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父の手

 朝食の卓に、四人分の皿が並んでいた。


 母が焼いたパンは今日も蜂蜜の香りがした。山羊の乳、干し無花果いちじく、塩漬けのオリーブ。いつもの朝食。いつもの食卓。


 だが、いつもと同じものは、もう何もなかった。


 父タグムがパンを取ろうとして、指先が滑った。箸ではない。素手でパンを掴もうとして、掴めなかったのだ。指が滑ったのではなく——触れている感覚が薄れていた。二度目でようやくパンを持ち上げ、何事もなかったように口に運ぶ。だがその指先には、力の入り方に微妙な遅れがある。物の重さが分からないまま、記憶だけで力加減を合わせている。


 弟のヤリムは目の下にくまがない。三日間眠っていないのに、疲労の色がまったくなかった。肌は滑らかで、目は澄んでいる。むしろ健康そうに見える。それが不気味だった。疲れない体。眠らなくても平気な体。十四歳の少年がそんなものを喜ぶはずがないのに、ヤリム自身はあまり気にしていない様子だった。


「兄ちゃん、今日も商会?」


「ああ。父さんの分もあるからな」


「大変だなあ。俺も手伝おうか?」


「お前は勉強しとけ」


 軽い会話。普通の兄弟のやりとり。


 母だけが普通に食事をしていた。パンを千切り、オリーブを口に運び、乳を飲む。咀嚼そしゃくするたびに表情が動く。美味しいとか、塩が足りないとか、そういう当たり前の反応。疲れた顔で目をこすり、欠伸を噛み殺す。昨夜あまり眠れなかったのだろう。


 その「普通」が、食卓の中で際立っていた。味を感じ、疲れを覚え、眠りを必要とする。人間として当たり前のことが、この家ではもう母だけのものになっている。


 父が席を立った。


「行ってくる」


「気をつけて」


 母の声に父は頷いただけで、玄関を出た。アシュタルはその背中を追った。


「父さん」


 路地の角で父を呼び止めた。朝の光が白い壁を照らし、二人の影が石畳に伸びている。父の影は——薄い。日差しの強さに比べて、地面に落ちる影の濃さが足りない。


「上着の裏地、見た」


 父が立ち止まった。振り返らない。大きな背中が朝日を受けて、その輪郭が少しだけ揺らいで見えた。


 長い沈黙の後、父が振り返った。


「来い」


 商会の二階、父の書斎。窓から差し込む朝日が、古い机の上の帳簿を照らしている。父は椅子に腰を下ろし、一瞬目を閉じた。観念した、というのはこういう顔だろうか。あの寡黙な父が、言葉を探している。


 父が上着の前を開いた。


 文様は胸から肩まで広がっていた。銀色がかった幾何学的な線が、肌の内側から浮かび上がるように走っている。ヤリムの鎖骨の下にあった模様と同じだが、規模が違う。枝が伸びるように、鎖骨を越え、左の肩甲骨の方向へ向かっている。


「半月前から気づいていた」


 父の声は静かだった。


「最初は胸の真ん中に、指の爪ほどの線が一本。それが日を追うごとに広がった。味は——もう分からん。何を食っても砂を噛んでるようだ。昨日あたりから、手の感覚が鈍い。物を握っている実感がない」


