海底の宮
海の底は、思っていたよりも明るかった。
左右の海水の壁を通して光が差し込んでいる。碧と藍の中間のような色合いの光が、足元の砂に揺れる模様を描いていた。水族の影が壁の向こうを横切るたびに、光の模様が乱れ、また整う。
足音が奇妙に反響した。砂を踏む音が壁に跳ね返り、二重三重にずれて聞こえる。閉じた空間だった。天井は海水で、壁も海水で、ただ足元だけが乾いた砂。呼吸はできる。だが空気が重い。水圧ではない。もっと別の——この場を支配する意志の重さだった。
「潮の匂いがしない」
アシュタルが呟いた。海の底にいるのに、潮の匂いが消えている。代わりに嗅いだことのない香りが漂っていた。深い、冷たい、石のような匂い。古い場所の匂いだ。
アナトは何も言わなかった。半歩後ろを歩いている。手は剣の柄にかかったままだ。金色の目が左右の壁を見ている。警戒の目だった。赤い髪が海水の光を受けて、水底の炎のように揺れていた。
壁の向こうで、何かが動いた。巨大な魚——いや、魚ではない。うねる長い体が壁に沿って泳いでいく。海蛇だ。体長は船一隻分はある。鱗が海水の壁越しにぼんやりと光っている。アシュタルの歩みに合わせるように、ゆっくりと並走していた。
見張りか。あるいは案内か。
道は下り坂になった。
緩やかに、だが確実に深くなっていく。光の色が変わった。碧から藍へ、藍から紺へ。深くなるほど暗くなる——はずだったが、前方に別の光源が見えた。ぼんやりと白い光が、道の先で揺れている。
門だった。
巨大な門が、海底の砂の上に立っていた。門柱は珊瑚だ。白い珊瑚が複雑に絡み合い、枝を伸ばし、人の背丈の五倍はある柱を形成していた。柱の表面に貝殻が埋め込まれている。螺鈿のように光を反射し、近づくたびに色が変わった。白から虹色へ、虹色から銀へ。
門番はいなかった。
当然だ。ヤムが「来い」と言った。それが通行証であり、門番であり、鍵だ。この海域の主の言葉が、そのまま法になる。
門をくぐった。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。重さが増したのではない。質が変わった。人間の世界の空気ではないものを吸い込んでいる——そんな感覚だった。
宮殿の内部。
珊瑚の柱が等間隔に並ぶ広大な空間が広がっていた。柱の一本一本が生きた珊瑚で、微かに脈動しているように見える。壁は真珠で飾られていた。大小さまざまな真珠が壁面に嵌め込まれ、自ら発光している。天井は——天井がなかった。頭上に海水が流れていた。透明な海水が薄い膜のように天井を形成し、その向こうに深海の暗闇が見える。魚の腹が光った。
アシュタルは思わず足を止めた。
商人の目が動いた。壁の真珠を見た。柱の珊瑚を見た。床に敷き詰められた貝殻の精緻な模様を見た。値をつけようとする習性が一瞬だけ作動し、すぐに止まった。値がつかない。人間の市場では扱えない規模の、扱えない種類の美だった。
「……これだけの装飾を、誰が見ているんだ」
声に出してしまった。宮殿は無人だった。廊下にも、部屋にも、誰の姿もない。海神の居城には侍従も兵士もいない。この豪華絢爛な空間を、ヤムだけが見ている。
贅沢ではない。孤独だった。
商人として、空間を読む。ウガルの大商人の屋敷にも豪華な調度品はあった。だがそれは客に見せるためのものだ。来客があり、取引があり、宴がある場所だからこそ装飾に意味がある。誰も来ない場所を飾り立てるのは——自分自身に何かを証明しようとしている者の行動だ。
帳面に書き留めたかった。だが今は書けない。頭の中に記録した。ヤムの宮殿——無人。装飾過多。孤独の証拠。
廊下を進んだ。アナトが低い声で言った。
「無駄口を叩くな。ヤムは全て聞いている」
聞かれていて構わないことしか言っていない。だが忠告は受け取った。口を閉じた。
突き当たりに、もう一つの門があった。先ほどの門より大きい。柱が黒い珊瑚に変わっている。その奥に——
謁見の間。
広い。港の広場がまるごと入るほどの空間だった。天井の海水が渦を描いて流れており、光が螺旋状に降り注いでいる。正面に巨大な玉座があった。白い珊瑚で造られた玉座。背もたれが高く、海草のような装飾が施されている。
そこに、いた。
若い男の姿をした存在が、玉座に腰を下ろしていた。
深い藍色の髪が腰まで届いている。常に濡れているように見えたが、水滴は落ちていない。肌は青みがかった白。首筋から鎖骨にかけて鱗のような紋様がある。流動的な布——水のように形を変える衣を纏い、指先には交易品の装飾品がいくつも嵌められていた。金の腕輪、銀の指輪、翡翠の耳飾り。どれも見覚えのある意匠だった。人間の職人が作ったものだ。略奪品ではなく——「通行税」で得たもの、とヤムは言うのだろう。
目を見た。
商人は相手の目を見る。
碧い瞳だった。だが人間の碧ではない。瞳の奥に渦潮が回っている。文字通りの渦潮だ。碧い虹彩の中で水流が螺旋を描き、底が見えない。見つめていると引き込まれそうになった。
声を発していなかった。だが部屋全体が震えていた。ヤムがそこにいるだけで、空気が、床が、壁が——空間そのものがこの存在の重さに反応して振動していた。
アナトの手が剣をきつく握った。
アシュタルは——
商人の礼を取った。
右手を胸に当て、深く一礼する。ウガルの商人が取引先に初めて面会する時の礼だ。父に教わった。祖父が父に教え、父がアシュタルに教えた。相手がどれほどの大商人でも、どれほどの権力者でも、礼の深さは変えない。卑屈にならず、傲慢にならず。対等な取引者としての一礼。
顔を上げた。
ヤムの碧い目がこちらを見下ろしていた。渦潮の瞳の中に、微かな——笑みのようなものが浮かんでいた。友好的な笑みではない。珍しい魚を見つけた漁師の笑みだった。
「人間が通商を願い出るとは久しぶりだ」
声が響いた。海底から這い上がるような低音。肋骨の内側に触れてくるような声だ。
「面白いから来させたが、後悔するかもしれんぞ」
威圧だった。圧倒的な存在が、格下の者に温情を見せるふりをしている。この手の台詞は商売の世界でも聞く。大商人が小商人に言うのだ。「帰るなら今だぞ」と。だがその台詞を言うこと自体が、相手に興味を持っている証拠だ。本当に興味がなければ、門前で追い返している。
アシュタルは顔を上げたまま答えた。
「後悔は取引が成立してからするものです」
声が震えなかったのは奇跡だった。いや——震えていたかもしれない。だが言葉は出た。それでいい。商人に必要なのは、声の震えを止めることではなく、震える声で正しい言葉を選ぶことだ。
ヤムの眉が動いた。
渦潮の瞳の中で、水流が一瞬だけ速くなった。
そして——玉座から身を乗り出した。
「では——関税の話をしようか」
その一言で、謁見の間の温度が下がった。
壁の真珠の光が翳り、天井の海水の流れが速くなった。ヤムの声が変わっていた。世間話の声ではない。取引の席についた者の声だ。
いよいよだった。
「関税」——あの古老が震えながら語った、ヤムの海域を通る代価。金銭ではない何か。払えなかった者は海に沈む。
その正体が、今から明かされる。
アシュタルは帳面を握りしめた。掌が汗ばんでいる。
商談が、始まる。




