閉じる港
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港が死んでいた。
アシュタルは桟橋の端に立ち、かつて何十隻もの商船がひしめいていた岸壁を眺めた。今そこにあるのは、地元の漁船が五隻だけだ。帆を畳んだまま波に揺られている船体は、まるで打ち捨てられた家具のようだった。潮風が運んでくるのは魚の匂いではなく、乾いた埃の匂い。海が近いのに、港は砂漠のように干上がっていた。
外国船は一隻も来ない。
「死なない港には近づくな」
そんな噂が沿岸の交易都市に広まったのは、もう半月も前のことだ。ティルスの船主組合が最初にウガルとの取引を凍結し、ビブロスがそれに続いた。シドンの香辛料商人は「呪われた港に船を入れたら、船ごと呪われる」と触れ回っているらしい。噂というのは銅貨より足が速い。そしてはるかにたちが悪い。
市場では値札の書き換えが追いつかなくなっていた。輸入品——特に麻布と香辛料と錫——は三倍に跳ね上がり、逆に地元産のオリーブ油と干し魚は買い手がつかず投げ売りされている。商人たちが怒鳴り合う声が路地にまで響き、その喧噪の中を兵士が巡回していた。暴動の芽は、飢えた腹から生える。アシュタルは兵士の巡回間隔を無意識に数えていた。二刻に一度。以前は半日に一度だった。治安の悪化を、数字が裏づけている。
アシュタルは取引先を回るふりをして、聞き込みに出た。
帳面と筆記具を腰に差し、フード付きの外套を羽織る。日差しを避けるためではない。商人が歩き回っていても目立たないようにするためだ。聞き込みは、相手に「聞かれている」と感じさせた瞬間に終わる。世間話でなければならない。
商人にとって情報は商品だ。ただで手に入るものではないし、ただで渡すものでもない。アシュタルは銅貨を惜しまなかった。酒場の主人には葡萄酒の値引きを約束し、布商のオバドには次の仕入れで優先枠を融通すると持ちかけた。染物屋の女将には息子の就職先を探すと申し出た。対価を払えば口は開く。それが港町の流儀だった。
「おたくの隣家のご主人、いつ頃から体調が悪いんで?」
世間話の体を装いながら、アシュタルは帳面に書き込み続けた。名前、住所、発症した時期。いつから眠れなくなったか。いつから味がしなくなったか。いつから傷が塞がるようになったか。
一軒目の酒場で聞いた話。「港の荷運びをしてるガドの親父が、先月から飯を食わなくなった。食わなくても平気だって言うんだよ。気味が悪い」。二軒目の染物屋の女将は声を潜めて言った。「うちの向かいの銀細工師ね、三日前に屋根から落ちたのに骨一本折れてないのよ。顔色は土みたいなのに」。
三軒目の雑貨屋で有力な情報を得た。「うちの向かいの鍛冶屋は何ともないんだよ。越してきたのが十年前だからかねえ」。四軒目の穀物商は首を横に振るだけだったが、五軒目の船具商はこう言った。「港の東側は発症者が多いが、南側の外国人居留区はほとんど出ていない。エジプト人もフェニキア人も元気なもんだ」。
六軒目は菓子屋だった。老婆が蜂蜜菓子を包みながらぽつりと漏らした。「知り合いの中で一番ひどいのは、丘の上の方に住んでる連中だねえ。神殿の近くの家ほど重いみたいだよ」。
断片が集まるにつれ、アシュタルの足取りは速くなった。帳面のページが埋まっていく。七軒、八軒、十軒。日が傾く頃には、二十を超える証言が手元に揃っていた。
自室に戻ると、帳面を机に広げた。
ランプの灯芯を長くして明るさを確保し、集めた情報を一つずつ書き出す。発症者の名前を縦に並べ、住所と発症時期を横に記入する。次に、壁に貼ってあるウガルの簡易地図——商売用に自分で描いたものだ——に、発症者の家を赤い点で書き込んでいった。
一つ。二つ。五つ。十。二十を超えたあたりで、手が止まった。
赤い点は、ある一点を中心にほぼ同心円状に広がっていた。
バアル神殿だ。
丘の上に建つ嵐神の神殿を中心に、まるで石を投げ込んだ水面の波紋のように発症者が分布している。神殿に近い者ほど発症が早く、遠い者ほど遅い。菓子屋の老婆が言った通りだ。だが老婆の感覚的な印象が、地図の上では明確な幾何学模様になっていた。
だが——全員ではない。
同心円の中にいるのに、赤い点がない家がある。神殿のすぐ下に住んでいるのに無事な家がある一方で、港の端に住んでいるのに発症している家もある。完全な同心円ではない。まだら模様だ。何が違う?
