも知っているかもしれませんが美沙希さんは、磯台さんのマンションへ着くと、まずトイレを借ります。これは、いつもそうらしいです。警察は知らないでしょうが」
僕は黙って聞いていた。何が何だか分からない。ただ彼女の声には芯があった。耳に届くというより、体の中に響く感じだった。
「磯台さんは相談があると言って呼び出したそうです。相談することなんてなかったのですが。そして、美沙希さんがトイレに行っている間に、磯台さんは車のトランクにあるものを入れました。七輪と練炭、そして折りたたみ自転車です」
花城はこちらをちらりと見た。そして続けた。
「そして彼女たちは真夜中のドライブへ行きました。殺人現場へは磯台さんが案内しました。山の中に入っていくので不安だったでしょうね。でも、彼女たちは友達です。不信感は特になかったでしょう。山の中に、車を停めると磯台さんは、美沙希さんにコーヒーをすすめます。水筒に入れて持ってきたのです」。彼女は少し右に移動した。
「ああ、その前に知っていましたか?」
「何をですか?」
「美沙希さんが不眠症で悩んでいたことを?」
「いいえ」と僕は言った。初耳だった。
「そして磯台さんも眠れない時があった。知っていました?」
「それは、知っていました」と僕はいつの間にか敬語を使っていたことを恥ずかしく思った。彼女の雰囲気は犯人を詰問する刑事のようだった。
「その不眠症の相談を磯台さんにしていたみたいです。そして、磯台さんは自分に処方されている睡眠薬を少し分けていた」
「それで?」
「もう分かるでしょう。睡眠薬いりのコーヒーを飲ませ、その間に練炭を焚いて一酸化炭素中毒で殺した。だが、問題は目張りです。窓に目張りをしなければならない。そして、それは内側からしないといけない。どうしたと思います?」
「分かりません」
「どうもしていません。助手席のドアの目張りは不完全でした。ですが、警察は自殺と決めつけて捜査しました。馬鹿です。私が香代さんを殺したと、あの現場で結論を出さなかった刑事たちくらい阿呆です。おかげで助かりましたけど」
彼女は肩をすくめた。
「そのあと、磯台さんは折りたたみ自転車を使って家へと帰りました。何時間かかったのでしょうね。それでも朝までには帰れたようですが。そして磯台さんは、部屋に自転車を持ち込み、タイヤについている泥を落としました。そして警察が来る時を待ちます。彼女は家にいたと嘘を言います。電話をしたが、用事があるので断られたと。全く……」と彼女は最後まで言葉を続けなかった。
彼女は僕を見た。僕は彼女の言葉を待った。彼女はそれが分かったのか、答えた。
「美沙希さんを殺した動機は……。まぁ、簡単に言うならば、あなたのことが好きだったからですよ。知っていたでしょう? 何度か夜を共にしたことあるでしょう?」
僕は、ごくりと唾をのんだ。
「まぁ、別にそういう事があっても悪いことではありません。あなたは美沙希さんが死んで悲しかったのでしょう。そして磯台香代さんに慰めてもらった。磯台さんの思うがままですが、それはそれで」
「それが、いや、だからって、なぜ君が香代を殺すことになるんだ」
「そうでしたね。あなたが聞きたかったこと。それは、なぜ私が香代さんを殺したのか。……簡単です。それは美沙希さんから頼まれたからです。私は霊能力があってね」と彼女はあっさり言った。
僕は怒りが沸いてくるのを感じた。
「ふざけるな!」
「まぁ、そう言うでしょうね」と彼女は僕の感情を真面目に受け止めていないのか、平気な顔をして言った。「でもそれが動機です。頼まれたから殺したまでです。内線電話で彼女に美沙希さんの事を匂わして、部屋に入れてもらいました。そしてハンマーで殺し、それを窓の外に投げました。彼女には何も言っていません。なぜ私が、あの事を知っていたのか不思議そうでしたがね。言う必要性は感じませんでした。私は仕事をしたまでです」
「それから?」
「それから? まだ言わないとダメなんですか?」
「どうやって外に、部屋の外に出た?」
「出ていませんよ。内線電話であなたを呼び出したあと、私は浴室に隠れました。あなたが入ってきて、大声で香代さんの名前を呼んだ時に、そこから出てきただけです」
「穴だらけだな。そこを僕や、誰かに見られたらどうするつもりだったんだ?」
「どうもしませんよ。その時は逃げたでしょう。あの吹雪の中を」
僕は黙っていた。それを見て、彼女は部屋から出て行こうとした。
「待て! どこへ行く」
「街へ出かけるんです」
「今から警察を呼ぶ。そこにいろ」
「全く……。警察は勘弁してください。正直言って、私がここに来たのは、あなたが動機を知りたかっただろうからっていう、私の善意ですよ。来なくてもよかったんです」
「その善意が裏目に出たな」
「はぁ」と彼女はため息をついた。「では、警察を呼ぶ前に私の悪意を見せましょう」
「悪意?」
「あなたは浮気をしていた。二週間という短い期間を。いや、それが短いかどうかは人それぞれです。あなたはそれを短いと思った」
なぜ、こいつはそんなことまで知っている? 僕はそう思ったが、なぜか言葉が出なかった。喉の奥に何かがつまっているようだった。
「では、一年という浮気はどう思います?」
「一年?」
「ええ、一年です。どう思います?」
「長い……と思う」
「そうですか。ところで、あなたが優しい女性だと思っていた、美沙希は一年間浮気をされてましたよ? それをどう思います?」と花城はにやりと笑った。
僕は唖然としていた。喉に引っ掛かっていたものはいつの間にか飲みこんでいた。
「男は鈍感です。馬鹿です。ああ、なんて勘が冴えないのでしょう」
「そして」と花城は右手の人差し指を立てた。「美沙希さんの浮気のことを磯台さんは知っていた」
「じゃあ」と僕が言葉を発しようとすると「何も言うな」と彼女が制した。
「磯台さんが美沙希さんを殺したのは、あなたが好きだったから。そして、浮気をしている美沙希さんはあなたに相応しくないと思ったから」
「そんな……」
「そんな事実が、ありました。……さて、私はこれで。警察に電話するなら電話してください。どうせ、あと少しなんです。私は最後の夜を楽しみます」と彼女は玄関へ向かった。彼女の歩いたあとには、靴底のあとが白くついた。
僕は受話器を取った。彼女はドアを開けるところだった。
「あ、最後に」と彼女は顔をこちらに向けた。「冥土の土産をさしあげましょう。どうぞあの世に行くまで、楽しく、にこやかに、噛み締めてください。実は、磯台さん。あの旅行の時に、あなたに告白しようとしていたんです。気付いていましたか?」
「なんとなく、そう思っていた。言葉数も少なかったし、そういう気配もしていた」。僕は一を押した。
「あなたは勘が冴えない人ですね。どうしようもない人だ」と彼女は少し大きな声で言った。
「どういうことだ」と僕は視線を電話機に定めたまま、さらに一を押した。
「磯台さんは、睡眠薬を持っていました。しかし、あの吹雪の夜、それはテーブルの上にありました。飲まなかったんです。そして、あなたに告白するつもりだった。もっと詳しく言うなら、告白することがあったんです。これでも分かりませんか?」
「なんのことだ」。僕はそういって、〇を押した。
「私はあの夜、二人殺しました。これで鈍感なあなたにでも分かったでしょう。睡眠薬は体によくないですからね。では、さようなら」
彼女はそう言って、部屋を出て行った。
受話器からは誰かが何かを言っている声が聞こえた。だが、僕にはそれが何なのか分からなかった。