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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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12/22

女の名

 嵐の翌朝、アシュタルは店の復旧作業に追われていた。

 散乱した布地を巻き直し、棚から落ちた香辛料の壺を拾い集め、割れた油壺の中身を砂で吸わせる。商品の損害額を頭の中で弾きながら、手は休まず動く。ベン=シャハル商会は中堅どころの商会だが、この被害は痛い。嵐の保険なんて気の利いたものはこの街にはない。自前で損害を飲み込むしかないのだ。

 壁の手形を改めて確認した。

 近くで見ると、なおさら異常さが際立つ。指が石に三分の一ほどめり込んでいる。石壁だ。日干し煉瓦ではない。ウガルの港湾倉庫に使われる硬い石灰岩。それを粘土のように押し潰せる力が、この世のどこにあるというのか。指の形からして、手は大きい。だが人間離れしているのは大きさではなく、深さだ。力の質が違う。

 アシュタルが指跡をなぞっていたとき、店の入口に影が差した。


 見知らぬ女が立っていた。

 最初に感じたのは、匂いだった。鉄と砂と、乾いた風の匂い。街の女からは絶対にしない匂いだ。港の女は魚と潮の匂いがする。市場の女は香辛料と果物の匂いがする。だがこの女は、戦場の匂いがした。血を洗い流した後の鉄の匂い。砂塵の中を長く歩いた後の乾いた匂い。それが体から立ち上っている。

 次に目に入ったのは体躯だった。長身で、肩幅がある。商人の衣装を纏っているが、布の下の筋肉が服に収まりきっていない。腕の筋が袖から透けて見える。褐色の肌に、切れ長の金色の瞳。その目がアシュタルを見ている——いや、見下ろしている。身長差以上の、圧倒的な高さから。まるで地上の虫を空から眺めているような目だ。

 獣のような警戒心と、王のような傲慢さが同居していた。

 美しいかと問われれば、美しい。だがそれは花の美しさではなく、研ぎ澄まされた剣の美しさだった。触れれば切れる。近づけば斬られる。そういう種類の美だ。目を奪われるのではなく、目を逸らせない。恐怖と畏敬が混ざった、逃げ場のない美しさ。

 商人の外套を羽織っているが、身のこなしが明らかに違う。歩き方が違う。足音がしない。呼吸の仕方が違う。胸が動いていない。この女は——物を売り買いしたことなど一度もないし、おそらく人間の営みそのものを知らない。

 店の入口に立っているだけで、空気が変わった。温度が下がったわけではない。空気の密度が変わったのだ。重くなった。息を吸うのに力がいる。


「お前がアシュタルか」


 声が低い。命令に慣れた声だ。尋ねているのではない。確認しているだけだ。答えを待つ気もない。


「噂を聞いた——死なない病を調べ回っている商人がいると」


 アシュタルの鼓動が一つ跳ねた。だが顔には出さない。十五のときから商談の場に立っている。相手が海賊の頭目でも、役人の横暴な取り立て屋でも、心臓が暴れても顔は笑う。それが商人だ。


「噂は商売の種ですが、失礼ですがどちらのお方で? お名前を伺っても?」


 商人の顔で、商人の声で応対する。丁寧に。にこやかに。相手の素性が分かるまでは決して地を見せない。どんな取引も、まず相手を知ることから始まる。

 女は名乗らなかった。名乗るという概念が存在しないかのように、質問を無視した。名前を問われることに慣れていない——あるいは、名前を聞かれる立場にないのだ。


「お前の一族の印を消してやれる」


 空気が変わった。

 店の中の温度が一度下がったような気がした。壁に掛けた油灯の炎が揺れた——風はないのに。香辛料の匂いが一瞬消え、代わりに鉄の匂いが濃くなった。アシュタルの手首の印が、布の下でかすかに疼いた。銀色の紋様が熱を持つように脈打っている。

