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眠れない弟

眠れない弟


 深夜に目が覚めたのは、廊下の向こうから灯りが漏れていたからだ。

 弟の部屋だった。

 アシュタルは音を立てないように扉を開けた。ヤリムは机に向かって座っていた。手元には小刀と木片。船の模型を彫っている。ランプの火に照らされた細い指が、驚くほど正確に木を削っていた。木屑が床に散らばり、杉の匂いが部屋に満ちている——はずだった。アシュタルの鼻には、かすかな木の気配しか届かない。

 部屋を見回して、息を呑んだ。

 完成した模型が棚に並んでいた。一隻、二隻ではない。十五隻。いや、もっとある。窓際にも床にも、大小さまざまな船が整然と並べられていた。帆を張った大型の交易船、竜骨の見える建造途中の船体、小さな漁船、細長い軍船。どれも細部まで丁寧に作り込まれている。帆柱の継ぎ目、舷側の板の重なり、錨の鎖の一環一環まで。美しい出来だった。

 美しいが、その数が異常だった。人間が普通に寝起きしながら作れる量ではない。

「兄ちゃん」

 ヤリムが振り返った。笑っている。目の下に隈はない。五日も眠っていないはずなのに、肌は滑らかで、瞳は澄んでいる。疲労の色がまったくないことが、かえって不気味だった。

「見てよ、これ。ティルスの三段櫂船さんだんかいせん。帆柱の角度をちゃんと再現したんだ。こっちの大きいのはビブロスの穀物運搬船で、船底が平らなのが特徴なんだよ」

「……何日起きてる?」

「んー。四日? 五日かな。でも全然平気だよ。眠くないから、いっぱい作れるんだ」


 アシュタルはヤリムの隣に腰を下ろした。模型を一つ手に取ると、確かに見事な出来だった。木目を活かした船体の曲線、糸で再現された索具さくぐ、小さな木片を削り出した舵。十四歳の少年が作ったとは思えない精巧さだ。

「この船はね、竜骨が杉でできてるんだ」ヤリムは嬉々として語り始めた。膝を抱えるように椅子の上で体を丸め、目を輝かせている。「レバノン杉。強くてしなるから、大波にも耐えられる。普通の松材だと三年で腐るけど、杉なら十年は持つ。帆の角度は風向きに合わせて三段階に変えられてね——」

 船の構造、帆の仕組み、星を読む航海術。弟の口から溢れ出す知識量にアシュタルは改めて驚いた。この子は本当に船が好きなのだ。港の船乗りたちに聞いた話、父の書斎で読んだ航海記録、市場で見かけた外国船の観察——全てを吸収して、自分の知識に変えている。いつか海に出たいと、本気で思っている。

「——それでね、北極星を基準にして、季節風の向きで東西を判断するんだ。でも曇りの日は波の向きで代用できるって、あの船乗りのおじさんが——」

「ヤリム」

「ん?」

「お前、眠れないのか」

 弟は小刀の手を止めた。首を傾げる仕草はいつもと変わらない。少し考えるように唇を尖らせて、それから困ったように笑った。

「眠れないっていうか……兄ちゃん、眠るってどんな感じだっけ? 目を閉じてたら朝になるんだよね? なんか、その感覚が分からなくなってきた」

 さらりと言った。大したことではないかのように。虫に刺されたかな、程度の軽さで。

 アシュタルは何も返せなかった。眠り方を忘れる。それはどういう感覚なのか。呼吸の仕方を忘れるのと、同じくらい根源的な喪失ではないのか。自分だって最近は眠りが浅い。だがまだ眠れる。目を閉じれば、意識が遠のく感覚がある。弟にはもう、それがない。

