神殿の沈黙
神殿の沈黙
バアル神殿は丘の上にあった。
石段を一段ずつ登るたびに、街の喧騒が遠くなる。朝の光が石段の角を白く照らし、影が段ごとに濃く落ちている。振り返れば港が一望できた。かつては帆の林に埋め尽くされていた海面に、今は漁船の影がぽつりぽつりと浮かぶだけだ。水平線の向こうから、船は来ない。アシュタルは前を向き直し、石段を登り続けた。
神殿が見えてきた。
巨大な石柱が左右に聳え、その奥に青銅の扉が朝日を受けて鈍く光っている。柱には嵐雲を象った浮彫りが刻まれていた。稲妻を握る腕、渦巻く風、雨を降らせる雲の層。彫りの深い石の表面を朝日が舐め、影が立体的に浮き上がっている。バアルの力そのものを石に刻み込んだような壮麗さだった。商人として何度も奉納品を届けに来た場所だが、改めて見上げると首が痛くなるほど高い。
だが参道は閑散としていた。以前は朝から奉納の列ができていたこの道に、今は野良犬が寝そべっているだけだ。石段の隅に枯れた花輪が放置されている。誰かが置いて、誰も片づけなかったのだろう。供え物の皿が空のまま石柱の根元に並んでいる。参拝者が減ったのか、それとも供える食料がないのか。
神の不在は、建物を寂しくする。人の気配が消えた神殿は、壮麗であるほど空虚だった。
青銅の扉の前で門番に声をかけた。
「ベン=シャハル商会のアシュタルだ。奉納品の納入記録について、神官殿と商談がしたい」
商談。この一語が効いた。商人が来た、ではなく、金の話を持ってきた、という響き。神殿とて運営には金がいる。青銅器も香油も祭祀用の布も、全て商人から購入している。その取引を担う商会の息子が来たとなれば、門前払いにはできない。門番が奥に走り、しばらくして下級神官が現れた。若い男で、目の下に隈がある。祭服の裾が擦り切れているのに、アシュタルの目は気づいた。
帳面を見せた。過去三年分の青銅器の納入記録、価格の推移、在庫の見通し。数字を並べた帳面は、商人にとっては信用状と同じだ。下級神官の目が数字を追う。その間に、アシュタルは神殿の内部をさりげなく観察した。石柱の間に灯された祭祀の火が、以前より小さい。炎の色も薄い。橙色ではなく、青白い。まるで消えかけの灯芯のようだった。壁の燭台にも空きが目立つ。油が足りていないのか、それとも——火そのものが弱っているのか。
「……少々お待ちを」
下級神官が奥に消え、代わりに現れたのは年配の男だった。白い亜麻布の祭服に、額には青銅の嵐紋章。神官長だ。背は高く、肩幅も広い。威厳のある顔立ちだが、目の奥に疲労が滲んでいた。頬がこけ、口元に深い皺が刻まれている。以前この人を見た時は、もっと精悍な顔つきだったはずだ。
「商人の息子か。で、何の用だ。納品の話なら下の者に任せてある」
「ええ、納品の件もあります。ですが今日は別件で。率直に伺います」
アシュタルは一拍置いた。相手の目を見る。商談で最も重要なのは、核心を切り出すタイミングだ。早すぎれば軽く見られ、遅すぎれば機を逃す。
「バアル様は、祈りに応えておられますか」
神官長の顔が、石のように固まった。下級神官たちが息を呑む気配が背後でした。
奥の間に通された。
薄暗い部屋に祭祀用の器具が並んでいる。香炉から立ち上る煙が天井に這い、甘い匂いが鼻を突いた。だがその香りも、アシュタルにはぼんやりとしか分からない。乳香か、没薬か。以前なら嗅ぎ分けられたはずの匂いが、霧の向こうに沈んでいる。
神官長が口を開くまでに、長い沈黙があった。腕を組み、壁の浮彫りを見つめ、何度か口を開きかけては閉じた。やがて、観念したように息を吐いた。
「……応答がない」
吐き出すように言った。下級神官たちが互いに目を見合わせる。一人が手を握りしめ、別の一人が目を伏せた。
「二か月前からだ。祈りは届かず、神託は途絶えた。祭祀の火も——見ただろう。以前の半分の大きさだ。薪を増やしても、油を足しても、あの火は大きくならん。火の色も変わった。バアル様の炎は本来、雷のように白く燃える。今はただの火だ」
