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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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交渉決裂

 女が拳を振り上げた——わけではなかった。

 ただ、手を壁に置いた。そう見えた。軽く、無造作に、苛立ちを抑えるように石壁に手をついた。たったそれだけの動作だった。

 石が砕けた。

 拳の形に、壁がめり込んだ。乾いた音が店の中に響き、粉塵が舞い上がる。石の破片がアシュタルの足元にぱらぱらと落ちた。壁に直径二十センチほどの窪みができている。昨夜の手形と同じだ。いや、これはもっと深い。拳が石壁に半分ほど沈んでいる。石灰岩が、粘土のように凹んでいる。

 力を込めた様子すらなかった。壁に手をついただけだ。それだけで石が砕けた。本気で殴ったらどうなる?——考えたくもない。

 人間ではない。

 全身の毛が逆立った。心臓が喉元まで跳ね上がり、視界が一瞬白くなる。背中を冷たい汗が伝い落ちる。殺される——と、体が叫んだ。だが殺意ではなかった。この女は怒っているが、殺すつもりはない。殺すつもりなら、壁ではなくアシュタルの頭に手を置いていた。あれは威嚇だ。商人ならわかる。相手の怒りが「殺す」ではなく「脅す」に向いている間は、まだ交渉の余地がある。

 一歩も動かなかった。

 動けなかったのではない。動かなかった。ここで退けば、全てが終わる。一族の印を消せる手がかりが、目の前にある。この手がかりを手放すわけにはいかない。


「力で脅すなら、それは取引ではなく強制です」


 声が震えていないことに、自分で驚いた。喉が干上がっているのに、言葉だけは商人の形を保っている。十五から商談の場に立ってきた。体が覚えている。恐怖で頭が真っ白になっても、口だけは動く。


「強制で得た協力者は、最初の機会に裏切ります。それは商売の基本です」


 女が一瞬、虚を突かれた顔をした。壁から拳を引き抜く。石の粉が指からぱらぱらと落ちる。その指には傷一つない。石壁を砕いた拳に、かすり傷すらない。


「……商売の基本だと?」


「ええ。そしてもう一つ」


 アシュタルは唾を飲み込んだ。喉が張りつきそうだ。だが言葉を止めない。


「分からないものには、値がつけられない。あなたの提示する取引は、分からないことだらけだ。値がつけられない取引には、乗れない。何を買わされるのか分からない取引に応じる商人は、港に三日と持ちません」


 沈黙が落ちた。

 壁に穿たれた穴から、砂塵がゆっくりと舞い落ちている。油灯の残った一つが心細く揺れ、二人の影を壁に伸ばしている。

 女がアシュタルを見ている。殺意はない。怒りはまだある。だがそれ以上に——何か別のものが、金色の瞳に浮かんでいた。

 興味だ。

 虫に対する興味。珍しい虫を見つけたときの、あの目。だがそれは子供が昆虫を摘まむような興味ではなく、もっと古い——千年を生きた存在が、初めて見る種類の虫に出くわしたときの、底知れない好奇の色だった。


「面白い虫だ」


 女がそう言った。

 侮蔑だ。間違いなく侮蔑だ。人間を「虫」と呼ぶことに、この女は何の躊躇いもない。だが殺気は消えていた。拳を壁に叩き込んだときの苛立ちが、別の何かに置き換わっている。値踏みするような沈黙。品定めする目。


「考えておけ」


 それだけ言い残して、女は店を出た。

 歩き去る背中を見送った。嵐のような圧がある。通りの住民が無意識に道を空けている。誰も女を直視していないのに、誰もが女を避けている。瓦礫を運んでいた男が足を止め、水を汲んでいた女が動きを止める。気づいていないのだ。自分が避けていることに、誰も気づいていない。人間の中に紛れているが、紛れきれていない。陽光の下でもなお、その存在だけが異質だった。影すら違う。あの女の影は、他の誰よりも濃い。


