↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

どうか、お静かに

作者: 見守り人
掲載日:2026/11/03

 結婚式が嫌いだ。


 正確には、結婚式そのものが嫌いなわけではない。花嫁が入場するときに少しだけ歩幅を緩めることも、普段は無愛想な父親が娘を見送りながら鼻をすすっていることも、嫌いではない。何より結婚式は、ヴァイオリン弾きの私にとって大切な収入源である。


 嫌いなのは、式の途中で必ず邪魔をしに来る、あの男だ。


「この婚礼に異議を申し立てます」


 礼拝堂の扉が開き、黒い礼服の男がよく通る声で告げた。


 私は弓を動かしかけた姿勢のまま、目を閉じた。祭壇の前に立つ花嫁が息をのみ、花婿の親族がいっせいに振り向く。前列にいた老婦人が椅子を鳴らして立ち上がり、神官は困ったように結婚証書を押さえた。


 こういうとき、誰が一番冷静なのかといえば、ほかでもない侵入者本人である。


「お騒がせして申し訳ありません。申立人の委任状を持参しております。誓約の確認に入る前に、規則に従ってご確認ください」


 オスカー・ベルンハルト。二十七歳。いつ見ても襟元にしわ一つなく、人に嫌われるようなことを言うときでさえ丁寧に頭を下げる男。


 彼に演奏を止められるのは、これで七回目だった。


 今回も、私は誓約の直前に弾く最後の曲『愛の挨拶』の、終わりまでたどり着けなかった。花嫁が望んで選んだ曲で、子どものころ母から教わった、私のお気に入りでもある。穏やかな旋律が何度も形を変えて戻ってきて、最後はそっと静まっていく。幼いころの私には、誰かが優しく名前を呼んでいるように聞こえた。


 せめて最後まで弾かせてほしかったが、神官が演奏の中止を合図した以上、私にできることはない。


 舞台袖へ下がろうとすると、花嫁と目が合った。彼女は泣いていた。私は何となく目をそらした。誰かの大切な一日が壊れるところを、七度も見たいわけではなかった。



 その日の報酬は、予定より銀貨十枚少なかった。


 楽師組合の窓口で袋を受け取り、私は中身を数え直した。指の上で銀貨が小さな音を立てる。数え直したところで十枚増えるはずもないが、もう一度数えた。


「閉式手当は、婚礼が成立したときだけって決まりだからね」


 窓口の主人は申し訳なさそうに言った。彼が悪いわけではない。契約書をよく読まず、少しでも給料のいい仕事を選んだ私にも責任はある。それでも三か月で七回となれば、あまりに運が悪すぎた。


「婚礼が成立しなかったのは、私が音を外したからじゃありませんよ」


「分かっているさ。でも、決まりは決まりだ。今度から最後まで弾ける式を選ぶといい」


「選べたら苦労しません」


 私は袋を鞄へしまい、その足で礼拝堂に戻った。いつもなら腹が立っても帰って夕飯を食べれば忘れる。だが今回は、七回分の銀貨を思い浮かべると、どうしても黙っていられなかった。


