誰も知らない隣人
一月の風は刃のように鋭かった。
男は駅の改札を抜けると、しばらくその場に立ち尽くした。三十二年前に産声を上げた町。それから十八年以上をここで過ごし、十九歳のときに家を出て、そして今、何も持たずに戻ってきた。
財布の中身は千円札が二枚と小銭が幾らか。それが彼の全財産だった。
三ヶ月前、男は六畳一間のアパートに一人でいた。
机の上にはロープがあった。ホームセンターで購入したとき、レジの中年女性は何も言わなかった。当然だ。ロープを買う理由など、庭仕事から引越しまでいくらでもある。
男はそのロープを手に取り、天井の梁を見上げた。
できなかった。
一週間後、彼はアパート近くの七階建てのマンションの最上階に立った。手摺を乗り越え、縁に足をかけ、眼下の路地を見下ろした。
やはりできなかった。
情けない、と思った。生きる気力もなければ、死ぬ勇気もない。ただそこにある空白のような存在。
ロープは部屋の隅に乱雑に置かれたまま、アパートの鍵と一緒に大家のポストに投げ込んだ。荷物は捨てた。職は一年前に失い、親とは八年前に連絡が途絶えていた。居場所も分からない。
行く場所が、なかった。
だから、戻ってきた。
マンションは記憶の中よりも姿が変わっていた。
八階建て、外壁は塗装が塗り直され、以前よりも少し明るい色になっていた。手摺の錆も無くなっていた。
エレベーターに乗り、五階のボタンを押す。
扉が開いた先の廊下は、覚えているよりずっと狭かった。五〇三号室。呼び鈴のプレートには知らない名前が書いてあった。
男はしばらくその表札を眺めていた。怒りも、悲しみも、湧いてこなかった。ただ、ここはもう自分の場所ではないという当然の事実だけが、静かに胸の中に落ちた。
階段室へ向かった。
エレベーターの隣、非常灯の薄い緑色に照らされた扉を開ける。コンクリートと鉄の匂い。懐かしかった。
最上階まで上がると、記憶通りの鉄格子の扉があった。南京錠がかかっている。しかし男の目は扉ではなく、その脇の空間に向いていた。
階段の手すりと壁の間、上方に向かってわずかに開いた隙間。子どもの頃は楽々通れたその隙間を、男は今、ずっと大きくなった体で見上げた。
無理かもしれない。
それでも、手すりに足をかけた。体を横向きにして、息を吐ききり、腹を引っ込めて、ギリギリ——通った。
鉄格子の扉の向こう側に降り立ったとき、埃っぽい空気と一緒に、子どもの頃の自分が肺に入ってきたような気がした。
そこは、エレベーターの機械室への狭い踊り場だった。
北側の壁に小さな窓がひとつ切り取られていて、曇りガラス越しに空の白さだけが伝わってくる。それ以外に明かりはない。
階段を上がった先には鉄の扉が一枚。鍵がかかっている。その手前は三畳ほどのコンクリートの空間で、階段側からは死角になっていて、住人には気づかれない造りだった。
男はその扉にもたれかかり、ゆっくりと床に座り込んだ。
冷たかった。コンクリートの冷たさは容赦なく、薄いズボンを通して皮膚に染みてくる。
しばらくすると、音が聞こえてきた。
エレベーターの動作音だった。モーターが唸り、ケーブルが動き、扉が開閉する。その一連の音が、驚くほど近くに聞こえた。
そして、声も。
——今日さ、————だったんだ——
男の声。スーツ姿だろうか、と男は思った。
うん、大変だったね——
女の声。カップルか、夫婦か。子供はいるのだろうか。
扉が閉まり、音は遠ざかった。
男は身体を丸め、膝を抱えた。
不思議な感覚だった。壁一枚を隔てて、誰かの日常が流れている。疲れた顔で帰宅して、夕飯の話をして、テレビをつけて眠る——そういう生活が、すぐそこにある。なのに自分はその外側に、文字通り、いる。
夜になると冷え込みが増した。
男はリュックから薄いウインドブレーカーを出して体に巻きつけた。食べ物は何もない。水のペットボトルが一本だけ。
眠れないまま、音を聞いた。
深夜になると、エレベーターはほとんど動かなくなった。それでも時折、誰かが乗る。夜遅く帰宅する誰か、ポスティング業者、配達員か。男には顔が見えない。名前も知らない。けれどケーブルがわずかに唸るたび、あるいは昇降路がかすかに震えるたび——その振動が、どこか人間の体温のように感じられた。
二日目の朝、空腹で目が覚めた。
窓の外の空が、白から薄青に変わっていく。
エレベーターが動き始めた。朝の、出勤と登校の時間。人の出入りが多く、騒がしい。
いってきます
子どもの声だった。高い、まだ舌足らずな幼い声。それに続いて、聞き取れないが母親らしき声も聞こえた。
男は目を閉じた。
自分にも、そういう朝があった。五〇三号室で、ランドセルを背負って、扉を開けて。母親が見送ってくれた。その頃はまだ家族というものが機能していた。どこで、何が、壊れたのか。考えようとすると、頭が重くなる。
このまま、ここにいよう。
餓死するまで、あるいは誰かに見つかるまで、ここにいよう。それが積極的な死への意志なのか、ただの無気力なのか、もう自分でも分からなかった。
三日目の夕方。
男は浅い眠りと朦朧とした意識を繰り返していた。起きている間は、何か音がするのをじっと待っていた。
エレベーターが止まる。扉が開く。複数の足音。
若い女性の声が聞こえた。高校生だろうか。
男は、気づくと泣いていた。
泣くつもりなどなかった。涙の理由も、よく分からなかった。リュックに額を押し当てて、静かに泣いた。
おかしな話だ。誰も自分のことを知らない。下を往来する人々は、頭上にこんな男がいるとは夢にも思わない。名前も、顔も、事情も、何も知らない。なのに——
なのに、こんなにも近くにいる。
壁一枚。それだけだ。
四日目の朝、男は立ち上がった。
水のペットボトルは空になっていた。体は震えていた。頭がぼんやりする。
手すりを使って隙間を抜け、階段を降りた。外に出ると、朝の光が眩しかった。目が痛いくらいに。
財布から百円玉を二枚取り出し、近くの自動販売機で温かいコーンポタージュを買った。
缶を両手で包む。熱かった。
ゆっくりと飲みながら、男は空を見た。一月の空は高く、薄い雲が流れていた。
次にどうするか、何も決まっていない。帰る場所も、頼れる人間もいない。
それでも——
缶の中の最後の一口を飲み下したとき、体の中心に、ほんの小さな、豆粒ほどの熱が残った。
エレベーターの動作音が、頭の中でまだ聞こえていた。
男は自動販売機の前にしばらく立っていた。
それから、歩き出した。
どこへ向かうのかは、まだ分からなかった。