 店に一人残されて、アシュタルは壁の拳跡を見つめた。

 手が震えている。

 膝も震えている。歯の根が合わない。先ほどまで押さえつけていた恐怖が、堰を切ったように溢れ出てきた。壁に手をついて体を支える。その手が、女の拳跡のすぐ横にある。自分の手と、石に沈んだ拳の痕。力の差が、そこに刻まれている。

 息が荒い。死ぬかと思った。いや、死ねないのだが——それでも、壊されると思った。潰されると思った。あの拳が壁ではなく自分に向いていたら、石壁と同じように粘土のように潰れていた。

 だが。

 頭は回転していた。

 恐怖で体が凍りついている間も、商人の頭は休まなかった。あの力。あの威圧感。バアルの話。印を消せるという確信に満ちた言葉。そして——丘の上に嵐を纏って立っていた人影。壁にめり込む手形。人間の常識を超えた力。

 あれは、神だ。

 震える手を握り締め、思考を整理する。

 あの女は神だ。バアルの関係者。印を消せると言った。バアルを探していると言った。つまり——バアルは失踪している。嵐の神がいないから嵐がおかしく、温かい雨が降り、海が赤く染まり、神殿が沈黙している。呪術師が震えながら言った「奉納の印」。神殿の神官が認めた「バアルの応答消失」。闇市場で集めた断片的な情報。そして今の女。

 全てが一本の線に繋がった。

 知的興奮が恐怖を上回る瞬間があった。商人の血が騒ぐ。新しい取引先を嗅ぎつけたときの、あの高揚感。途方もなく危険で、途方もなく大きな取引の匂い。こんな商談は、ウガル中の商人を集めても誰一人経験したことがない。

 問題は——あの神と、どう取引するか。

 力では勝てない。当たり前だ。石壁を粘土のように潰す相手に、腕っぷしで対抗できるわけがない。だが取引は力比べではない。相手が欲しがっているものを握っている者が、交渉の主導権を持つ。どんなに強い領主でも、穀物を持つ農民には頭を下げる。力の大小ではなく、需要と供給が交渉を決める。

 あの女は——神は——バアルを探している。そしてアシュタルに「探せ」と言った。つまり、アシュタルには神にできないことがある。あるいは、アシュタルの印が探索に必要なのか。いずれにせよ、神がわざわざ人間に頼みに来た。その事実そのものが、アシュタルの手札だ。

 手札の価値を安売りしてはいけない。


 震える手で帳面を開き、今日の出来事を書き留めた。

 壁の手形。女の外見。会話の内容。提示された条件。断った理由。女の反応。「面白い虫だ」という言葉。壁の拳跡の深さ。声の温度の変化。

 そして最後に——「この女の名は?」と書いた。


 その日のうちに、アシュタルは動いた。

 まず帳面を新しいページに開いた。「不明人物調査」と書き、女の特徴を列挙する。長身。褐色の肌。金色の瞳。赤い——いや、あのときは商人の衣装で髪を隠していた。だが嵐の夜、丘の上で風になびいていた長い髪。あれが同一人物なら、髪の色も分かるかもしれない。

 商人仲間に声をかけ、銀貨を握らせ、情報を集めさせた。バアルの兄弟、あるいは配偶者にあたる神はいないか。古い伝承に、嵐の神の身内として記録されている存在は。港に出入りする異国の商人にも当たらせた。東方から来た者の中に、神々の系譜に詳しい者がいるかもしれない。

 古い文献を扱う書記の元に、銀貨三枚を届けた。急ぎの調べ物だと伝えた。書記は銀貨の重さに目を丸くしたが、すぐに棚の奥に消えた。

 翌日、答えが返ってきた。


 アナト。

 戦争と狩猟の女神。バアルの妹にして、最も荒々しい神。

 七十七の敵を屠り、膝まで血に浸かり、首飾りのように敵の首を連ねた。

 最も荒々しく、最も美しく、最も恐ろしい女神。

 ——商人的に言えば、この世で最も危険な取引相手だ。

 だが「危険」と「不可能」は違う。商人はその違いを知っている。


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