 礼拝堂の裏庭には、オスカーがいた。石段に腰かけて書類を整理している。式を壊した当人が、見事な青空の下で落ち着いているのが、ますます気に入らなかった。


「ベルンハルト様。少し、お話があるのですが」


 私が声をかけると、彼はすぐに立ち上がった。


「リディアさんですね。先ほどはお仕事の途中で失礼しました」


「お名前をご存じだったんですか。それなら話が早いです。七回です。あなたには七回も演奏を止められました。数えています」


「こちらは七回分の閉式手当が入ってこないんですから。婚約者を奪うのがお仕事か趣味か知りませんが、もう少し時間を考えて来ていただけませんか」


「婚約者を奪ったことはありません」


「では、婚礼を壊すのが趣味で?」


「趣味でもありません」


 オスカーは困ったように眉を寄せた。世間では冷酷な婚礼荒らしだと噂されている男が、その顔を見ていると、少しだけ勢いが削がれた。


「私は婚礼の異議申立てを代理する仕事をしています。ご本人が声を上げられないとき、委任を受けて手続きをするんです」


「ご本人って、花嫁ですか」


「花嫁の場合もあれば、花婿の場合もあります」


「……花婿も?」


「もちろん。望まない結婚に困るのは、女性だけとは限りませんから」


 返す言葉が見つからず、私は口をつぐんだ。今日の花嫁の涙を思い出す。あれは悔し涙だと決めつけていたが、彼女がこの男に依頼したのなら、意味が違ってくる。


 オスカーは鞄から書類の控えを取り出しかけ、すぐに戻した。


「申立人の事情を勝手にお話しすることはできません。ただ、手続きは本人の署名と確認を経たものです。私の気分で式を止めているわけではありません」


「でも、どうして毎回あんなに遅いんですか。式の前に話せばいいでしょう」


「それができれば、私もそうしたい。事前に申し立てると親族に取り下げを迫られる人もいますし、当日の最後まで決心がつかない人もいます。誓約書に署名される前が、最後の機会なんです」


 あの場で声を上げる理由は分かった。しかし、音楽まで止める必要があるのか、やはり納得できない。


「事情は少し分かりました。でも、私の仕事が終わらなかったことも、事実です」


「おっしゃるとおりです」


 オスカーはあっさり頷いた。


「最後の演奏まで支払われるものだと思っていました。式場に確認もせず、あなたにご迷惑をかけたのは私の落ち度です。七回分について調べて、連絡します」


「そんなに素直に謝られると、こちらも怒りにくいんですけど」


「では、今から少し言い訳をしたほうがいいでしょうか」


「結構です。もう十分、腹は立っています」


 彼は小さく笑った。最初は感じの悪い男だと思っていたのに、その笑い方は意外に普通だった。私はそれも少し気に入らなかった。



 三日後、オスカーは本当に調べてきた。


 昼の練習を終えて組合へ戻ると、私宛ての封筒が届いていた。中には、婚礼が中断された場合の楽師の報酬についてまとめた紙と、過去の契約を見直すための申し立て書が入っている。難しい言葉には小さく説明まで添えてあった。


 封筒の底には、もう一枚の紙があった。


『もし差し支えなければ、最後まで弾けなかった曲を一度聴かせていただけませんか。料金はお支払いします。ベルンハルト』


 私は二度読み返し、吹き出した。


「この人は、いったい何を考えているのかしら」


 手紙の隅には「中止はさせません」と、余計な一文まで書かれている。


 断る理由はいくらでもあったが、曲を聴かせれば正式な仕事になる。私は値段を書いた返事を送った。すると翌日、提示した額を一枚も値切らない返事が届いた。


 約束した場所は、日曜日の午後の小さな練習室だった。窓の下に楽譜台が一つあるだけで、客を迎えるための装飾もない。オスカーは時間より少し早く来て、慣れない様子で椅子を壁際へ運んでいた。


「今日は、止めないでしょうね」


「その予定です。ただ、緊張で咳が出たら申し訳ありません」


「咳くらいなら許します。扉を蹴って入ってこられるよりは、ずっとましですから」


 彼は真面目な顔で頷いたので、こちらまで妙に緊張してしまった。


 弓を弦にのせる。『愛の挨拶』は、私にとって特別に難しい曲ではない。幼いころから何度も弾いているし、指の運びを間違えることもめったにない。それでも七回も途中で止められたあとの一曲は、胸の奥の小さなつかえを押し流すようだった。