「なぜ黙ってた」


「言ってどうなる」


 父はまっすぐにアシュタルを見た。琥珀色の目は息子と同じ色だが、そこにある光は違う。諦めではない。覚悟だ。


「お前にも出るだろう。もう味が薄くなっているんじゃないか?」


 図星だった。昨日の夕食、母の魚の塩焼きが妙に淡白に感じた。塩が足りないのだと思った。思おうとした。


「……少し」


「そうか」


 父は上着を戻し、両手を膝の上に置いた。その手が——微かに震えていた。寡黙な男の、唯一の感情表現。


「俺に何ができるか分からん。こういうのは——商人の領分じゃない。神官か、医者か、あるいは本当に神の仕業なら、俺たちには手の出しようがない」


 父が言葉を切った。窓の外で海鳥が鳴いている。


「だが——お前は頭がいい。俺と違って口が達者だ」


 父の目がアシュタルを射抜いた。


「何か見つけろ」


 それは命令ではなかった。懇願でもなかった。信頼だ。不器用な父が、息子に向けて絞り出した、たった一つの信頼の言葉。


 アシュタルは頷いた。声が出なかったので、ただ頷いた。


 書斎を出るとき、父が背後から手を伸ばした。アシュタルの肩を掴もうとした——のだろう。だが指が肩に触れた瞬間、異様な感覚が走った。


 温かさがない。


 父の手は昔から大きく、硬く、温かかった。荷を運び、帳簿を綴じ、子供の頭を撫でてきた手。その手が、今は冬の石のように冷たい。握られているのに、「触れられている」感覚が薄い。圧力はある。だが体温がない。生きている人間の手ではない温度。


 アシュタルは振り返らなかった。振り返ったら、顔に出る。


「行ってくる」


「ああ」


 父の手が離れた。冷たい指の感触だけが、肩に残った。


 居間に戻ると、母が食器を洗っていた。背中が小さく震えている。泣いているのだと、すぐに分かった。


「母さん」


 母が振り返った。目が赤い。


「ごめんね。なんでもないの」


 なんでもなくないことは明白だった。だが母は笑おうとした。唇を震わせながら、息子に心配をかけまいとして。


 ヤリムが部屋から降りてきた。


「なんで泣いてるの」


 屈託のない声。母は慌てて目を拭い、「玉葱を切ったの」と答えた。朝食の卓に玉葱はなかったが、ヤリムはそれ以上聞かなかった。


 四人が居間にいた。父は書斎から出てきて、壁にもたれている。母は台所の入り口に立ち、手を前掛けで拭いている。ヤリムは窓辺に座り、外を見ている。アシュタルは部屋の真ん中で、三人を見ていた。


 母が父の傍に行き、腕に手を置いた。


「冷たい」


 小さく呟いた。父の腕は——冷たい。それでも父は母の手を振り払わなかった。ぎこちなく、感覚の鈍い指で、母の肩を抱いた。力加減が分からないのだろう。軽すぎる抱擁。だが離さない。


 母が声を殺して泣いた。父の冷たい胸に顔を埋めて、肩を震わせた。


 ヤリムが不安そうな顔で振り返った。


「父ちゃん? 母ちゃん?」


 アシュタルは弟の肩に手を置いた。自分の手はまだ温かい。まだ。


 この温度を取り戻す。


 言葉にはしなかった。だが心の中で、一行の帳簿を記すように刻んだ。


 この家の温度を。父の手の温かさを。弟の食卓の笑顔を。母の涙を止める方法を。


 何が原因なのかは、まだ分からない。だが分からないなら調べる。調べて、値をつけて、取引する。それが商人のやり方だ。


 夜。


 家族が静まり返った後、アシュタルは自室で鏡に向かった。


 油灯あぶらびの弱い光が、磨いた銅の鏡面に自分の顔を映している。琥珀色の目。黒い前髪。浅黒い肌。いつもの自分の顔だ。


 上着を脱ぎ、下衣の紐を緩め、胸をはだけた。


 鏡に映る自分の胸の中央。心臓の上あたりに——うっすらと、線が浮かんでいた。


 指で触れた。痛くない。熱くもない。肌の表面には何もない。だが鏡越しに見ると、確かにそこにある。銀色がかった細い線。父や弟の文様と同じものの、最初の一画。


 時間がない。


 アシュタルは静かに上着を着直し、帳面を開いた。新しい頁に、今日の日付を書いた。


 父の症状。弟の症状。自分の症状。


 商人の字で、淡々と記録した。


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