第50話 術文
魔物の歩みが、その声に反応するかのようにピタリと止まった。
刹那―――。
彼女はアレックスの目の前に移動していた。
私にはその一瞬の動きを捉えることができなかった。アレックスも女の顔が突然眼前に現れ、目を見開いたまま動けないでいる。
女は目の前の頭に手を伸ばすと、髪を掴んで地面へ叩き付けた。
「わらわは魔王様ではないし、貴様らごとき愚族を相手にするほど暇でもない。だが精霊に選ばれしヒトならば、特別に置き土産をくれてやってもよいぞ」
彼女は薄い笑みを口端に浮かべながらアレックスの頭を高いヒールで踏みつけると、そこに手を翳した。
目を瞑り何かを唱え出すが、私にはその言葉の意味を理解することができなかった。聞いたことのない言語である。
唱えると同時に地面が揺れ出した。私とエドはそれに耐えきれず転んでしまう。
地上では座り込んだ私たちを取り囲むように、光の帯が創り出されていた。帯が目映い光を放ち始めると、私たちは更に地面へ叩き付けられた。
まるで上から強い圧力で押されているかのように。或いは地面へ吸引されるかのように。
私たちは押しつぶされた蛙のような格好で、動くことさえできなかったのである。
その間にも女は術文らしきものを唱えているが、先程よりも遠い場所から聞こえてくるような気がした。身体が動けないので確認はできないが、いつの間にか離れた場所へ移動したのかもしれない。
遠くから聞こえてくる女の声が、頭の中を縦横無尽に駆け巡っている。呼吸が徐々に苦しくなってきた。声も出ない。
(な…に、これ…?)
何も考えられなくなってくる。恐らく脳には空気が行き渡っておらず、思考力も低下しているのだろう。
私は魔物が術文を唱えて攻撃するなど、見たことがないし聞いたこともなかった。元より精霊力が能力として備わっている魔物には、精霊石も術文も必要ないのだ。
(まさかあの女……上位クラスなんじゃ……)
意識が混濁する中で、そのような考えが頭を過ぎった。私は遭遇したことはないが、上位クラスは精神攻撃を得意とすると聞いたことがある。
これは明らかに精神攻撃だった。先程エドが使ったスリープやコンフュージョンもこの部類に属するのだが、それと似たようなものなのかもしれない。
私には上位と中位の区別はつかなかったが、もしあの女が上位クラスの魔物であるならば、私には最早為す術がなかった。
中位クラスでさえ倒すことができないのである。更に上のクラスになど、どのような方法で倒せというのだ。
何れにせよ身体を動かすことのできない私には、これ以上抗えるはずはない。既に観念し、全身の力も抜いている。
身体が宙に浮いたように軽くなったような気がした。死ぬ瞬間とは、こういうものなのだろうか。
しかしこれほど早く、死に直面することになろうとは。
まだ旅立ってから一週間くらいしか経っていないというのに。
運がなかったのだ。
せめて最期くらいは家族の元で死にたかった。それだけが唯一心残りである。
「貴様らをここで殺すのは、赤子の手を捻るよりも簡単だ。
だがそれでは逆に単純すぎてつまらぬ。それに我らにとっては『鍵』でもあるからな。
精霊に選ばれし者が現れた記念として、今回は特別に延命させてやろう。
何れにせよ貴様らは再びわらわと会うことになる。全員の集結時にでも、また会いに来るがよい。
もっとも、それまで生き延びていられればの話だがな」
遠くなる意識の中で、女の声だけがはっきりと聞こえていた。