 終盤、聞き慣れた旋律が静かに戻ってきた。私は最後の音へ向かうところでほんの少し呼吸を置き、弓をゆっくり運んだ。音が消えていくまで、オスカーは全く動かなかった。


 弾き終えたとき、オスカーはしばらく拍手をしなかった。


「お気に召しませんでした?」


「いえ。最後の音が、思っていたよりずっと静かで」


「もっと華やかに終わると思いましたか」


「正直に言うと。あれほど大勢の人が集まる式ですから」


「母は、静かなところが好きだったんです。どんな音楽でも、最後はちゃんと聴こうとしなければ聞こえない音があるんだって、よく言っていました」


 口にしてから、少し恥ずかしくなった。母の言葉を他人に話すつもりはなかったのだが、彼があまりに熱心に聞いてくれたからかもしれない。


「素敵な方ですね」


「ええ。今は隣町で弟の子守りをしながら、私の結婚を勝手に心配しています」


「……そんなに心配されているのですか」


「私が演奏を邪魔する男を七回も追い払えなかったと話したら、相手の顔を見たいと言っていました」


 彼は椅子から半分腰を浮かせた。私が笑うと、ようやく冗談だと気づいたらしい。


 その日、彼は約束どおりの料金を払った。私は初めて、きちんと演奏を終えたという満足感と一緒に練習室を出た。


 別れ際、オスカーが言った。


「先日の婚礼の方から、もしよろしければ一度お会いしたいと伝言を預かっています」


「花嫁さんが、私に?」


「はい。あなたの曲をもう一度聴きたいそうです」


 私は、教会で泣いていた女性の顔を思い浮かべた。



 花嫁だったイレーネは、王都の端で小さな陶器店を営んでいた。


 棚に並ぶ皿や花瓶はどれも少しずつ形が違っていて、値札も手書きだった。店の奥には作業場があり、土のにおいがする。イレーネは私たちを見ると、まだ乾ききっていない手を布で拭きながら出迎えてくれた。


「来てくださってありがとうございます。式の日は、せっかく素敵に弾いていただいたのに、ご迷惑をおかけしました」


「いえ、その……私は事情を知らずに、ずいぶん失礼なことを考えてしまって」


「そうでしょうね。私、ひどい顔をしていたと思います」


 イレーネは苦笑し、茶を出してくれた。結婚式が止まったあと、彼女は婚約を解消したのだと思っていた。ところが左手には、式の日に見たのと同じ指輪がある。


「まだ、結婚はしていないんですか?」


「来月、改めて式を挙げます。今度は小さな式にするつもりですけど」


 私は驚いて、思わずオスカーを見た。彼は平然と茶を飲んでいる。


「結婚する相手が嫌で、式を止めたわけじゃなかったんですね」


「はい。あの人のことは好きです。ただ、婚礼の前日に届いた契約書に、私の工房を夫の家へ渡すと書いてあったんです。相手の家からすれば当然のことだったみたいですけど、私は初めて聞きました」


 イレーネは店の奥へ目を向けた。棚の一番上に、欠けた青い皿が置かれている。


「父と母が始めた店なんです。結婚したら家の名前が変わるのは構いません。でも、店まで誰かのものになるなんて、私は約束していませんでした」


「花婿さんは、何と?」


「知らなかったんですって。それで怒って、いったん式を止めようと言ってくれました。だけど、お互いの親が大勢の前でそんなことを言えるはずがないって。私も、みんなの前で断ったらあの人に恥をかかせると思ってしまって」


 その結果、イレーネはオスカーへ依頼した。式が止まったあと、二人は親を交えて契約を見直し、ようやく自分たちが納得できる話し合いをしたという。


「私、あのとき泣いていたでしょう」


「……はい」


「安心して泣いてしまったんです。もう、このまま進まなくてもいいんだって思ったら、急に力が抜けちゃって」


 式の日の涙が、私の記憶の中で別の色になった。壊された一日だと思っていたものが、誰かにとっては守られた一日だったのだ。


「だから、もう一度、あの曲をお願いしたくて。次は最後まで聴きたいんです。もちろん、きちんとお支払いします」


「ぜひ弾かせてください。でも、一つだけ確認させてくださいね」


「何でしょう?」


「婚礼の最中に、またこの方が入ってくる予定はありませんよね」


 イレーネが笑い、オスカーも苦笑した。そのあと三人で、式の日取りや曲の長さについて相談した。私は初めて、途中で止められた結婚式の、その先にある話を聞いた気がした。



 それから、オスカーとは何度か会うようになった。


 最初は組合の契約について相談するためだった。彼が調べてくれたおかげで、基本の演奏料とは別に、途中で式が止まったときの補償を契約に定めるべきだと分かり、私たちは組合を通して式場と話し合った。すぐに七回分の銀貨が戻ってきたわけではないが、少なくとも次からは、音楽家だけが一方的に損をすることはなくなりそうだった。