「二か月前」
アシュタルは帳面を開いた。異変の始まりとの時期を照らし合わせる。弟の味覚喪失、港の入港数減少、溺死した漁師の蘇り——全て、約二か月前だ。完全に一致する。
「バアル様の応答消失と、街の異変は同時に始まっている」
「……我々も、そう考えている」
神官長が認めた。その声には力がなかった。下級神官の一人が「バアル様は我々を見捨てたのでしょうか」と震える声で言い、別の神官が「滅多なことを言うな」と窘めた。だが窘めた方の顔も青ざめていた。
「一時的なものだ」神官長は言った。声に力を込めようとしているのが分かった。「バアル様は我らを見捨てはしない。必ず——」
だがその声は、自分自身を納得させるための響きしか持っていなかった。目が泳いでいる。信じたいが信じきれない——その揺らぎが、年配の神官の全身から滲み出ていた。
アシュタルは問いを重ねた。「何か対策は取っておられますか」。神官長は首を横に振った。「祈りを続けるほかない。我々は祈ることしかできん」。
それは対策ではなく、諦めだった。
「……商人の坊主よ」神官長が低い声で言った。「お前が何か知っているなら、教えてくれ。我々にはもう、何も見えん」
権威ある神官長が、十八歳の商人の息子に頭を下げかけている。それが、事態の深刻さを何よりも雄弁に語っていた。
神殿を出て、アシュタルは丘を下りずに別の道を取った。
ウガルにはバアル神殿だけでなく、もう一つの大きな神殿がある。丘の裏手、糸杉の並木の奥にひっそりと建つ——最高神エルの神殿だ。バアル神殿の壮麗さとは対照的に、古びた石造りの質素な建物だった。だが石の積み方は精緻で、壁面には細かい幾何学文様が刻まれている。古い。バアル神殿よりもはるかに古い建物だ。
門は閉ざされていた。
分厚い樫の扉に青銅の錠前。その前に門番が一人、槍を持って立っている。日に焼けた顔に表情がない。
「エル様にお目通り願いたい」
「エル様は御隠居なされた。どなた様の面会もお受けにならない」
「いつからだ」
「さあ。私が任じられた時には既にそうだった。十年は前のことだ」
「バアル様の応答が途絶えている。街で異変が起きている。エル様ならば何かご存じではないかと——」
「どなた様の面会もお受けにならない」
門番は同じ言葉を繰り返した。抑揚のない声。目も合わせない。言葉を交わしているのではなく、壁に話しかけているようなものだった。交渉の余地がない。この男は命令を忠実に実行しているだけで、判断する権限を持っていない。
アシュタルの胸に苛立ちが込み上げた。バアルは応えない。エルは隠居。この街で最も高い二柱の神に頼れないなら、人間はどこに助けを求めればいい? 神殿に祈れと言われて祈った者たちは、今も部屋の中で眠れない夜を過ごしている。味のしない食事を口に運んでいる。冷たい手で家族を抱いている。
丘を下りながら、振り返った。
バアル神殿の頂に、嵐神の巨大な石像が立っている。右手に稲妻を掲げ、左手を前に差し出す姿。差し出された手は、民に恵みを与える姿勢だと神官は言う。夕陽が石像の顔を照らしていた。その目が——少しだけ潤んで見えるのは、光の加減だろうか。石の目に涙など溜まるはずがない。だが夕陽の角度が、そう見せていた。
「いなくなった、か」
呟いて、石段を下りた。
神がいなくなる。それは商売で言えば——取引相手が蒸発したようなものだ。金を預けた相手が姿を消す。残されたのは空の金庫と、返済されない約束の山。信仰という名の前払い金を、何世代にもわたって払い続けてきた。その相手が消えた。
踏み倒されたのか。
それとも——逃げたのか。
どちらにしても、帳簿の上では同じことだ。損失は確定している。問題は、その損失を誰が払うかだ。
石段を下り終えた時、市場の喧騒が耳に戻ってきた。怒鳴り声と、子どもの泣き声と、物が割れる音。日常が壊れていく音だ。
神殿は無力だった。ならば、別の手を探すしかない。