「……大丈夫だよ。そのうち戻るさ」

 言ってしまってから、根拠のない嘘だと気づいた。


 弟の部屋を出て、自室に戻った。

 机の上に置かれた帳面には触れず、アシュタルは自分の手を見つめた。

 味覚が、ほとんど消えていた。

 今朝のパンは小麦の香りがしなかった。母が丹精込めて捏ねた生地の、あの焼きたての甘い匂いが、記憶の中にしかない。昼に食べた干し魚は塩の味がかろうじて分かった程度で、夕食の羊肉の煮込みに至っては、口に入れた温かさだけが唯一の感触だった。クミンと胡椒を効かせた、あの濃厚な香り。子どもの頃から大好きだった味。今の自分には、噛んだ時の肉の繊維がほどける感触しか分からない。

 そして昨日、帳面の角で指を切った。

 血はほとんど出なかった。赤い線が皮膚に走り、じわりと滲んだ血の珠が一粒。それだけだった。数分もしないうちに傷口が塞がり、跡すら残らなかった。痛みも一瞬だけ。針で刺されたような鋭さが走って、すぐに消えた。

 死なない体になりつつある。

 それは恩恵ではない。人間であることをひとつずつ剥がされていく過程だ。味を失い、眠りを失い、痛みを失い——その先に何が残る? 心臓が動いて息をしているだけのうつわか。父のように体温を失えば、触れても何も感じなくなる。抱き締めても温もりが返ってこない。それは生きていると言えるのか。

 弟はまだ笑える。まだ船の話に目を輝かせる。だがあの眠れない夜が積み重なった先に、何が待っている? 声を失うのか。感触を失うのか。笑い方を忘れるのか。

 待っている時間はない。

 アシュタルは帳面を開いた。昨日の調査結果を見返す。古い家系。バアル神殿を中心とした同心円。血に関係がある何か。通常の手段——商人ネットワーク、文献、聞き込み——では、もう限界だった。知り合いの商人たちは情報を持っていたが、その情報は全て「症状」の話であって「原因」の話ではない。

 異変の中心はバアル神殿だ。ならば神殿に直接乗り込むしかない。だがバアルの神官たちは閉鎖的で知られている。神事に関わることは門外不出、一介の商人が押しかけたところで門前払いだろう。

 どう切り込むか。

 力ずくは論外だ。体力も武力もない人間が神殿の門を蹴破れるわけがない。泣き落としも効かない——神官は感情で動く商売相手ではない。ならば取引だ。神官が欲しがるものを持っていけばいい。商人のやり方で、扉をこじ開ける。

 何を持っていくか。アシュタルは帳面の余白に、神殿への奉納品の流通記録を書き出し始めた。ベン=シャハル商会は、バアル神殿に青銅器を納入している取引先だ。納入実績、価格推移、在庫状況——その数字は、神殿の運営にとっても無視できない情報のはずだ。


 夜が深くなって、もう一度ヤリムの部屋を覗いた。

 弟は横になっていた。毛布を胸まで引き上げて、天井を見つめている。目は開いている。まばたきもせずに。ランプは消されていたが、窓から差し込む月明かりが弟の顔を青白く照らしていた。

「眠れないの?」

「ううん。眠りたいんだけど、眠り方を忘れちゃったみたい」

 ヤリムは笑った。暗い部屋の中で、その笑顔だけが妙に明るかった。不安そうでもなく、悲しそうでもない。本当に不思議がっているだけの、無邪気な笑顔。それが胸をえぐった。

 アシュタルはベッドの縁に腰を下ろし、弟の髪を撫でた。癖のある黒髪が指の間を滑る。自分によく似た、だがまだ幼さの残る顔。その手の下で、弟の体温はまだ残っていた。

 まだ、温かい。

 この温もりが消える前に、答えを見つけなければならない。

 アシュタルは弟の髪を撫で続けた。眠れない弟のそばで、自分もまた、眠ることを忘れたように座り続けた。窓の外では月が西に傾き、星が一つずつ消えていく。夜が明ける気配がして、ようやくアシュタルは立ち上がった。弟はまだ目を開けていた。


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