アシュタルは椅子を引き寄せて座り、帳面を捲り直した。発症者と未発症者の情報を一つずつ見比べる。年齢は関係ない。老人も子どもも罹っている。性別も関係ない。男も女も同じだ。職業もばらばら——商人、職人、漁師、神官の使用人。
では何が——。
アシュタルは椅子の背にもたれ、天井を睨んだ。手元の帳面を指で弾く。商談で行き詰まった時の癖だ。相手の言葉を思い出す。酒場の主人が言ったこと。染物屋の女将が言ったこと。雑貨屋の親父が言ったこと——「越してきたのが十年前だからかねえ」。
目が、帳面のある一列に釘付けになった。
発症者の住所ではない。もう一つ、世間話のついでに聞いていた情報。「何代前からウガルにお住まいで?」——商人が新しい取引先を評価する時の常套句だ。信用の厚みは、土地への根の深さで測る。
発症者は全員、ウガルに三代以上住む家だった。
例外はない。新参の商人、外国人居留区の住民、最近移住してきた職人——誰一人として発症していない。逆に、五代、六代と遡れる古い家ほど、症状が重い。
これは伝染病ではない。
伝染病なら、新参も古参も関係なく罹る。接触で広がるなら、市場に出入りする外国人居留区の住民にも出るはずだ。だが出ていない。同じ市場で同じ水を飲み、同じ空気を吸い、同じ通りを歩いているのに。
血に、関係がある。
アシュタルの背筋を冷たいものが這い上がった。ベン=シャハル商会は、ウガルで最も古い商家のひとつだ。祖父の祖父の、そのまた先の代から、この港で商いを続けてきた。帳簿の記録は八代前まで遡る。この街の歴史と、自分の一族の歴史は、ほとんど同じ長さだ。
帳面を閉じて、天井を見上げた。
病気ではない。呪いか。だが呪いなら、なぜ「古い家系」だけを狙う? ウガルに三代以上住むこと——それは何を意味するのか。長く住めば住むほど、この街の何かを「負う」のか。何を? 税なら銅貨で払える。借金なら交渉の余地がある。だが血に刻まれた何かは、帳面の上では清算できない。
答えはまだ見えない。
だが問いの形が、ようやく見えてきた。商人にとって、問いの形が分かれば半分は解けたようなものだ。値段は品物の正体が分からなければつけられないが、品物の輪郭さえ掴めれば、あとは交渉の余地がある。
アシュタルは帳面を開き直し、白紙のページに大きく書いた。
「なぜ、古い家系だけなのか?」
その問いの下に、もう一行。
「この街に長くいることで、何を『負った』のか?」
筆を置いて、窓の外を見た。夜の港は静かだった。灯りのない桟橋が闇に沈んでいる。かつては夜通し荷降ろしの声が響いていたはずの場所に、波の音だけが届いていた。月が水面に白い道を引いている。その道の上を、船が通ることは——もうしばらくないだろう。
帳面を閉じる前に、もう一つだけ書き加えた。
「次の手——バアル神殿」
同心円の中心。全ての赤い点が指し示す場所。答えがどこかにあるとすれば、そこだ。




