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誰も知らない隣人

掲載日:2026/04/20

一月の風は刃のように鋭かった。

男は駅の改札を抜けると、しばらくその場に立ち尽くした。三十二年前に産声を上げた町。それから十八年以上をここで過ごし、十九歳のときに家を出て、そして今、何も持たずに戻ってきた。

財布の中身は千円札が二枚と小銭が幾らか。それが彼の全財産だった。


三ヶ月前、男は六畳一間のアパートに一人でいた。

机の上にはロープがあった。ホームセンターで購入したとき、レジの中年女性は何も言わなかった。当然だ。ロープを買う理由など、庭仕事から引越しまでいくらでもある。

男はそのロープを手に取り、天井の梁を見上げた。

できなかった。

一週間後、彼はアパート近くの七階建てのマンションの最上階に立った。手摺を乗り越え、縁に足をかけ、眼下の路地を見下ろした。

やはりできなかった。

情けない、と思った。生きる気力もなければ、死ぬ勇気もない。ただそこにある空白のような存在。

ロープは部屋の隅に乱雑に置かれたまま、アパートの鍵と一緒に大家のポストに投げ込んだ。荷物は捨てた。職は一年前に失い、親とは八年前に連絡が途絶えていた。居場所も分からない。

行く場所が、なかった。

だから、戻ってきた。


マンションは記憶の中よりも姿が変わっていた。

八階建て、外壁は塗装が塗り直され、以前よりも少し明るい色になっていた。手摺の錆も無くなっていた。

エレベーターに乗り、五階のボタンを押す。

扉が開いた先の廊下は、覚えているよりずっと狭かった。五〇三号室。呼び鈴のプレートには知らない名前が書いてあった。

男はしばらくその表札を眺めていた。怒りも、悲しみも、湧いてこなかった。ただ、ここはもう自分の場所ではないという当然の事実だけが、静かに胸の中に落ちた。


階段室へ向かった。

エレベーターの隣、非常灯の薄い緑色に照らされた扉を開ける。コンクリートと鉄の匂い。懐かしかった。

最上階まで上がると、記憶通りの鉄格子の扉があった。南京錠がかかっている。しかし男の目は扉ではなく、その脇の空間に向いていた。

階段の手すりと壁の間、上方に向かってわずかに開いた隙間。子どもの頃は楽々通れたその隙間を、男は今、ずっと大きくなった体で見上げた。

無理かもしれない。

それでも、手すりに足をかけた。体を横向きにして、息を吐ききり、腹を引っ込めて、ギリギリ——通った。

鉄格子の扉の向こう側に降り立ったとき、埃っぽい空気と一緒に、子どもの頃の自分が肺に入ってきたような気がした。


そこは、エレベーターの機械室への狭い踊り場だった。

北側の壁に小さな窓がひとつ切り取られていて、曇りガラス越しに空の白さだけが伝わってくる。それ以外に明かりはない。

階段を上がった先には鉄の扉が一枚。鍵がかかっている。その手前は三畳ほどのコンクリートの空間で、階段側からは死角になっていて、住人には気づかれない造りだった。

男はその扉にもたれかかり、ゆっくりと床に座り込んだ。

冷たかった。コンクリートの冷たさは容赦なく、薄いズボンを通して皮膚に染みてくる。

しばらくすると、音が聞こえてきた。

エレベーターの動作音だった。モーターが唸り、ケーブルが動き、扉が開閉する。その一連の音が、驚くほど近くに聞こえた。

そして、声も。

——今日さ、————だったんだ——

男の声。スーツ姿だろうか、と男は思った。

うん、大変だったね——

女の声。カップルか、夫婦か。子供はいるのだろうか。

扉が閉まり、音は遠ざかった。

男は身体を丸め、膝を抱えた。

不思議な感覚だった。壁一枚を隔てて、誰かの日常が流れている。疲れた顔で帰宅して、夕飯の話をして、テレビをつけて眠る——そういう生活が、すぐそこにある。なのに自分はその外側に、文字通り、いる。

夜になると冷え込みが増した。

男はリュックから薄いウインドブレーカーを出して体に巻きつけた。食べ物は何もない。水のペットボトルが一本だけ。

眠れないまま、音を聞いた。

深夜になると、エレベーターはほとんど動かなくなった。それでも時折、誰かが乗る。夜遅く帰宅する誰か、ポスティング業者、配達員か。男には顔が見えない。名前も知らない。けれどケーブルがわずかに唸るたび、あるいは昇降路がかすかに震えるたび——その振動が、どこか人間の体温のように感じられた。


二日目の朝、空腹で目が覚めた。

窓の外の空が、白から薄青に変わっていく。

エレベーターが動き始めた。朝の、出勤と登校の時間。人の出入りが多く、騒がしい。

いってきます

子どもの声だった。高い、まだ舌足らずな幼い声。それに続いて、聞き取れないが母親らしき声も聞こえた。

男は目を閉じた。

自分にも、そういう朝があった。五〇三号室で、ランドセルを背負って、扉を開けて。母親が見送ってくれた。その頃はまだ家族というものが機能していた。どこで、何が、壊れたのか。考えようとすると、頭が重くなる。

このまま、ここにいよう。

餓死するまで、あるいは誰かに見つかるまで、ここにいよう。それが積極的な死への意志なのか、ただの無気力なのか、もう自分でも分からなかった。


三日目の夕方。

男は浅い眠りと朦朧とした意識を繰り返していた。起きている間は、何か音がするのをじっと待っていた。

エレベーターが止まる。扉が開く。複数の足音。

若い女性の声が聞こえた。高校生だろうか。

男は、気づくと泣いていた。

泣くつもりなどなかった。涙の理由も、よく分からなかった。リュックに額を押し当てて、静かに泣いた。

おかしな話だ。誰も自分のことを知らない。下を往来する人々は、頭上にこんな男がいるとは夢にも思わない。名前も、顔も、事情も、何も知らない。なのに——

なのに、こんなにも近くにいる。

壁一枚。それだけだ。


四日目の朝、男は立ち上がった。

水のペットボトルは空になっていた。体は震えていた。頭がぼんやりする。

手すりを使って隙間を抜け、階段を降りた。外に出ると、朝の光が眩しかった。目が痛いくらいに。

財布から百円玉を二枚取り出し、近くの自動販売機で温かいコーンポタージュを買った。

缶を両手で包む。熱かった。

ゆっくりと飲みながら、男は空を見た。一月の空は高く、薄い雲が流れていた。

次にどうするか、何も決まっていない。帰る場所も、頼れる人間もいない。

それでも——

缶の中の最後の一口を飲み下したとき、体の中心に、ほんの小さな、豆粒ほどの熱が残った。

エレベーターの動作音が、頭の中でまだ聞こえていた。

男は自動販売機の前にしばらく立っていた。

それから、歩き出した。

どこへ向かうのかは、まだ分からなかった。

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