 そのうち、仕事の相談が終わっても話が続くようになった。市場で偶然会えば屋台の焼き菓子を分け合い、彼の事務所の時計が壊れたと聞けば、私は知り合いの修理屋を紹介した。


 オスカーは何事にも慎重だったが、食べ物の好みだけは妙に子どもっぽい。辛い料理を食べるとすぐに水を探すくせに、人前では平気な顔をする。ある日、私がそのことを指摘すると、彼はひどく真剣な顔で言った。


「人の評判に関わる仕事なので、なるべく弱みは見せたくないんです」


「婚礼を止めに来た時点で、評判は十分悪いと思いますけど」


「……それは否定できません」


 彼は笑って水を飲んだ。私はその顔を見るのが少し楽しみになっていた。


 ある夕方、仕事帰りに雨が降り出した。オスカーは持っていた傘を広げたが、私の楽器ケースまで入れるには小さすぎた。


「これでは二人とも濡れてしまいますね」


「仕方ありません。私は楽器を守りますから、あなたは自分の頭を守ってください」


「それは、少し寂しい提案ですね」


 結局、私は彼の傘の柄を持ち、オスカーが私の楽器ケースを抱えて歩いた。狭い道で人をよけるたび、互いの肩がぶつかる。見上げると、彼の髪に雨粒がついていた。


「今日は、式を止めに行かないんですか」


「行きません。今日は休みです」


「そう。よかった」


 言ってから、何がよかったのだろうと思った。仕事に邪魔をされずに済むことなのか、雨の中で彼と少し長く歩けることなのか、自分でもよく分からない。


「リディアさん」


「はい」


「今度、仕事ではない日に、お食事にお誘いしてもいいでしょうか」


 彼がこちらを見ないのは、足元が滑りやすいからだろう。そう思って横顔を眺めていると、耳の先が少し赤いことに気づいた。


「辛い料理のお店でなければ」


「……気づいていたんですね」


「ええ。あなたは、隠し事がお上手ではないようですから」


 傘の下で彼が笑った。その日から、私たちが会う理由は、仕事だけではなくなった。



 オスカーの事務所へ初めて入ったのは、秋の初めだった。


 書類の山と、角のすり減った机と、壁際の古い長椅子。いかにも仕事ばかりしている人の部屋である。ところが窓辺に一つ、形の不ぞろいな木の鳥が置かれていた。


「これ、あなたが作ったんですか?」


「姉からもらいました。小さいころ、私が泣いていると、木を削って遊び相手を作ってくれたんです」


「お姉様がいらっしゃるんですね」


「はい。今は西の町で本屋をしています」


 彼は鳥を手に取り、指先で羽の部分をなぞった。


「姉は昔、家の都合で結婚しました。相手を嫌っていたわけではないんです。ただ、家を出て店を継ぎたいという姉の願いは、結婚したあともずっと後回しにされました」


 私は黙って続きを待った。


「式の前日、姉は私に『どうしたら断れるのだろう』と聞きました。でも私は、もう決まったことなんだから我慢するしかないと言ってしまったんです。姉は笑って、それきり何も言いませんでした」


 彼の声には、いつもの穏やかさがなかった。


「一年後、姉は家を出ました。今は元気に暮らしていますけど、あのとき誰かが話を聞いていたら、あんなに苦労せずに済んだかもしれません。だから私は、あのときの姉のような人が、一度だけでも立ち止まれるようにしたいと思ったんです」


「それで、今のお仕事を」


「はい。でも、リディアさんに言われるまで、式を止めたあとの人たちのことをあまり考えていませんでした。楽師や料理人にも生活がある。助けたい人が一人いれば、それ以外の人に不便をかけても仕方ないと思っていたところがあったんです」