 印を、消せる。

 心臓が早鐘を打っている。これだ。呪術師にも神殿にも解けなかった印を消せるという。金を積んでも、頭を下げても、闇市場の奥まで足を運んでも見つからなかった答えが、向こうから歩いてきた。この女は何者だ。何を知っている。何ができる。

 だが——顔には出さない。ここで飛びついたら、相手の言い値で買わされる。


「それは大変ありがたいお話ですが。初対面の方にそう言われて、はいそうですかと頷くほど安い商人ではありません。条件は?」


 女の目が細まった。値踏み——いや、品定めだ。虫を眺めるような目だった。道端の石ころに口がついていたら、こういう目で見るだろう。


「印を消してやる。代わりにバアルを探せ」


「バアルを?」


 嵐の神の名が、女の口から出た。アシュタルの頭が高速で回転する。バアル。昨夜の嵐。温かい雨。赤い海。神殿の沈黙。そして——嵐の中で丘の上に立っていた人影。

 この女だ。昨夜、あの丘の上に立っていたのは。


「具体的に何をするんです? バアルを探すとは、どこへ行くんですか。期間は。リスクは。報酬は本当に印の解除だけですか。他に付帯条件は」


 矢継ぎ早に問う。商人の基本だ。条件の全容を把握しなければ、取引のテーブルには着かない。値段だけ見て飛びつくのは素人のやることだ。

 女は苛立ちを見せた。眉間に深い皺が刻まれ、金色の瞳に炎のような光が揺れる。腕を組んだ。その腕の筋肉が、袖の下でうねるのが見えた。


「必要なことは追々教える。お前は言われた通りにすればいい」


「追々、ですか」


 アシュタルは内心で帳面を広げた。条件不明確。開示拒否。相手方の義務不明。報酬の確約なし。こちらの義務は無制限。損害発生時の責任所在不明。中途解約条件なし。

 商人の目から見て、この取引は穴だらけだ。契約書にするなら赤字だらけで真っ赤になる。こんな取引書を持ってきた相手には、普通なら茶を出して丁重にお引き取り願う。


「申し訳ないが、その話はお断りします」


 静かに、だがきっぱりと言った。


「条件が不明確な取引には応じない主義でして。何をするのか、どこへ行くのか、どのくらいかかるのか。せめてそれくらいは教えていただかないと、値がつけられない。分からないものには値がつけられない——それが、うちの商売の鉄則です」


 丁寧な商人の言葉遣いだが、内容は明確な拒否だった。

 女の目が変わった。

 驚きだ。純粋な驚きが、金色の瞳に浮かんだ。人間に断られた経験がない——そんな顔だった。驚きが一瞬の空白を作り、その空白を苛立ちが埋めていく。だが苛立ちの前に、確かに驚きがあった。まず「こいつ、断った?」という戸惑いがあり、それから怒りが追いかけてくる。


「……断る?」


 声が低くなった。地の底から響くような声だった。


「人間が? 私に?」


 空気が一変した。店の中の温度が、今度こそはっきりと下がった。吐く息が白くなりそうなほどに。壁の油灯が激しく揺れ、一つが消えた。もう一つも炎が横に倒れ、今にも消えそうだ。天井の梁が軋む。棚の壺がかたかたと震え始める。この女の周囲に、見えない力の渦が巻いている。

 人間ではない。

 確信した。呪術師でも、魔術師でもない。もっと根本的に、存在の格が違う。人間がどれだけ力を鍛えても、空気の温度を変えることはできない。存在するだけで周囲を歪ませる力——それは、人間の領域にはない。

 アシュタルの背筋に悪寒が走った。足が震えそうになる。膝が笑いそうだ。逃げろと本能が叫んでいる。この場を離れろ、この女から離れろ、と。

 だが——足は動かさなかった。

 ここで退いたら、一族を救う手がかりが消える。この女は印を消せると言った。その情報だけでも、今の自分には何よりも価値がある。恐怖は経費だ。払えるうちは払う。

 震える膝を意志の力で押さえつけ、アシュタルは商人の笑顔を崩さなかった。


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