商人の提案
朝日が窓から差し込んだ時、アシュタルは帳面を閉じた。
一晩かけて辿り着いた結論が、帳面の最後のページに書かれている。何度も書いては消し、消しては書き直した跡が残っていた。墨で汚れた指先が、思考の試行錯誤を物語っている。だが最終的に残った一行は、朝の光の中で読んでも揺るがなかった。
窓の向こうから港の音が聞こえてくる。波の音。海鳥の声。漁師が網を引く掛け声。死にかけた港にも、朝は来る。
アナトは壁に背を預けたまま、一晩動いていなかった。腕を組み、目を閉じていた——が、アシュタルが帳面を閉じた音で金色の目が開いた。一瞬の迷いもなく開いた。本当は一晩中起きていたのだろう。
「出たか」
「出ました」
アシュタルは卓の上に帳面を置いた。燃え尽きた蝋燭の残骸を脇に寄せ、昨夜の整理を指先で辿る。
「古老の証言をもう一度整理します。ヤムは海域の通行者に『関税』を課している。内容はヤムの裁量で決まる。バアルが健在だった頃は形式的なもので、歌一曲で通してもらえた。払えないものは求めなかった。そして——約束は守る。関税を払えば、確実に通してもらえた」
「だが今は払えないものを求める。それは昨夜聞いた」
「ええ。でも大事なのはそこじゃない。大事なのは、ヤムが今も『関税』という形式を取っていることです」
アナトの眉がわずかに動いた。
「関税は取引です。一方的な略奪じゃない。もし船を沈めたいだけなら、関税なんて面倒な仕組みは要らない。近づく船を片端から沈めればいい。でもヤムはそうしていない。わざわざ関税を課して、払えなかった場合に沈めている。つまり『通行の対価』という枠組みの中で動いている。枠組みがあるということは——」
「交渉の余地がある、と?」
「そういうことです」
アシュタルは椅子から立ち上がった。窓辺に歩み寄り、港を見下ろした。朝の光に照らされた波止場。漁師たちが網を広げている。その向こうに広がる海——碧い近海と、暗い沖合い。境界線が朝日の中でもくっきりと見えていた。
「ヤムが力だけで海を閉ざしているなら、こちらも力で応じるしかない。でもヤムは力だけで支配していない。『関税』という制度を使っている。制度で支配する者には、制度の中で向き合える」
「人間がヤムと取引できるものか」
アナトの声には嘲りが混じっていた。だが昨夜のような完全な否定ではない。力では無理だと認めた後だ。嘲りの奥に、微かな——本当に微かな——問いかけがある。お前の言うことに一理あるとして、本当にできるのか、と。
「対等じゃありません。それは認めます」
アシュタルは振り向いた。朝日を背に受けて、アナトの金色の目をまっすぐ見た。
「海の神と人間の商人です。力の差は比べものにならない。まともにぶつかったら一瞬で消し飛ぶ。そんなことは分かってます」
「分かっていて、なお商談を持ちかけると?」
「商人はずっとそうしてきたんです」
帳面を手に取った。
「相手の方が強い。相手の方が金を持っている。相手の方が立場が上。ベン=シャハル商会は大商会じゃありません。父がよく言っていました。『大きい相手と取引する時は、正面から行くな。横に立て』と」
「横に立つ?」
「相手が想定していない価値を提示するんです」
アナトの金色の目がアシュタルを見つめた。腕を組んだまま、わずかに首を傾げている。
「力で劣る者が力ある者に向かう時、正面からぶつかれば潰される。当然です。だから正面からは行かない。相手の横に立つ。相手が持っていないものを見せる。相手が欲しがっているのに自分では手に入れられないものを差し出す。そうすれば、力の差は——少なくとも取引の席では、関係なくなる」
「……」
