味のない食卓
母の焼くパンの匂いで目が覚めた。
小麦粉を石窯で焼く乾いた香ばしさに、蜂蜜がほんの少し混じっている。ベン=シャハル家の朝は、いつもこの匂いから始まる。アシュタルは寝台から起き上がり、寝巻きのまま食卓に向かった。
父タグムが奥の席で商報の巻物を広げていた。太い指で文字を追い、時折眉をひそめる。白髪混じりの短い髪に、日焼けした首筋。大きな体を椅子に沈めて微動だにしない様は、港の防波堤のようだった。母が焼きたてのパンと干し葡萄を卓に並べ、山羊の乳を注いだ杯を一人ずつの前に置いていく。
弟のヤリムが向かいの席でパンを頬張っていた。
アシュタルはそれを見ていた。
以前のヤリムなら、パンが出た瞬間に「うまっ!」と叫んでいた。蜂蜜の甘さに目を丸くし、二切れ目に手を伸ばしながら「母ちゃん天才」と叫ぶのが朝の恒例だった。
今朝のヤリムは黙ってパンを口に運んでいる。咀嚼し、飲み込み、また次の一切れを取る。機械的な動作。目は開いているが、どこか遠くを見ている。
母がヤリムの杯に乳を足した。
「ヤリム、もう少し食べなさい。顔色が悪いわよ」
「え? 食べてるよ。ほら」
ヤリムは笑ってパンを掲げた。いつもの明るい笑顔だ。だがアシュタルには分かる。弟は味を確かめていない。ただ腹に入れているだけだ。
蜂蜜の香りが食卓を満たしていた。甘く、温かく、この家の朝そのもののような匂い。それを味わえない弟が、笑顔でパンを食べている。
アシュタルは黙って山羊の乳を啜った。喉を通る乳の味を、意識して確かめた。甘い。まだ、甘い。
食後、アシュタルは父の商会に向かった。
ベン=シャハル商会は港から三本目の通りにある石造りの二階建てで、一階が取引所と倉庫、二階が帳簿室になっている。朝日が格子窓から差し込み、積み上げられた麻袋と素焼きの壺に縞模様の影を落としていた。
帳簿室の卓に座り、昨月の取引記録を開いた。
数字は嘘をつかない。アシュタルが父から最初に教わった商売の鉄則だ。人の言葉は飾れる。笑顔は偽れる。だが帳簿の数字だけは、書いた瞬間の事実を刻む。
指先で数列を追いながら、異変に気づいた。
この半月で入港数が二割減っている。
通常、この時期は東方からの香辛料船と、北のキプロスからの銅船が集中する季節だ。港の桟橋は満杯になり、荷降ろしの順番待ちで水夫たちが酒場に溢れるのが毎年の光景だった。それが今年は桟橋に空きがある。
帳簿をさらに遡る。減少が始まったのは、およそ一か月前。ちょうど——ガルムが死んだ嵐の少し前だ。
「父さん」
階下の取引所で商談の準備をしていた父タグムに声をかけた。
「入港数、見た?」
「見た」
父は短く答えた。商報を丸め、帯紐で括りながら。
「ウガルで不吉なことが起きてるって噂が、ティルスやシドンまで広がってる。船主が寄港を避け始めてるんだ。このまま放っておいたら——」
「噂なんぞ商売の種だ」
父はそれだけ言って、取引所の奥に消えた。背中は泰然としていた。港の防波堤は嵐が来ても動かない。だがアシュタルは見た。父が商報を括る指先が、ほんの一瞬、震えていたのを。
夕方、ヤリムを連れて港を散歩した。
弟は最近、外に出たがる。家にいると壁が迫ってくるような気がすると言う。アシュタルにはその気持ちが分かった。家の中は——重い。母の心配そうな視線、父の沈黙。外の風のほうがまだ息ができる。
港沿いの道を並んで歩いた。西日が海を金色に染め、波頭がきらきらと光っている。潮の匂いと、干した魚の匂いと、遠くの鍛冶屋から流れてくる金属の焦げた匂い。
