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港の死人

 港が叫んでいた。


 早朝の桟橋に人だかりができている。アシュタルは寝不足の目を擦りながら人垣の隙間に体をねじ込んだ。潮の匂いに混じって、何か別の匂いがする。冷たい石のような、地下水路の底のような匂い。


 人垣の中心に、男が立っていた。


 漁師のナフルだ。三日前に沖で溺れ、遺体は上がらなかった。妻が毎朝桟橋に来て海を見つめていたのを、港の人間は皆知っている。


 そのナフルが、海から歩いて上がってきたのだ。


 衣は海水を吸って重く垂れ下がり、裸足の足元に水溜まりができていた。髪が額に貼りつき、唇は青紫色に変色している。だが——立っている。歩いている。目を開けて、群衆を見回している。


「奇跡だ! バアル様の奇跡だ!」


 誰かが叫んだ。別の声が被さる。


「違う、呪いだ! 死人が歩いてるんだぞ!」


 群衆がざわめき、後ずさる者と前に出る者が入り混じる。ナフルの妻が泣きながら駆け寄ろうとして、周囲に止められていた。


 アシュタルは動かなかった。人混みの隙間から、ナフルの顔を観察した。


 ガルムと同じだ。目に光がない。肌は蒼白で、この朝の陽射しの下でも影が薄い。だがナフルは自分の名前を覚えていた。妻の名前を呼び、「心配かけた」と口にした。声はかすれているが、言葉は通じている。


 死んでいるのに、生きている。生きているのに、死んでいる。


 アシュタルは群衆から離れ、港沿いの道を歩き始めた。


 情報が要る。


 商人が取引先を調べるのと同じ手順だ。まず一次情報を集め、次に裏を取り、最後に全体像を組み立てる。感情は後回しにする。恐怖は経費の一種だ。払えるうちは払って、仕事を進める。


 最初に向かったのは港の酒場「赤いいかり」だった。


 朝から開いている船乗り向けの安酒場で、情報の流通量では港随一だ。店主のヤブンは元水夫で、あらゆる噂を酒と一緒に仕入れている。


 カウンターに銅貨を二枚置いた。


「ヤブン。最近の妙な話、全部聞かせてくれ」


 ヤブンは銅貨を見て、それからアシュタルの顔を見た。


「ベン=シャハルの倅か。朝から気前がいいな」


「情報には対価を払う。父の教えだ」


 ヤブンが語った話を、アシュタルは頭の中で帳簿のように整理した。


 死人が歩き始めたのは、約一か月前から。最初は港の外れに住む老人だった。老衰で息を引き取ったはずが、翌朝普通に起きてきた。家族は泣いて喜んだが、すぐに異変に気づいた。飯を食わない。眠らない。体が冷たい。


「それからぽつぽつ増えてな」ヤブンは声を落とした。「溺死、転落死、病死。死んだはずの人間が戻ってくる。全員ウガルの住人だ。外の港じゃ聞かねえ話だ」


 銅貨をもう一枚足した。


「最初の老人、どこに住んでた?」


「バアル神殿の裏手だ。神殿の壁が見えるくらい近い」


 次に向かったのは、穀物商のハミルの店だった。ハミルは商人ギルドの長老格で、ウガルの経済動向を誰よりも把握している。


「入港数だけじゃない」ハミルは渋い顔で言った。「外国の商人が取引を断り始めてる。『ウガルの品は呪われてるかもしれない』ってな。馬鹿げた話だが、噂ってのは商品より速く広がる」


 三軒目は、船大工のズバルだった。修理の依頼で出入りする船主たちから、航路の生の情報を仕入れている。


「ティルスの連中が言ってたよ。『ウガルの神官が、バアル様の声が聞こえなくなったと泣いてた』ってな」


 アシュタルの足が止まった。


「神官が?」


「ああ。祈りを捧げても応答がないんだとさ。大祭の準備が進まないのもそれが理由だろう」


 四つの断片が揃った。


 港町の路地を歩きながら、アシュタルは頭の中で情報を並べた。


 一つ。症状は約一か月前から始まった。

 二つ。ウガル以外では発生していない。

 三つ。最初の発症者はバアル神殿の近くに住んでいた。

 四つ。神官がバアルの応答がないと言っている。


 足音が石畳に響く。路地の壁に干された洗濯物が風にはためき、どこかの家から子供の泣き声が聞こえる。日常の音だ。だがその日常の底に、何かが侵食している。


 ウガルだけ。バアル神殿の周辺から。バアルの応答消失。


 繋がっている。


 何がどう繋がっているのかはまだ分からない。だが、バアルという名前が三本の糸のすべてに絡んでいる。


 帰宅すると、母が台所で立ち尽くしていた。


 背中が小さく震えている。振り返った顔は蒼白で、唇が微かに動いていたが、声になっていなかった。


「母さん?」


「アシュタル」


 母はアシュタルの腕を掴んだ。指に力がこもっている。


「お父さん、さっき手を切ったの。庖丁で」


「……それで?」


「血が出ないの」


 母の声が震えていた。目に涙が溜まっている。


「切れたのに、血が出ないの。傷口が——勝手に塞がっていくの」


 アシュタルは台所を通り抜け、父の書斎に向かった。


 父タグムは机に座っていた。右手を開いて、掌を見つめている。掌の真ん中に、薄い線がある。切り傷だ。だがその傷口は乾いていて、血の一滴も滲んでいなかった。見ている間にも、傷がゆっくりと縮んでいく。肌が自ら閉じていくように。


「父さん」


「騒ぐな」


 父は短く言った。


 右手を裏返し、左手で上着の襟を開いた。胸元に文様が広がっていた。ヤリムの鎖骨の下に見えたものと同じ幾何学的な模様。だが父のそれは、遥かに大きい。胸から肩にかけて、枝のように広がっている。


「いつから」


「半月ほど前からだ」


 父は上着を戻した。その手が——微かに震えていた。


 アシュタルは自分の胸に手を当てた。まだ文様はない。だが今朝の食事で、母の焼いたパンの蜂蜜の甘さが、いつもより薄く感じた。気のせいだと思った。気のせいであってほしかった。


 夜。


 家族が寝静まった後——ヤリムは眠れないまま毛布にくるまり、父は書斎で帳簿に向かい、母だけが疲れた顔で寝室に消えた——アシュタルは自室の机に向かった。


 帳簿を閉じた。代わりに、白紙の帳面を引き出しから取り出した。


 筆に墨をつけ、最初の頁に書いた。


「死なない病。判明事項一覧」


 日付。発症者の名前と状況。症状の段階。発生地域。そして、四つの断片から導かれる仮説の走り書き。


 商人が帳簿をつけるように、異変を記録していく。筆先が羊皮紙の上を走る音だけが、暗い部屋に響いている。


 分からないものには、値がつけられない。


 値がつけられないものは、取引できない。


 取引できないものには、手の打ちようがない。


 だから、まず知る。全部、知る。


 アシュタルは筆を走らせ続けた。油灯の炎が揺れ、影が壁の上で踊っている。これは帳面だ。だが商品の記録ではない。


 家族の命の記録だ。


 ——分からないものには、値がつけられない。


 その言葉を心の中で繰り返しながら、アシュタルは新しい頁を開いた。


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