「ヤムは海の神です。海のことなら何でも持っている。力も、領域も、支配権も。海に関するものを差し出しても意味がない。だからこそ——海の神が持っていないものを見つける。それがヤムにとっての価値になる」
「お前に、海の神が欲しがるものが分かるのか」
「まだ分かりません」
正直に答えた。ここで見栄を張っても意味がない。
「でもヤムが何を持っていて、何を持っていないか。何に満足していて、何に飢えているか。それを調べれば、見えてくるはずです。商売の基本中の基本です。相手の在庫を知れば、何を売れるかが分かる」
アナトは黙っていた。
長い沈黙だった。朝の光が窓から差し込み、蝋燭の残骸と帳面の上を照らしている。
金色の目がアシュタルを見ている。嘲りは消えていた。代わりにあるのは——何だ。値踏みか。いや、もう少し複雑な何かだ。馬鹿げている、と思っているのだろう。人間が海の神に商談を持ちかけるなど、前代未聞だ。神話が始まって以来、聞いたことがない。
だが——他に手がない。
力では無理だと昨夜認めた。迂回路はない。海を渡らなければバアルに近づけない。残された道は、この商人の正気を疑うような提案だけだ。
アナトが鼻を鳴らした。
「好きにしろ」
短い一言だった。
「だが失敗すれば即座に私が斬る。ヤムをではない。——状況をだ。お前が沈む前に引きずり出してやる」
「斬って解決するなら最初からそうしてますよね」
「口を慎め」
アナトの目が怒りを帯びた。だが——唇の端がわずかに引きつっている。怒りなのか、それとも別の何かなのか。判別しにくい表情だった。アシュタルはそれ以上追わなかった。商談の席では、相手が一歩退いた直後に追い打ちをかけない。余裕を残す。次に繋がる。
「では、行きましょう」
帳面を腰に挟み、外套を羽織った。宿の戸を開ける。朝の光が差し込む。潮の匂い。波の音。乾いた風に海鳥の声が乗っている。
港町の朝は静かだった。漁師が網を繕い、船乗りが桟橋で欠伸をしている。誰もが海を横目で見て、すぐに目を逸らす。暗い沖合いを直視しないようにしながら暮らしている。見なければ、怖くない。知らなければ、平気でいられる。
だが商人は、見ないふりができない。
アシュタルはまっすぐ歩いた。港の突端——桟橋の先端、海に最も近い場所に向かう。
すれ違う船乗りたちが怪訝な目を向けた。あの先に行ってどうする。海は閉じている。船は出ない。何もできることはない。そういう目だ。
だが商人は、何もできないと言われた場所にこそ商機がある、と知っている。全員が諦めた取引の中に、一つだけ残された条件がある。それを見つけるのが、商人の仕事だ。
桟橋の先端に立った。
眼前に海が広がっている。足元で波が柱を洗い、白い泡が渦を巻いて引いていく。近海は美しい碧色。だがその先——あの暗い海域が、壁のように横たわっている。見えない国境線。ヤムの領域。
風が吹いた。海風。潮の匂い。その中に、あの重たい気配が混じっている。海の神の気配。巨大な何かがこちらを見つめている感覚。
アナトが隣に立った。黙って。腕を組んで。暗い海を睨んでいる。
アシュタルは深く息を吸った。
海の匂い。神の匂い。そして——取引の匂い。
商人の鼻は、それを嗅ぎ分ける。どんなに強大な相手でも、「取引」の形式を取っている限り、交渉の余地はある。ヤムは海を閉ざした。だが「関税」という名で閉ざした。それは扉に鍵をかけたのではなく、扉に値札をつけたということだ。
値札がついているなら——商人の出番だ。
「さて」
アシュタルは暗い海を見据えた。
「海の神に、商談を申し込みに行きましょうか」
アナトは答えなかった。
だが桟橋の先端で暗い海に向かって立つ商人の背中を、金色の目がじっと見つめていた。その目の奥にある感情の名前を、アナト自身はまだ知らなかった。