 オスカーは鳥を窓辺に戻した。


「私も、式を止めるあなたを見て、誰かを悲しませたい人だと決めつけていました。だから、お互い様かもしれませんね」


「あなたのほうは、私に怒って当然だったと思います」


「それでも、七回分の恨みはまだ少し残っていますけど」


「……そこは、これから返していきます」


 ふざけた言葉のあとで、彼は真顔になった。私はうまく返事ができず、木の鳥を見るふりをした。


 その鳥は不格好だったが、窓から入る風に揺れて、まるで歌っているように見えた。



 八回目の騒ぎが起こったのは、その二週間後である。


 その日は珍しく、オスカーが式に来ないと分かっていた。演奏の依頼を受けたとき、私は念のため彼に確かめていたのだ。


「今度の婚礼に、あなたのお仕事は関係ありませんよね」


「今のところ、何も聞いていません」


「『今のところ』が不安なんですけど」


「その不安はもっともです」


 そう言って笑った彼を、私は少しだけ信じてみることにした。


 花嫁のユリアは、役所に勤める父親の一人娘だった。花婿のネイトは町の薬師で、身分は高くないが、二人は幼いころからの知り合いだという。式の前に会ったとき、ユリアは私の楽譜を覗き込み、『愛の挨拶』の最後の音が好きだと言ってくれた。


「終わりが、ちゃんと静かでしょう。うちでは父が何でも大きな声で決めてしまうから、静かな時間が好きなんです」


 彼女は笑っていたが、指先で何度も手袋の端を直していた。


「緊張しているんですか?」


「少し。でも、今日は自分で決めたことですから」


 その言葉を聞いて、私は安心した。今日こそ、誰にも邪魔されずに演奏を終えられると思った。


 ところが、婚礼の誓約に入る直前、礼拝堂の後ろで誰かが大声を上げた。


「待ちなさい! 娘はこの結婚を望んでいない!」


 ユリアの父親だった。身なりのいい男で、両手に書類を抱えている。彼は参列者の間を進み、神官へ一枚の紙を差し出した。


「こちらに本人の異議申立書がある。婚礼を中止してもらおう」


 私は思わず弓を下ろした。


 オスカーがいない日に限って、別の人間が式を止めに来るとはどういうことだろう。あまりの運の悪さに、怒る気にもなれない。


 神官は紙を受け取って顔を曇らせた。何か言いかけたユリアを、父親が片手で制する。


「娘はまだ若いのです。今は自分の気持ちを分かっていない。父親である私の判断を信じていただきたい」


「でも、私は――」


「ユリア。黙っていなさい」


 その声で、礼拝堂が静かになった。ユリアは唇をかみ、ネイトは彼女に向かって一歩進みかける。誰もが二人の次の言葉を待っているのに、肝心の本人たちだけが話せない。


 そのとき、礼拝堂の扉が再び開いた。


「申し訳ありません。少し確認させてください」


 聞き慣れた声に、私は思わず天井を仰いだ。


 黒い礼服のオスカーが、入口に立っていた。


「……あなたまで来るんですか」


 私の声が聞こえたらしく、何人かが振り向いた。参列者の中には彼を知る者もいたようで、小さなざわめきが広がる。


「またあの男だ」「今度は何をする気だ」


 オスカーは私を一度見たあと、神官へ向き直った。


「その申立書には確認が必要です。昨日、ユリア様の父君が、同じ書類を持って私の事務所へいらっしゃいました。私はご本人に確かめましたが、そんな申し立てはしていないとのことでした」


 父親の表情が変わった。


「貴様、娘に何を吹き込んだ!」


「何も。私は代理人としての依頼が来ているか確認しただけです。申立書の筆跡と、署名の経緯をお確かめください」


「娘は父親の言うことに逆らえないだけだ。本人のためを思えば、今は式を止めるべきだろう!」


 私は、昨日までの自分ならどう考えたかを思った。オスカーが現れ、書類を示し、結婚式を止める。何が起きているかを知らなくても、彼がまた誰かの幸せを壊しに来たと決めつけただろう。


 けれど、今度のオスカーは、式を止めるために来たわけではない。


 彼は一歩引き、ユリアの前を空けた。


「ユリア様、ご本人のお気持ちをお聞かせください」


 しかし、父親は彼女の前に立ち、話を遮ろうとした。周囲からも「親子の問題だ」「そんな話はあとにしろ」という声が重なる。私は楽譜台の前で、胸の奥が熱くなっていくのを感じた。


