母の涙
母の涙
母が台所に立っていた。
朝の光が窓から差し込み、石造りの調理台を白く照らしている。母の細い指がクミンの実を石臼で潰し、粉末を土器の小皿に移している。隣の鍋からは豆の煮える湯気が立ち上り、焼き窯の中ではパンが膨らみ始めていた。干した葡萄と蜂蜜を練り込んだ特別な配合——祖母から教わった製法だと、母は以前に話していた。
アシュタルは台所の入り口に立ったまま、しばらくその背中を見ていた。
母は丁寧に味見をし、塩を足し、香辛料の配合を調整していた。指先で生地の弾力を確かめ、焼き色を見て火加減を変える。湯気に顔を近づけて香りを確認し、小さく頷く。いつもと同じ手順。いつもと同じ手間。何十年も繰り返してきた、朝の儀式。
だがこの食卓で「美味しい」と言う者は、もういない。
父は味を失って久しい。ヤリムも、もう何も感じない。アシュタル自身も、母の料理の香りがぼんやりとした輪郭でしか届かなくなっている。この台所から立ち上る匂いの豊かさを知っているのは、もう母だけだ。疲れを感じるのも母だけ。眠れるのも母だけ。朝起きて目の下に隈を作り、昼過ぎに居眠りをし、夜になれば横になって目を閉じる——その「普通」が、この家では一番孤独な振る舞いだった。
「母さん」
声をかけると、母は振り返って微笑んだ。頬がこけている。もともと病弱な体が、ここ数日でさらに痩せたように見えた。眠れているのは母だけだが、それは安らかな眠りではないのだろう。夜中に起き上がって家族の部屋を覗いている気配を、アシュタルは何度か感じていた。
「起きてたのか。今日は具合は」
「大丈夫よ。今日は少し調子がいいの」
母はそう言って、アシュタルの前に朝食を並べた。豆の煮込みと焼きたてのパン、オリーブの漬け物、薄切りの干し魚。パンの表面にはゴマが散らしてあり、焼き窯から出したばかりの湯気が立っている。美味そうだ、と頭では分かる。目が覚えている。鼻が微かに覚えている。だが口に入れた途端、全てが霧散する。小麦の味も、ゴマの香ばしさも、豆の旨味も——噛んでいる感触だけが唇と歯に残る。
母は向かいの椅子に座って、自分もパンを千切った。じっとアシュタルの食べる様子を見ている。その目が、何かを確かめるように細まった。
居間で二人きりになった。父は早くから商会に出ており、ヤリムは部屋で模型を作り続けている。母が椅子に腰を下ろすと、その小さな体がさらに小さく見えた。肩が内側に丸まり、膝の上で組んだ手が白い。
「母さん、聞きたいことがあるんだ」
「なあに」
「この——胸に出る印のようなもの。文様のこと。母さんは何か知らないか」
母の手が、膝の上できつく組み合わさった。指の関節が白くなるほど強く。しばらく黙っていた。窓の外から鳥の声が聞こえた。日常の音だ。その日常が、この家では薄い膜を一枚隔てた向こう側にある。
やがて、母は窓の外に目をやりながら、静かに口を開いた。
「お前のおじいさんも、昔、似たものを見たと言っていた」
「じいちゃんが?」
「ええ。私がこの家に嫁いで間もない頃よ——お前のおじいさんがまだ元気だった時。一度だけ、酒に酔って話してくれたの。『若い頃、胸に変な文様が出たことがある』って。普段はそういうことを話さない人だったから、よく覚えてる。おじいさんはそれを——『神の目印』と呼んでいた」
アシュタルは身を乗り出した。椅子が石の床を擦る音が、静かな部屋に響いた。
「神の目印? じいちゃんにも出たのか。それで、どうなった?」
「消えたのよ」
母はゆっくりと言った。
「いつだったかは分からない。おじいさんは経緯を語りたがらなかった。私が聞いても首を振るだけで。ただ——」
母は言葉を探すように目を伏せた。記憶の奥を手探りしているような、遠い目だった。
「消えた後のおじいさんは、少し悲しそうだった」
