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値崩れ

 市場が死にかけていた。


 正確に言えば、値が死にかけていた。アシュタルは朝一番で市場を歩き、並んだ品物の値札を片端から確認した。ティルスの紫布が先月の三倍。シドンの硝子ガラス杯は五倍。キプロスの銅は入荷そのものが途絶えている。


 逆に、地元の品は叩き売りだ。オリーブ油の壺が原価を割り込み、麦の山が買い手もなく積まれている。輸出船が来ないのだから当然だ。作っても売れない。仕入れても届かない。需要と供給の歯車が、音を立てて噛み合わなくなっている。


 陶器売りの老婆が、客のいない店先でぼんやりと座っていた。隣の染物屋は早々に店じまいして、板戸に「本日休業」の札を下げている。本日だけではないだろう。


 投げ売りが始まっていた。穀物商のハミルの前で、若い商人たちが怒鳴り合っている。在庫を抱えた者が損切りで売り叩き、それを見た別の商人が追随する。値崩れの連鎖だ。商人の世界では、恐怖は相場より速く伝播でんぱする。


 アシュタルは唇を噛んだ。帳簿の数字で見た異変が、ここでは人の顔をして叫んでいた。


 午後、商人たちの集会所に足を運んだ。


 集会所は港の倉庫街の一角にある石造りの広間で、天井が高く、声が反響する。二十人ほどの商人が詰めかけていた。皆、険しい顔をしている。


「外国船がウガルを避けてるのは知っての通りだ」


 長老格のハミルが口火を切った。


「ティルスもシドンも、ウガルとの取引を控えるよう商人ギルドに通達を出した。『死者が歩く港の品は買えない』とな。正直に言って、港の封鎖まで時間の問題だ」


 ざわめきが広がった。


「在庫の融通はできる」とアシュタルは立ち上がって言った。「輸入品の高騰は、商人同士で在庫を貸し借りすることで一時的に抑えられる。地元産品の値崩れは、共同で買い支えて価格を維持する。対症療法だが、出血は止められる」


「止めてどうする。原因が分からなきゃ同じことだろう」


 向かいに座った年配の商人が吐き捨てた。


「原因さえ分かれば手の打ちようがある」


「原因? 死人が歩いてるんだぞ。俺たち商人に何ができる。神殿に任せるしかないだろう」


 何人かが頷いた。集会所の空気が沈んでいく。


 神殿に任せる。バアルの神官に祈ってもらう。それがこの街の人間の常識だった。困ったら神殿へ行く。商売が傾いたら奉納金を積む。嵐が来たらバアルに祈る。


 だが——そのバアルの声が聞こえなくなっている。


 アシュタルは口を開きかけて、やめた。神殿の情報をここで出す段階ではない。裏が取れていない噂で商人たちを余計に動揺させるのは下策だ。


「分かった。じゃあ、できることだけやろう。在庫の融通と、値崩れの買い支え。神殿に任せるにしても、商売が先に死んだら意味がない」


 渋々ながら、何人かが同意した。具体的な在庫リストの照合が始まる。アシュタルは合間に帳面を開き、走り書きを加えた。経済の崩壊速度。あとどれくらい持つか。


 商人の勘で言えば、二か月。それを過ぎたら、この街の交易は立ち直れなくなる。


 夕方、商会に戻った。


 父タグムが出張に出る準備をしていた。革の鞄に書類を詰め、外套を羽織る。太い腕で鞄の紐を締める仕草は、いつもと変わらない。


「シドンまで行く。船主のアブディに直接会って、入港の再開を交渉する」


「父さん、体は——」


「商売は足で稼ぐ。知ってるだろう」


 父はそれだけ言って、玄関を出た。振り返らなかった。大きな背中が路地の角を曲がって消えた。


 その背中を見送りながら、アシュタルは思った。父は知っている。自分の体に何が起きているか。それでも動く。動くことでしか、家族を守れないと思っている。


 留守を預かることになった。商会の帳簿、取引先への連絡、在庫の管理。普段は父が一人で回していた仕事の量に、改めて唸った。


 帳簿室で夜遅くまで数字と向き合った。過去の取引記録を整理していたとき、不自然なものに気づいた。


 祖父の代の帳簿だ。


 棚の奥に積まれた古い革表紙の帳面を引っ張り出し、頁をめくる。黄ばんだ羊皮紙に、几帳面な筆跡で取引記録が並んでいる。祖父の手だ。父とは違う、角張った文字。


 数字を追っていくと、ある時期だけ記録が途絶えている。三か月間、完全な空白。取引の記録が一行もない。その前後は通常通りの記録が続いているのに、その期間だけが、まるで切り取られたように白い。


 帳面を持ち上げて光に透かした。頁が破られた形跡はない。意図的に書かなかったのだ。


 なぜ。


 気になったが、今は後回しにする。父がいない間の商会を回すほうが先だ。帳面を棚に戻し、現在の帳簿に向き直った。


 父が帰宅したのは、夜の遅い刻限だった。


 玄関の音で目が覚めた。居間に降りると、父が外套を脱いでいる。暗がりの中で、その顔が妙に白く見えた。もともと浅黒い肌が、月明かりの下でろうのような色に変わっている。


 母が起きてきて、食事を温め直した。父は卓について、だが皿に手をつけない。


「食べないの?」


 母の声が小さく震えている。


「疲れただけだ」


 父は短く言って、杯の水だけを口にした。


 食卓の沈黙が重かった。油灯の炎が揺れるたびに、父の顔の陰影が変わる。頬がこけた——ように見えた。たった二日の出張で、人はこんなに痩せるものだろうか。


「父ちゃん、お土産は?」


 ヤリムが階段の上から声をかけた。眠れないまま起きていたのだ。明るい声。いつもの弟。


「すまん。今回は手ぶらだ」


「えー。シドンの蜜菓子、約束したじゃん」


「次は必ず買ってくる」


 父の声がかすかにかすれた。ヤリムはそれに気づかず、「約束だからな!」と笑って引っ込んだ。


 弟の足音が階段を上がっていく。母が皿を下げようとして、父の手に触れた。


「冷たい……」


 母の手が止まった。アシュタルも見ていた。父の手が——冬の石のように冷たいのが、見ただけで分かった。


 父は何も言わなかった。母の手をそっと押し返し、「もう寝ろ」とだけ言って書斎に消えた。


 母が寝室に戻った後、アシュタルは父の外套を片付けようと手に取った。


 重い。旅の埃と汗の匂いが染みついている。衣紋掛けにかけようとして、手が止まった。


 上着の裏地に、布が縫い付けてある。


 胸のあたり、ちょうど文様が広がっている位置に、別の布が裏から縫い止められていた。誰かに見られたとき、直接肌が見えないようにするための覆い。


 針目は不器用だった。商人の太い指で、慣れない針を運んだ跡が分かる。まっすぐ縫おうとして曲がり、やり直した跡がある。だが一針一針、丁寧に。


 父は気づいていた。


 自分の体に文様が広がっていることを。おそらく家族の中で最初に。


 そして黙って、裏地に布を縫った。家族を不安にさせまいとして。あの不器用な手で。


 アシュタルは外套を静かに衣紋掛けにかけた。


 裏地の針目が、目に焼きついて離れなかった。


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