 私の仕事は音を出すことだ。会場を静かにする役目ではないし、結婚が正しいかどうかを決める資格もない。けれど今、目の前にいる花嫁の声が、誰にも届いていなかった。


 私は楽器を下ろし、一度だけ大きく息を吸った。


「皆様、どうか、お静かに」


 自分でも驚くほど、よく声が通った。


 何人かがこちらを向いた。楽師が口を挟むとは思っていなかったのだろう。私は急に怖くなったが、ユリアの顔を見て、もう一度言った。


「今、この方が何かお話ししようとしているんです。せめて、ご本人の言葉を最後まで聞いてからにしませんか」


 長椅子に座っていた老婦人が小さく頷いた。隣の男性も口を閉じる。礼拝堂の騒ぎが、少しずつ収まっていった。


 ユリアは一度深呼吸をして、父親を見た。


「お父様。私は、ネイトと結婚します」


「何を言う。お前はまだ――」


「最後まで聞いてください。私は子どものころから、お父様に大切に育てていただきました。それは感謝しています。でも、結婚するのは私です。お父様がこの人を気に入らないからといって、私の気持ちまで違うことにはなりません」


 彼女の声は震えていた。途中で言葉を探すように何度か間が空いたが、誰もその続きを奪わなかった。


 神官はオスカーから確認の事情を聞き、申立書をいったん脇に置いた。それから二人を別室へ案内し、規則に従って、それぞれの意思を個別に確かめた。ユリアの父親は最後まで納得していなかったが、本人の意思と一致しない申立書であることが分かると、式を止める根拠にはならなかった。


 少し遅れて婚礼が再開した。


 私は楽器を構え直し、指を弦に置いた。最後の一節に入る前、客席の端にいるオスカーが見えた。彼はいつものように背筋を伸ばして座り、こちらへ小さく頷いている。


 最後の音へ向かう前に、私はほんの少し呼吸を置いた。


 誰も、そのわずかな静けさを邪魔しなかった。


 私は『愛の挨拶』を、最後まで弾いた。



 式が終わったあと、オスカーは礼拝堂の外で待っていた。


「今日は、あなたのおかげで助かりました」


「人の結婚式で、これほど疲れたのは初めてです。あなたはいつもあんな仕事をしているんですね」


「今日は、止めないほうでしたけどね」


「なおさら厄介です。あなたが来たら式が止まると思っていたのに、今度はあなたがいないと始まらなかったんですから」


 オスカーは少し照れたように笑った。


「でも、私が何かを決めたわけではありません。ユリア様がご自分で選ばれたんです。あなたは、その声が聞こえる場所を作ってくださった」


「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、あまり褒めると調子に乗りますよ」


「そうですか。では、今夜のお食事で続きを」


 私はすぐには答えなかった。先ほどの婚礼で、ユリアが父親に向かって話す姿が、まだ頭に残っていた。勇気を出して口にした言葉を、隣で待っている人がいる。それは思っていたより、ずっと大切なことなのかもしれない。


「……今日は、私の好きなお店を選んでもいいですか」


「もちろんです」


「あなたが辛い料理を苦手なのは知っています。でも、私は時々、食べたいんです」


「では、別々の料理を頼みましょう。あなたの好きなものを、私に合わせて我慢する必要はありません」


「そうですね」


 私は笑った。オスカーも笑って、私の楽器ケースを持ってくれた。


 彼はその日、式を一度も止めなかった。けれど私の中で何かが動き始めたのは、きっとあの静かな一瞬からだった。



 イレーネの新しい婚礼は、秋の終わりに行われた。


 今度の式は小さな礼拝堂で、招待客も親しい人ばかりだった。花婿は式の前に私のところへ来て、結婚証書とは別に、イレーネの工房が彼女自身のものだと確認した書類を見せてくれた。