「悲しそう? 消えたなら喜ぶはずだろう。体が楽になるんだから」
「分からない。でも、そう見えたの。何かを失ったような顔をしていた。大事なものを手放した後の——そういう顔。お前のお父さんが大きな取引を断った時に似てたかもしれない。利益はあるのに、何かの理由で手放す時の」
アシュタルは黙った。商人の比喩で語る母の言葉が、妙に腑に落ちた。印が消えた。それは解除する方法があるということだ。だが消えた後に悲しむとは、どういうことなのか。解放されたのなら、安堵こそすれ悲しむ理由がない。
印を消すことには、何かの代価があるのか。何かを差し出さなければ消えないのか。
母が続けた。「それ以上は聞けなかった。おじいさんは翌日にはもう普段通りの顔をしていて、二度とその話はしなかった。私も忘れていたの。こんなことになるまで」
母の声が、最後の方で少し揺れた。唇を引き結んで、揺れを押し戻そうとしている。
「母さん」
アシュタルは母の目を見た。
「必ず治す方法を見つける。父さんも、ヤリムも、みんな——」
言い切る前に、母の目に涙が溜まった。こぼれないように瞬きを繰り返しているが、次から次に溢れてくる。頬を伝い、顎の先から落ちる。音もなく。
「お前だけは」
母の声が震えた。喉の奥から絞り出すような声だった。
「お前だけは、普通でいて」
その言葉が、胸に刺さった。
アシュタルは一瞬、自分の胸の文様のことを言おうとした。うっすらと浮かび始めている線のこと。味覚がほとんど消えていること。指の傷が異常な速さで塞がったこと。言うべきだろうか。正直に話すべきだろうか。
やめた。
母をこれ以上怯えさせたくない。嘘はつかない。だが——言わない。父が上着の裏地に布を縫いつけて文様を隠したように、アシュタルもまた沈黙という布で胸を覆った。
「大丈夫だよ、母さん」
その言葉がどれほど空虚かは、自分が一番よく知っていた。母の手を握った。温かい。骨ばって細い手だが、確かに血が通っている。この家で温かい手を持っているのは、もう母とアシュタルだけだった。いつまでそう言えるか分からないが——今は、まだ。
母は泣いた。声を殺して、肩を震わせて。嫁いできてから何十年も、この家の台所に立ち続けた人が、味のしない家族のために今日も料理を作り、誰も「美味しい」と言わない食卓を整え、そして一人で泣いている。アシュタルは母の肩に手を置いた。何も言えなかった。言葉は商人の武器のはずだが、家族の涙の前では、どんな言葉も値がつかない。
母が寝室に引き取った後、アシュタルは居間に残った。
窓から差し込む午後の光が床に長い影を落としている。食卓には朝食の皿がまだ残っていた。母が作った料理。冷めて、誰の舌にも届かなかった味。
考え込む。
祖父にも文様が出た。そして消えた。ということは解除する方法が存在する。希望と呼べるものが、初めて見えた。
だが祖父はもういない。手がかりを聞くことはできない。祖父がどうやって消したのかも、なぜ消えた後に悲しそうだったのかも、永遠に分からない——少なくとも、この家の中では。
神殿はダメだった。バアルは応えない。エルは隠居。神官たちは祈るしかないと言った。祈りで消えるなら、祖父も祈っていたはずだ。だが母の話では、祖父は神殿に通い詰めるような人ではなかった。別の方法で消したのだ。
なら、裏の世界に聞くしかない。
ウガルは表も裏もある港町だ。正規の市場が閉まった後に開く場所がある。禁制品だけでなく、呪術や神秘を扱う者がいるはずだ。闇市場——あそこなら、神殿が持たない知識を持つ者がいるかもしれない。
アシュタルは帳面を手に取り、闇市場で顔の利く知人の名前を書き出した。紹介なしには近づけない世界だ。だが商人には、裏にも表にも道がある。