「兄ちゃん、あの船見ろよ」
ヤリムが桟橋に停泊している大型船を指差した。三本マストの外洋船で、船腹に異国の紋章が描かれている。
「あれキティオンの船だろ。竜骨が長いから外洋向きなんだ。帆の張り方も違う。横帆じゃなくて縦帆を併用してるから、逆風でも進めるんだぜ」
「詳しいな」
「船乗りになるんだから当然だろ」
ヤリムは胸を張った。十四歳の少年の目が、夕陽を反射して輝いている。この目の光は——まだ、ある。港の水夫ガルムの曇った目とは違う。まだ。
「俺はいつか外洋に出るんだ。ティルスの先、もっと西の海。柱みたいな岩が二本立ってる海峡があるって聞いた。その向こうに何があるか、誰も知らないんだぜ」
「商売にならない冒険はただの散財だぞ」
「兄ちゃんはすぐそれだ。世の中、銅貨で測れないものもあるんだよ」
軽口を叩き合いながら、丘の方へ歩いた。ウガルの街並みが眼下に広がる。白い石壁の家々、赤い屋根、港に停泊する船の帆柱の列。その向こうに地中海の青が果てしなく続いている。
ヤリムが急に黙った。
「兄ちゃん」
「ん?」
「昨日、眠れなかったんだ」
声のトーンが変わっていた。さっきまでの弾むような調子ではない。
「全然眠くなくてさ。朝まで目が冴えてた。でも変なんだ、全然疲れてない。眠れないのに疲れないって、おかしくないか?」
アシュタルは足を止めなかった。歩調を変えなかった。声にも動揺を乗せなかった。
「成長期だからじゃないか。体が変わる時期ってのは、色々おかしくなるもんだ」
「そうかなあ」
ヤリムは納得しかけたようだったが、すぐに首を傾げた。
「でもさ、味がしないのも成長期のせいなの?」
答えに詰まった。商人は言葉に詰まってはいけない。沈黙は弱みだ。だが弟の無邪気な問いに返す言葉が、見つからなかった。
「——まあ、そのうち治るだろ」
自分でも酷い答えだと思った。
夕陽が沈みかけていた。赤い光が二人の影を長く伸ばしている。ふと、ヤリムの襟元に目が留まった。首の付け根から胸にかけて、布の隙間に何かが見える。
「ヤリム、それ……」
「ん? ああ、これ」
弟は無造作に襟を開いた。左の鎖骨の下に、薄い線が走っている。痣のようだが、形が違う。直線と曲線が組み合わさった幾何学的な模様。肌に刻まれたというより、肌の内側から浮かび上がっているような——。
「昨日気づいたんだけど、痣かな。痛くないんだ」
ヤリムはけろっとしている。だがアシュタルの背筋を冷たいものが駆け上がった。これは痣ではない。何かの文字のような、あるいは紋章のような——。
「触るなよ。明日、医者に見せよう」
「大げさだなあ」
弟は笑って襟を戻した。
帰路、アシュタルは一言も喋らなかった。ヤリムが船の話を続けていたが、耳に入らなかった。頭の中で情報が渦を巻いている。味覚の喪失。不眠。体に浮かぶ文様。ガルムにもあったのだろうか。あの水夫の目の光のなさ、汗をかかない体、影の薄さ。
弟が寝た後——眠れないまま横になった後——アシュタルは自室で壁にもたれた。
油灯の小さな炎が壁に影を揺らしている。
味覚の喪失。不眠。体の文様。次は何だ。
明日、ガルムに会いに行く。あの水夫の体にも同じものがあるのか確認する。
だがその前に。
アシュタルは自分の襟を開き、胸に手を当てた。
平たい胸骨の上に、指の腹が触れる。滑らかな肌。何もない。
まだ何もない。
まだ。