「もう十分ですから。そんなに何度も見せなくても信じますよ」


 私が笑いながらそう言うと、花婿は少し恥ずかしそうに書類をしまった。


「イレーネにも三回見せたんですが、『今度は私がちゃんと読んだ』って笑われましてね」


「それは、よかったですね」 


 私がそう答えると、彼は照れくさそうに笑い、花嫁のもとへ戻った。少し前まで険しい顔をしていたイレーネも、今日は嬉しそうだった。


 私は『愛の挨拶』の楽譜を広げた。客席の後ろにはオスカーが座っている。今度は仕事ではなく、招待客として来ていた。


 曲は予定どおり進んだ。最後の一節が近づいても扉は開かず、誰も叫ばない。私はもう心配するのをやめ、楽譜の先へ目を向けた。


 最後の音が、礼拝堂の中で静かに消えていった。


 弓を下ろすと、少し遅れて拍手が起こった。イレーネは花婿の手を握り、目元を押さえている。その涙を見ても、今度は悲しいのか嬉しいのか勝手に決めつけなかった。


 式のあと、私は庭で楽器を片づけた。夕方の風は冷たく、木々の葉が石畳を転がっていく。オスカーは人の輪を抜け、私のそばへ来た。


「今日は、全部聴けました」


「よかったですね。今回はあなたがいらっしゃっても、中断されませんでした」


「その言い方だと、私は毎回わざと邪魔をしていたように聞こえます」


「違うんですか?」


 私がからかうと、オスカーは困った顔をした。何度見ても、少し面白い。


 彼は自分の上着の内側から、小さな封筒を取り出した。私は反射的に身構える。


「まさか、また異議申立てですか」


「いいえ。これは、あなたへの手紙です。お仕事とは関係ありません」


 封筒には私の名前が丁寧に書かれていた。ここまで大切そうに渡されると、何が書いてあるかおおよそ想像がついてしまう。


「今、読んでも?」


「できれば、帰ってからにしてください。あなたの目の前で読まれるのは、少し恥ずかしいので」


「手紙を書くときは恥ずかしくなかったんですか?」


「……三回ほど書き直しました」


「それは大変でしたね。では、帰ってから楽しみに読みます」


 私は封筒を鞄にしまった。すぐに返事が欲しいとも、今ここで答えを出してほしいとも言わない。そのことが、何より嬉しかった。けれど、オスカーは私が答えを先延ばしにしたくないと思っていることまでは、知らないはずだった。


「オスカー様。やっぱり、今読んでもいいですか」


「……ええ。少し恥ずかしいですが、あなたがそうしたいなら」


 封筒の中には、一枚の便箋が入っていた。整った字で、いつの間にか私の演奏を楽しみにするようになったことや、食事の約束がある日は朝から落ち着かなくなることが書かれている。最後のほうは文章が何度も書き直されていて、迷った跡が少し残っていた。


『あなたのことが好きです。これからも、仕事ではない理由でお会いしたいと思っています。』


 私は顔を上げた。オスカーは、婚礼の真ん中で大勢を相手にするときよりも緊張した顔で立っていた。おかしくなって笑いそうになったが、私もたいして落ち着いてはいなかったので、何とかこらえた。


「ずいぶん丁寧な手紙ですね。あなたらしいです」


「もっと短くしたほうがよかったでしょうか」


「いいえ。嬉しいです。ただ、これからは手紙に書くだけじゃなくて、私にも直接言ってくださいね」


「……では、今ここで言っても?」


「ええ。私も、お返事をしたいですから」


 彼は少し息を整えて、私を見た。


「リディアさん。私は、あなたが好きです」


「私も好きです。あなたが来るといつも困っていましたけど、最近は、来ない日も気になるくらいには」


 オスカーはほっとしたように笑った。その顔を見て、私もようやく肩の力を抜くことができた。




 夕方の鐘が鳴り、遠くから新郎新婦を呼ぶ声が聞こえる。私たちはすぐに歩き出さず、しばらく石畳に落ちた葉を眺めていた。


「来週も演奏会にいらっしゃいますか?」


「もちろん。最初から最後まで聴きます」


「それなら、ひとつだけ約束してください」


「何でしょう」


「途中で話したくなっても、曲が終わるまで待っていてくださいね」


「……それは難しいですね。あなたに伝えたいことが、もうたくさんあるんです」


「大丈夫です。終わったら、私も同じくらいお話ししますから」

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


少しでも楽しんでいただけましたら、評価やリアクションをいただけると嬉しいです。


感想もひと言から大歓迎です。皆様のご感想が、今後の執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。